serum
ひのてんR18

『今、蓮華駅にいるんですけど』

蒸し暑い夜風を浴びながら、僕はベランダで瞬きをした。



掃き出し窓を閉じてすぐに、リモコンでエアコンの設定温度を下げた。空気清浄機のスイッチを入れ、少々肌寒くなった部屋を出てクローゼットから薄手のカーディガンを選ぶ。特に散らかってはいないけど、ロボット掃除機も動かしておいた。

突然どうしたのかな。当然ながら事前の連絡は来ていなかった。休暇中とはいえ、数日前にも部活で顔は合わせているのに。

『今夜は全国的に熱帯夜となるでしょう』

夜のニュースがそう告げたところで呼び鈴が鳴る。
玄関のドアを押し開ければ、私服姿の彼が額の汗を拭いながら立っていた。右肩がざっくりと開いたトップス。下に着ているタンクトップと首筋が露わだ。僕は決してファッションに明るくないから、きっとこれが世間の流行りなんだと思っておく。

「こんばんは」

第一声の挨拶をおざなりに発して、彼はちょっと気まずそうに俯いてみせた。

「突然来てすみません。朝になったら、帰ります」

『気づいたら終電に飛び乗っててーー上りの終電はあと五分で出るし、ダメなら、帰りますから』

約束もなしに無茶な懇願を聞かされて、快く迎えてあげるほど僕はお人好しじゃない。この子もきっとそうだろうと思っていたから、裏切られたような気持ちが一瞬だけ芽生えた。けれど彼がこんな暴挙に出た理由を少しだけ知りたい気もして、いいよ、と承諾して今に至った。
電話越しならともかく、しおらしい態度を見せられると怒る気にもなれない。駅裏の坂道で拵えた汗の粒を一瞥して、彼を室内に招き入れた。

「外、暑かったでしょ。お風呂入ってきたら」

冷たい口調にならないように、なるべく優しく促してみる。すると彼は元から大きい瞳を一際見開いて、ほっとしたように頷いた。
浴室にナップザックを引きずっていく後ろ姿を認めて、キッチンの隅で山を作っている品々の処理を頼もうと画策した。

ーーー

恋人なんていらない。
とある事情でとっかえひっかえしていた時期を経て、高校で部活という己の確固たる場所を見つけて以降、そう思うようになった。自分が恋愛にひどく不向きであることもわかっていた。どうでもいい人間と交際したところで得られるものなどない。かといって、大切な人間はどんなことがあっても絶対に傷つけたくない。世の中のあらゆる人間が自分の中で二極化されている以上、そのどちらとも一定の距離を置くのが正しかった。
彼の第一印象は『変わった子』だった。実際に会話して得た印象は『面白い子』で、嫌われているのはわかっていたけれど、こんな子と毎日話せたら楽しいだろうなと軽い気持ちで勧誘した。もちろん断られたから、姫をそそのかして何度も連れてきてもらった。優しい先輩のフリなんてする必要もなく、ただ心に浮かんだ言葉をそのまま口に出せる相手は貴重だった。彼はシニカルで口も悪いけれど、頭の回転が速く、物分かりもよかった。ファーストフードの株主優待券をちらつかせると解剖サンプルの仕込みもしぶしぶ手伝ってくれて、そういう部分は少しだけ可愛いと思えた。だから、僕を嫌っても構わない存在として選んで、悪事の片棒を担いでもらったのに。返ってきた言葉は侮蔑ではなく、愛の告白だった。
気の迷いでないことは本人の気質からも窺えた。ストックホルム症候群なんてちゃちなマインドコントロールが効くような繊細な神経はしてないはず。拒絶もできたけど、話し相手としては得難い人間だったから、入部を許可してそばに置くことを選んだ。

しばらくして、何度目かのアプローチで『どうしようかな』と困ってみせた時、彼の瞳が一瞬ぐしゃりと歪んだのを見た。
体のパーツはどこもそれなりに整っていて、僕はあの子の目が一番好きだった。並大抵のことでは揺らがない、意志の強い双眸。だからあの時、これが欲しいと思った。この目がとろける瞬間を見てみたい。自分の一挙手一投足に動揺して、煩悶して、困惑する彼が見たかった。
無論、その一瞬だけの思いで承諾できるほど軽い話じゃない。今後、好みの女の子が現れても振り切れるかな。自分の領域に、どこまで踏み入られても許せるかな。そうした初歩的なことはもちろん、恋人になるにあたって避けられないのはやっぱり性的な事情だった。
女の子が相手なら、よほどでない限りはどうとでもなる。男ね、男。経験がないわけじゃないけど、本能的にどうなんだろう。そもそもあの子、僕にどうこうされる気なんて微塵もないんじゃないの?
考えてみたものの、実践してみないことには未知数だ。まあでも、こういうことを考える時点で粗方受け入れる準備はできていたんだと思う。

