この夜のすべて
ひのてんR18

「よその家庭ってそれぞれだから、なかなか想像がつかなくて」

「あー、まぁ」

そりゃあ総合病院の院長様はパチンコなんて打たないだろう。天子の父親は『学年二位なんてすげえな、俺の子じゃないみたいだ』などとおどけてくれるが、彼の場合は全国トップの成績でも当然のように受け取られてしまうのかもしれない。

「親と敬語で喋ったりするんですか」

いくら一人暮らしとはいえ、時々は実家に帰ることもあるだろう。きっとエントランスホールにはシャンデリアがぶらさがり、吹き抜けの二階フロアに向かって左右の階段がそれぞれ伸びていて、彼が疎ましく思う家政婦やメイドや執事がお帰りなさいませと顔を揃えているのだ。庶民がイメージする、典型的な金持ちの家。
火野が瞳を僅かに見開き、やや間を置いてからこっくり頷いた。

「そう、だね。父は、敬語で話したことしかないかな。強要されているわけではないけど」

「マジか」

人を傅かせ、従わせるだけのオーラを持つこの人ですら、丁寧語で会話せざるを得ない相手。どうしよう。今後何かの機会でお目にかかった時、果たしてまともに挨拶できるだろうか。彼がもし女だったら、父親に『娘さんをください』と言える勇気は恐らくない。いや男の場合も許可を得るのは変わらないか。どうする、俺。
天子が勝手に未知の不安を覚えているとも知らず、近づく街の明かりを眺めて火野は問いかける。

「ところで、本当に予定ないの? お友達とも遊んだりしない?」

「え? ああ、クリスマスか。よっぽど暇なら遊びに行くかなって感じで、その…」

泊まりに行ってもいいですか、と尋ねる前に、彼が先に答えを提示してくれた。

「手伝ってほしいことがあるんだけど、うちに来てくれる?」

「はい」

あまりにも即答だったので、彼も少々驚いた様子だ。

「いいの? 部屋の掃除だよ?」

「全然いいです。俺も、行こうと思ってたし」

照れを隠してさり気なく付け加えると、彼は嬉しそうに天子の髪を撫でた。

「ありがとう。毎年本棚の整理をしてるんだけど、重たい上にかさばるから、去年の年末は腰を痛めて大変だったんだ。今年は誰かに手伝ってもらおうと思って」

まだ若いのに、腰痛に怯えなくてはならないとは難儀なものだ。受験生たるもの、万全の体勢で年を越してもらわなくては困る。
日頃から何かと食べ物を恵んでもらったり、スパルタながら勉強を教わったりと、彼には感謝してもしきれないほど世話をかけている。一日くらいなら、奴隷として力仕事を請け負うことも厭わない。
ただし、こちらとしても条件がひとつだけある。

「頑張るんで、他の人間は呼ばないでください」

わかってるよ、とでも言いたげに頷いて、火野はコートのポケットに手を入れる。掴み出した携帯は震えており、着信ランプの点滅を確認した彼がひらりと手を振った。

「ごめん、電話きてるから。じゃあね」

「あっ」

「もしもし、火野です。はい。大丈夫です、ありがとうございます」

駅の改札付近まで来ていたせいか、彼はあっさりと背を向けて駅ビルへ進んでいく。上りの電車がここを発つまであと十分少々。普段なら、もう少しこの辺りで話してから別れるのだが。

(まだ、時間大丈夫だよな)

改札に通学定期を吸い込ませてから、電車に乗り込むまでは歩いて二分とかからない。闇に紛れてしまった彼を追うべく、天子も自然と足を前に出していた。
蓮華駅の改札口は地上二階に位置しており、駅ビル・ラモーブの二階入口とペデストリアンデッキで結ばれている。憲法やら反戦やらのビラをまく団体を無視してデッキを抜け、社会人と学生の群れから彼を探す。既にビルへ入ってしまったのだろうか。
アパレル、スポーツ用品、ギフトショップの赤白緑。クリスマスセールのチラシが入口掲示板にベタベタと貼られている。自動ドアをくぐった天子は彼の姿を遠目で認めるなり、そばのクリスマスツリーへ素早く身を潜めた。彼は、ひとりではなかった。

(誰だあいつ)

大きなツリーの陰からそっと様子を窺う。相手はロングヘアの女性だ。トレンチコートにふかふかのボアスヌード、ロングブーツとシルエット良く、かつ寒さ対策に余念のない彼女は、彼と親しげに話し込んでいる。化粧は薄めだが、もともと目鼻立ちがはっきりとした顔立ちらしい。天子から見ても充分美人の範疇に入る。年齢は大学生か社会人か、二十歳を過ぎた辺りに見えた。
二人が入口側に歩いて来たので慌てたものの、彼らはクリスマスツリーに目もくれず、入口右手にあるコーヒーショップへ連れ立って行った。天子は唖然とする他ない。

(やべ! 電車!)

