この夜のすべて
ひのてんR18

指差した先には『C9426』と記載がある。9が雑誌、4がムック本、26は旅行というジャンルだ。この最後の二桁を基準にして収納を分けるらしい。
プリントには00から98までのコードとジャンルの対応表が載っていた。本の裏表紙を見てCコードの末二桁を確認し、その数字と一致する付箋の棚に収めるまでが天子の任務だ。続き物や同じ作家の本はまとめて揃え、本の高さは左から低い順に詰めていくことにする。
火野は昨夜から選別に手を付けていたようで、収納待ちの数百冊が既に積まれていた。天子は両手に一冊ずつ持ち、Cコードを確認する。どちらも43、化学だ。考えてみればこの分類方法で去年も仕分けたのだろうから、火野の選別を通過した後でもある程度はまとまっているとみていいだろう。
ドアストッパーを噛ませた入口からリビングを覗くと、フローリングに座り込んだ火野が本を手にしては段ボール箱に、また手にしては横の山へ積み上げ、さらに手にしてはより丈夫なコンテナに詰めていた。選別先は三つあるようで、ひとつはこの本棚に戻すもの=つまり要る本、段ボールは恐らく処分する=要らない本、そしてコンテナがその他。要る本に選ばれたひと山を天子が運び入れ、黙々とコードごとに分けていく。

「これ、元から棚に分類してあったんですよね? だったら、要らないのをそっから選んで捨てるだけで済んだんじゃ」

「それがねえ。確かに去年しっかり分けたはずなのに、一年経つと全然違う場所になってたりするんだよ。新しく買ったシリーズがすごく気に入って、絶対ここに置きたいな、じゃあここにある本はこっちでいいや、ああでも分類違うな、まあいいか、と思いながら頻繁に入れ替えてるうちに、ね。すぐ手に取れるように棚の上に置いたり、積読だってあるし」

恐ろしいほど几帳面な性格ばかり見てきたせいか、彼の人間らしいがさつな面を初めて知った気がする。

(引っ越しはどうすんだ?)

これらの本を段ボールにただ詰めていくのは簡単だが、詰めすぎては持ち上がらないし、新居に収納する際はもっと骨が折れるだろう。それこそ腰痛の危機だ。手伝いに行ければいいのだが。

「あっちの本は持ってこなくていいんですか」

あっち、とはウォークインクローゼットだ。うん、と火野は頷いた。

「あっちは全部小説だから、ここが終わってからやるよ」

なるほど、言われてみればこの書庫は図鑑や専門書、雑誌ばかりで小説の類いは全く無ーーいや、あるじゃねえか。部屋を見渡し、山の中に忍んでいた新潮文庫を発見した。釣り上げてため息をこぼす。この分ではあちらにも漂流本がいくつかありそうだ。

昼に差し掛かり、天子は駅ビルで仕入れた弁当とカップ麺をリビングのテーブルに広げた。勝手知ったるとばかりにケトルで湯を沸かし、三分を待ちながら弁当をかき込む。火野も休憩にコーヒーを淹れ、ソファに背を預けて天子の食事を眺めていた。

「夜はお礼に何かご馳走するよ。寒そうだけど、少しは外に出たいし」

「え」

ありがたくお言葉に甘えたいが、この時ばかりは天子も顔を引きつらせた。まさか、今日が何の日か知らないなんてことはあるまい。蓮華の街中はまばゆいイルミネーションに包囲され、カップルがどこからともなく湧いてくる戦慄の劇場と化す。その容姿に生まれておきながら、ロマンチックな駅前大通りを本当に男と歩きたいのか。正気の沙汰ではない。

「ん? 嫌だった?」

天子は他人からどう思われようと構わない。けれどいい意味で目立つ彼が、好奇の視線に晒されるのは我慢ならないかもしれない。
とはいえ、自分が考えつく程度のシチュエーションなら彼だって承知の上だろう。ならば断る理由もなく、甘んじて誘いを受けることにする。

「あの」

豪華なディナーに気を取られて忘れることのないよう、己にも言い聞かせるように口を開く。

「後でいいんですけど。話したいことがあるんです」

少しは驚いてくれるかと期待したのに、火野は意外にもすんなりと相槌を打った。返答にはむしろ天子の方がたじろいでしまったくらいだ。

「ちょうどよかった。僕にもあるんだ」

すかさずその内容を尋ねたくなるが、喉の辺りでぐっと堪えて頷く。後でいいと断ったのは天子だ。今訊いてしまったら、自分も話さなければならなくなる。爽やかな冬晴れの居間で、重たい話題を持ち出すのは避けたい。

(別れ話じゃねえよな)

一昨日の夜、コーヒーショップに連れ立った女性の姿が脳裏にちらつく。僅かな不安の芽を踏みつぶして、冷めそうなカップ麺を啜り込んだ。

ーーー

書庫の整理を終え、ウォークインクローゼットへ移ったのが午後二時半頃。こちらは全て文芸書(と信じたい)なので、特に分類せず作家順に並べればいいらしい。
入口に近い棚から日本人作家のあ行からわ行を並べ、次に海外作家のア行からワ行を部屋の奥まで詰めていく。複数作家で構成されている書籍、例えばアンソロジーなどは可動式の別棚に収納する。

