あたらよの宴
ひのてんR18

「天子くん!」

自分でほとんどたいらげた膳をワゴンで押して戻ると、冷や汗のかきすぎでいっそう生白くなった鈴木が素早く駆け寄って来た。

「どうだった? ご満足頂けたかな、火野様には」

己の半分も年を取っていない相手にそこまでへりくだる意味がわからない。たとえ自分が五回転生しても接客業には絶対に向かないだろうと思いつつ、天子はてきとうに頷いた。

「あー、はい。喜んでました、たぶん」

旨い旨いとがっついていた天子を見て、たぶん。

「そう! それはよかった」

「んで、鈴木さんに伝言があるから伝えてくれって言われたんですけど」

瞬間、鈴木は見ていて哀れなほどに血の気をなくした。天子も人をいたぶる趣味はないので内容を端的に話してやる。

「あの人…いや火野さんが、同世代の人が周りにいなくて寂しいから、俺の仕事に支障を来さない範囲でしばらく話し相手になってくれないかって」

はーっと鈴木は深々と安堵の息を漏らし、もちろんだよ!と天子の両肩を掴んだ。喜怒哀楽の忙しい奴だ。血圧の乱高下でいつか倒れないといいのだが。

「行ってくれるかな! いや、ぜひそうしてさしあげなさい! 君も蓮華高校だし、よくご存知のはずだろう。しっかりとお話を聞いておいで。言うまでもないが、くれぐれも粗相のないようにね。ご学友であっても、今日ばかりはお客様なのだから接待と思って頑張りなさい。ああいいよ、片づけは桧垣くんたちに頼むからほら、お待たせしないようすぐに戻って」

厨房を遠目に見やると、小畑が長嶋の隣でせっせと料理の仕込みを手伝っていた。あの位置なら天子が不在でも宴会場の用事を頼まれることはないだろう。くるりとUターンして旧館の居室に荷物を取りに行く。

(ちょろすぎる…)

火野の作戦は予想以上にあっさりと成功してしまった。荷物をまとめればすぐにでも葵の間にとんぼ返りできる。が、喜び勇んで部屋に舞い戻るのも浮かれているのが明白で恥ずかしい。気持ちを落ち着かせるべく、畳まれた布団の周囲に散らばった充電器などをわざとゆっくり鞄に戻していく。

(あんなに、はっきり言われるとは思わなかった)

迂遠的な台詞で別れ話だと誤解させた経緯もあってか、きちんと言葉にすることを火野も意識したに違いない。確かに勘違いのしようがないが、それにしても驚かされた。ここのところ、求めるのはいつも自分ばかりでもどかしさを抱えていたのだ。湯水の如く熱情を浴びせられたらショック死してしまう。
この関係に至ったばかりの頃は、ずっとやりきれない気持ちで隣にいた。どう考えたって天子の方が相手を好きでいるのに、触れようとすれば頑なに拒まれて。業を煮やしていたら、僕が触れるならいいよと条件を提示されて、しぶしぶ呑んだ。そうして呑まされたまま今を迎えている。
不満がないと言えば嘘にはなるが、勘違いとはいえ一度は離れてしまったはずの手が伸ばされているのなら、食べ尽くされることも厭わずその手を掴みたいと願う。欲しがっているのは己だけではないのだと、優しく教えてほしかった。

行燈に照らされた渡り廊下を進み、角をいくつも曲がって奥の部屋に近づいていく。八階は葵の間の他にも部屋があるはずだが、酒宴に夢中なのか入浴の時間帯だからか、誰ともすれ違うことはなかった。
喫煙所の横の自販機で炭酸飲料を買ってから葵の間に到着すると、布団を敷いていた火野が目を瞬かせた。

「ずいぶん早いけど、もう仕事はいいの?」

「待たせないようにすぐ行けって」

「そう。大人は単純で助かるね」

清潔そうなシーツをばさりと広げ、端を丁寧に折り込みながら彼は頷く。手伝おうかと屈みかけたが、いいよ、と火野はかぶりを振った。

「疲れてるでしょ。お風呂入ったら」

何気ない台詞にすら頬が赤みを帯びそうになる。この部屋に備え付けの浴衣と帯を拝借し、無言で襖の外に出ようとすれば笑って止められた。

「違うよ、あっち」

掃き出し窓の奥で灯籠の明かりが手招きしている。そうか内風呂はないんだなと特別客室たる所以を思い出し、ナップザックを籐椅子に放って秋の夜に踏み入ろうとした。しかし寸でのところで足を止め、部屋側のカーテンをしっかりと閉めてから外に出る。今更恥ずかしがるような関係ではないが、無防備なところを覗かれるのは心許ない。