『恋人らしいことはすぐにできないかもしれないけど、それでもいい?』

ぽかんと泡を吐いた金魚みたいな顔をして、彼はしばらく固まっていた。やがて首筋や頬に赤みが広がると、ぱっと口許を押さえて静かに頷いた。溶け出しそうな、熱っぽい目をして。

ーーー

「おかえり。お腹空いてる?」

タオルをかぶってリビングに現れた彼は、寝間着らしいオーバーサイズのTシャツとハーフパンツに着替えていた。ぺしゃんこになった髪をがつがつと雑に拭う隙間から、血色のいい頬が覗く。よく見たら、髪は毛先に向かってところどころ赤くメッシュが入っていた。夏休みのお楽しみかな。姫が見たら癇癪を起こしそう。

「空いてます。ババアが夕飯そうめんにしやがったから」

裸足でソファセットに近づいた彼が、テーブルを見てぎょっとした。ハムにチーズ、海鮮にフルーツ。バランスよく並べてみたけど、さすがに取り合わせが微妙だったかな。

「何ですか、この高そうなやつ」

「お中元。親戚が送ってくるんだよ。溜まる一方だから食べてくれると助かるんだけど」

日持ちするものは夏休み明けに部活で食べてもらうつもり。取っておけないものは捨てるか、まとめて輝の家に叩き込もうとしていたからちょうどよかった。
ソファではなくソファとテーブルの間にいつも通り座り込んで、彼は箸を取った。厚めに切ったハムをぱくりとして、ん、とくぐもった声を上げる。咀嚼しながらもう一切れ。口に合ったみたい。
テーブルを陣取るギフトセットから、取り皿にぽいぽいと好物を移しては口に収めていくところを見ると僕も気持ちが和む。この子や立花はひと口が大きくて、食べ方もきれいだから余計にそう思う。満たされたのは彼も同じようで、入浴前までの気まずそうな雰囲気はどこにもない。
キッチンに放置したままの機械を横目に、手招きで彼を呼んでみる。

「何、それ?」

口をもごもごさせて、すっかりくだけた口調で彼が覗き込んでくる。外観は身長を測る装置に似ていて、高さは四十センチほど。身長計だとつむじが当たる部分から、細長い針のような金属が下に伸びている。

「これも、もらいものなんだけど。炭酸水が作れるんだよ。原料が水だから、ジュースみたいに甘くはないけどね」

「マジか」

炭酸飲料を好む彼の瞳がちょっと輝いた。こういうところは年相応で可愛い。
試しに専用ボトルをセットしてボタンを操作すると、金属棒を伝って水に勢いよく炭酸が加わる。おお、とびっくりした様子の彼に思わず笑みが浮かぶ。

「微炭酸とか強炭酸も設定できるけど、とりあえず中間ね」

ボトルを取り外して、氷入りのコップに注ぐ。渡したコップに口をつけて、彼は感心したように唸った。

「すげえ、炭酸だ。え、これどうなってんですか? 炭酸どっからきてんだ」

「この機械の中にガスボンベみたいなシリンダーが入ってるの。なくなったら交換。カセットコンロと同じだよ」

「あー、そういうことか。んじゃ高いな」

たぶんランニングコストを計算したんだろうね。ここにあってもあまり出番がないし、欲しいならあげてもいいんだけど、お金がかかるならいらないって言いそう。ここに来た時存分に使ってくれれば僕はそれでいい。コップに継ぎ足しているのを何気なく見ていると、飲まないんですかと尋ねられる。

「アロエジュースはそのままの方がおいしいから」

と言うと苦そうな顔をした。ちょっと笑って、普段は戸棚に隠してある瓶を取り出してくる。氷を入れたもう一つのコップに、琥珀色の液体を少しずつ垂らして。

「こうして魔法のシロップを入れるでしょ」

「いや、それ酒…」

「で、ここに炭酸を注ぐよね」

しゅわしゅわと爽やかな音で琥珀色が希釈されていく。あまり薄めてはつまらないから、1:3くらいで我慢しておこう。ほらね、と飲んで見せれば、彼は呆れたように息をついた。

「シロップなら俺も飲んでいいですよね」

「どうかな。これ飲むと体の成長が止まるって噂だよ」

まだ身長が伸びる余地を残している彼に言うとおとなしく引き下がった。まるっと信じてはいないだろうけど、可能性があるなら避けたいってところかな。でも、それ以上は伸びない方がいいよ。180センチを越えて以降はデメリットしか感じていない。


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