「こういうのと文庫は分けなくていいんですか」

こういうの、と天子が掲げたのはハードカバーの書籍だ。本のサイズが異なるハードカバー、新書、文庫は書店でも基本的に区別されている。棚の高さに合わせて収納する方が、見栄えもよく探しやすいからだろう。いいの、と火野は首を振った。

「ハードカバーの本が文庫化するのって、だいたい二、三年はかかるんだよね。続き物だと、例えば二巻までは文庫で読んでて、最新刊の三巻はまだハードカバーだけど気になるから買っちゃった、っていう時もあるし」

「ふーん」

小説をほとんど読まない天子からすると、ハードカバーと文庫は全く別物に思えてならないがそういう背景があるらしい。確かに、二巻までは入口付近に置いてあるのに三巻は向こう側、というのも解せない並びだ。収納棚は全て十分な高さがあり、ハードカバーでもすっぽり収められる。文庫とハードカバーが入り混じる、高さのばらつき故の見栄えは捨てるしかない。
ひとまず天子が収納を優先して作家ごとに並べ、後から火野が任意で入れ替える形を取った。漫画のようにわかりやすく『1』『2』と背表紙に巻数が振ってあればその通りに並べられるが、文芸で続編を発行する際は『賢者の石』『秘密の部屋』などメインタイトルもしくはサブタイトルだけで示される書籍も多いため、『秘密の部屋』が果たして一巻なのか二巻なのか、未読の天子にはわからないのだ。いちいち奥付を確認するのも面倒で、そこは彼に任せた方が早い。

書庫の専門書と同様に、彼の選別をクリアした本を黙々と棚に入れ込んでいく。『ま行』を少し過ぎた辺りを目で追っていた火野が、ふと立ち上がって一冊の本を掴んだ。

「これ、ここにあったんだ。姫に貸そうと思ってたの」

真っ赤な装丁のハードカバー本を覗き込む。タイトルは『開かせていただき光栄です』。なんだそりゃ。しかし『由姫』と『開く』のキーワードで連想されるものは一つしかない。

「解剖ですか」

「そう。中身はミステリーだけど、あらすじを紹介したら読みたいって言ってたから」

言いながらトートバッグにしまい込んで、座り込んだ火野は再度選別に取りかかる。
天子も腕に抱えたままの、同じタイトルが並んだ文庫本数冊を一冊ずつ棚に戻していく。何とはなしに裏表紙へ目を落とし、あらすじを数行読んでぎょっとした。おい、これはまさか。

「どうかした? ーーあっ」

天子の動揺に気づいた彼が、文庫に目を留めた。小さく笑って釈明を述べてくる。

「それはすごく描写が繊細で、もう芸術と言ってもいい代物なんだよ。世間からあまり評価されてないのが残念でならないね」

「……」

あらすじは弁解の余地もなく正当な官能小説である。シリーズなのか、天子の腕の中と床に散乱したものを含めて十冊ほどあるようだ。
怒るに怒れず、かといって肯定もしにくく、天子は無言で聞き流しておく。こういったものを所有するのは男なら当然の振る舞いで、自分だって偉そうに言える立場ではないが、せめて目の届かないところに置いてほしい。気まずいにも程がある。
まぁ、今回は本棚というごく個人的なスペースに立ち会っているので仕方ないと言えばそれまでだ。最後の一冊を拾い、彼をちらっと確認してからぱらぱら流し読みしてみる。さぞかし妖艶で淫靡な交歓が繰り広げられているのだろう、と思いきや。天子の予想に反して、文体はどこまでも畏まっていた。つまり。

(何言ってんのかわかんねえ)

作者は空間恐怖症の気があるのか、紙面を隙間なく覆うように擬古体の文章が詰められている。三点リーダー多用の喘ぎ声はおろか、擬音語や擬態語すら見つからず、全体的に漢字の密度が凄まじい。カギ括弧の会話文すら、『比喩のための比喩』『のためのさらなる比喩』と非常に迂遠的な修飾のオンパレードだ。
行為中の状況はかろうじて伝わってきたが、女側の反応は皆無に等しく、ただ女体の有り様を淡々と描写するのみ。正直言って微塵もエロくない。本能に訴えかける前に脳みそが思考でやつれてしまう。
かの有名な源氏物語も、近代初期の文調で書き下せばこのようになるのだろうか。さらなる現代語訳が必要だ。

「昔、気胸で入院した時に暇すぎて、輝にお使い頼んだらそれを買ってきたんだよ。本人は嫌がらせのつもりだったらしいけど、僕には僥倖だったね。貸そうか?」

「いらね」

疲れた顔で本を閉じて、天子は作業を再開する。なんだか拍子抜けしてしまった。古代の男たちが作った渾身のエロフィギュアも、未来の博物館で展示すれば豊穣祈願の土偶となる。そういうことだ。火野も芸術と称していたので、彼にしてみれば美術館で裸婦像を眺めるのと何ら変わらない気持ちなのかもしれない。
何にせよ、目を覆うような低俗丸出しの本でなくてよかった。安堵しつつ、外国人作家の収納に取りかかった。


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