板張りのデッキを左に行くと、突き当たりに洗い場付きの小さなシャワーブースがある。そこを出て三歩と歩かないところに、直径二メートルほどの円い檜風呂が据えられていた。庭園に直接造りつけてあるため、高さのあるデッキに座れば足湯になりそうだ。部屋の角度的に、窓際に座れば仄かな明かりでも浴槽が見えてしまう。やはりカーテンは必要だった。火野は無理に開けたりしないだろうが、つい気になってちらちらと窓際を窺いながら作務衣を脱いだ。
洗い場で汗を流し、入念に体を磨く。あまり口に出したくないような準備も軽く済ませたところで、浴槽の手すり付きの階段を下りて足から湯に入った。そこそこぬるめだ。正直物足りないが、外気にずっと触れているのだから湯が冷めるのも無理はない。
ざぶんと肩までつかり、床を蹴って外界とを隔てる衝立まで寄っていく。木製の衝立は所々が十五センチ四方にくり抜かれており、顔を覗かせて外の景色を眺めることができる。

(特に面白いもんなんてねえけど)

線路上の陸橋をいくつもの車が走っていたり、施設のあちこちで湯けむりが上がっていたり。幼い頃から変わらぬ風景だ。
くるりと体を反転させて、カーテンが閉まっているのを執拗に確認してから空を見上げる。上弦の月とアンドロメダ座を認めて、静かに目を閉じた。さらさらと湯の流れる音だけが耳をくすぐる。
立ち仕事ばかりでこわばっていた四肢が、温かな湯に揉まれてゆっくりとほぐれていく。平らな胸から腹をひと撫ですれば、無意識にため息がこぼれた。

(いつかは飽きられるのかもな)

凹凸も柔らかくもなく、特別均整がとれた肢体でもない。自分の場合は体のつくり以前にまず火野という時点で欲情できるわけで、彼は何に惹かれているのかさっぱりだ。
あれでも一応女には『こういう体型がいい』との明確な好みがあるらしいので、好き好んで男を抱きたいわけではないと思う。それでも一度きりで終わらず応じてくれているから、きっと何かがあると信じたいのだが。
体に限っての話ではなく、自分を選んでくれた本当の理由を知ることができたら、もっと自信が持てるのだろうか。

ーーー

「大丈夫?」

「……じゃない」

浴衣の裾を踏みそうになりながら、ふらふらと布団に倒れ込む。肌という肌がじんじんと熱く、冷たいシーツが頬に心地いい。陸に打ち上げられた魚のようにはくはくと息を取り込むと、火野が銀色の水差しから水を注いで持ってきてくれた。脳みそに響くほど冷たい、血清の如き氷水。コップ一杯を飲み干すなり、ぐったりと寝そべって目をつむった。
入浴はさっさと済ませるのが天子の信条だ。いくらぬるめとはいえ、長湯しては湯あたりもやむを得ない。体の熱を排出すべく、浴衣の内側が湿り始めている。なんのために風呂に入ったのか。
一方、火野は先程までそうしていたように、隣の布団に座って読書を再開した。ページをめくる微かな摩擦が時折耳を触る。いつもの小難しい専門書ではなく、『〇〇山荘殺人事件』と実にカジュアルな文庫だ。タイトルには地方の鄙らしい地名が入っている。ミステリーなど小馬鹿にするかと思いきや、意外なものだ。後で知ったが、こちらは一階の図書ラウンジからレンタルした本だった。旅館の経営者の意向で、絵本から経済書、ミステリーに写真集と幅広いジャンルの書籍を宿泊客に無料で貸し出しているのだ。

風呂を出たら、せめて自分から誘おうと思っていたのに情けない。相手にしてもらえない寂しさと相まって、ほふく前進で布団をズルズル這っていく。隣のエリアに踏み入って、華奢な膝におずおずと頭を乗せた。布に包まれているのに相変わらずの硬さだ。
濡れ髪に気づいたのだろう。天子が掴んでいたタオルをひょいと奪って、水気を取るついでに撫でてくれる。些細な気遣いで煮詰まってしまう胸の内が悔しい。
文庫本を閉じると、火野は手を止めずに口を開いた。

「僕は生まれた時から心臓が弱くてね。子供の頃はずっと家の病院で過ごしてたよ」

火照った頬に冷たい指が触れる。

「手術したおかげで退院して学校にも通うことができたけど、今でも定期的に検診してるんだ。いらないって言ってるのに主治医の先生がうるさくてね、仕方なく。年に一度は検査もするよ。それが、昨日だったの」


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