尾行している場合ではない。携帯を引っ張り出すと、発車時刻まで四分を切っていた。コーヒーショップはペデストリアンデッキに面しており、今来た道を戻ると窓から見えてしまうかもしれない。やむを得ずエスカレーターで一階に下り、外に出て上り階段で蓮華駅の改札を目指した。
帰宅ラッシュの混雑車両になんとか乗り込み、ものの三十秒も経たないうちに電車のドアが閉まる。

(誰だったんだよ)

ドア近くのポールにもたれて深く息を落とす。
直前にかかってきた電話も彼女だろうか。仲良さげな会話の様子からして、顔見知りなのは間違いない。連絡が来た時偶然近くにいたので直接会って話した、そんな流れがしっくりとくる。
前もって彼女と会う約束をしておきながら、図書館に行くと嘘をついた可能性もなくはないが、一緒に帰ろうと誘ってきたのは火野の方だ。予定には無かった事態と見ていい。
果たして彼女とはどういう関係なのか。電話が済んだ後で『人と会うからまたね』と別れてもよかったはずで、着信の段階から天子を遠ざけた辺り、彼もある程度は用件を予想していたのかもしれない。

こんなこと、本当はいちいち考えたくもないのに。悩んだところでどこの誰と判明するわけでもなく、火野を信じきれない己にも腹が立つ。
離れていても、会えなくても、好きでいると決めたのに。そんな決意すらたやすく揺らいでしまいそうで、天子は俯いたまま唇を噛み締めた。

U.

暮れも押し詰まる十二月二十四日。
天気予報は快晴のち雪。気温は低いものの風もなく、惜しみなく降り注ぐ日差しで気分は温かい。絶好の掃除日和に加え、夜は初雪が舞い落ちるホワイトクリスマスになるでしょうとのことだ。天子には不要だが、これで世間の恋人たちはより一層浮かれた夜を過ごすのだろう。

ラモーブ一階のスーパーに寄ってから、駅裏の坂を上ってマンションを目指す。十時ちょうどに玄関を開けて出迎えられ、天子は思わずぎょっとした。

「どうかした?」

自室でくつろいでいたせいか、彼はいつもよりラフな服装だった。ボトムは普通だが、何だその、Vネックのニットは。制服ならシャツの第一ボタンまでかっちりと留めているくせに、今は惜しげもなく鎖骨を晒している。今更意識するような関係ではないが、見てはいけないような気がしてそそくさと横をすり抜けていく。
暖房の効いたリビングにどっと荷物を下ろし、腕まくりをしながらまず書庫と対峙した。

この家で本が大量に置いてある場所は主に二か所。ひとつが書庫、もうひとつが寝室の奥にあるスペースだ。
書庫はリビングからドア続きになった六畳の部屋で、壁の三面を覆う本棚にみっしりと本が詰まり、腰の高さまでの山が床にいくつも積み上がっている。ざっと見て三、四千冊はあるだろう。現在本棚に収納されている本は僅かで、残りは選別のため外のリビングに雪崩の如く溢れていた。
寝室の奥には三畳程度のウォークインクローゼットがあり、こちらも第二の書庫と化している。衣類に全く興味のない火野は、チェストとワードローブのみで服の収納が足りてしまうらしい。余ったクローゼットが本棚になるのはもはや必然的だった。ラックと可動式の棚をフル活用して作られた第二書庫では、やはり二千冊以上の本が待ち構えている。早くも眩暈がしてきた。

「逃げるなら今だよ」

天子のモチベーション低下を察した火野がそっと耳打ちしてくる。冗談じゃない、大事な恋人を腰痛にしてたまるか。男に二言はない。

「僕は要る本と要らない本を分けるから、てんこは要る本をジャンル分けしながら棚に収納してほしいんだ」

手順はこうだ。
@まず本をひと山選び、要るものと要らないものを火野が仕分けする。
A要ると決めた本を天子に渡す。
B天子はそれらを分類して棚に収める。

棚には『20』『41』『44』など彼の字で付箋が貼られていた。首を捻ると、彼が一枚のプリントを寄越してくる。

「Cコードって知ってる?」

「ギターかなんかですか」

「ふふ。じゃあISBNは?」

「本の番号みてえなやつ」

「そう。ISBNは図書の国際規格コードで、ISBN978もしくは979から始まる。言語圏や出版社がわかるコードだね。Cコードは日本図書のコードで『C』と四桁の数字で構成される。ISBNの下辺りに書かれるよ。ほら」

火野が拾ってみせたのは某観光情報雑誌。天子の知り合いの中でも五指に入るほどインドアの彼が、まさか購入したのだろうか。長野県って。まあ、それはいい。


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