あたらよの宴
ひのてんR18

「逆に訊きますけど、株主なんですか」

「湯花原温泉もハロリゾートもここの大事な観光資源だからね。投資しておいて損はないでしょ?」

天子は当初、火野がひとりで住んでいるマンションの諸経費は彼の親が支払っているものと思い込んでいた。いや、恐らく化学部にも誤解している人間がいるはずだ。総合病院の御曹司と聞けば優雅な身の上を想像させるだろう。
ところが、こうして頻繁に家を訪れる仲になってから知ったのだが、実は家賃管理費その他生活費諸々全て、彼は自分の懐から出しているのだ。
その資金の捻出方法は主に投資。確かに、泊まり込んだ翌日は朝からパソコンで相場を追っているのも珍しくなかった。配当がどうとか節税がどうとかで、懐寂しい月末の天子にファミレスで餌付けする余裕もある。つまり、相当儲けている。しかし本人は書籍にしか金を使わない慎ましい生活を営んでいるため、貯金だけが溜まっていく。
投資のきっかけは体を動かさずに最低限の生活費を稼ぐためと聞いていたが、資金繰りの一環というよりは趣味の範囲でマネーゲームを楽しんでいるように思えた。今後は進学資金に充てるのだろう。

「ここの温泉は好きだし、のんびりするために毎年来てるんだよ。まさか会えるとは思わなかったけど」

「俺が酔っ払いに絡まれたの、見てたんですか」

宴会場にいればすぐにわかったはずだが、いったいどこで観察されていたのか不思議に思っていた。
火野が鯛の昆布締めを口に運ぶ。魚だ。紛うことなきタンパク質だ。彼の幼馴染が言う『あいつは人間の精気を吸って生きてる』を信じていたわけではないが、そわそわと妙に落ち着かない心地になる。

「あのフロアには小さい展示室があってね。中身が毎年変わってるからいつも散歩に行くんだ。今回は昔、湯花原へ湯治に訪れた文豪の資料が飾ってあった。しばらく見て、部屋に戻ろうとしたら宴会場の方で聞き慣れた声がしたから、そっと覗いたら、ね。直接仲裁に行ってもよかったけど、僕が知り合いだってバレないほうが都合がいいと思って」

長嶋が取り次ぐことも想定の上で、鈴木に急ぎの電話をかけたらしい。支配人といい酔っ払いといい、高校生のご機嫌取りに必死なのは彼の家柄が由来してか、それとも本人の気質か。
御曹司でありながら、親のスネも齧らず自立する理由はどこにあるのだろう。天子が把握しているのは父親が病院の院長という事実だけだ。こと家族においては特に、彼が最も避けたがっている話題といってよかった。

『青水焼の魅力をさらに深掘するとーー』

NHKは全国ニュースから、ローカルのそれに切り替わっていた。湯呑みと鉢の焼き物が映っている。いずれも淡い青紫色だ。ポットで茶を淹れつつ、火野が解説を挟む。

「青水焼だね。湯花原や高浪でしか取れない希少な粘土で作ってるんだよ」

「そんなのあるんですか」

有田焼や笠間焼じゃあるまいし、全国どころか地方でもメジャーとは言えない知名度だろう。現に地元民の天子も初めて聞いた名物だ。

「この辺りが昔炭鉱だったのは知ってるね。石炭を含む地層は夾炭層と言って、そこに粘土の層があるんだ。採掘の度に邪魔者扱いされてた点では温泉と一緒だね。すごく不純物が多い代わりに、違う土で化粧をすると青っぽく発色するんだよ。この色味が特徴なんだ、って陶芸部の部長が熱弁を振るってたね。去年、粘土を一緒に取りに行ったんだ」

「一緒に?」

陶芸部の部長とやらが男か女か知らないが、恋人として訝らずにはいられない。薄めの緑茶を湯呑みに注いで、火野が微笑む。

「もちろん化学部として、立花と水川も同行してね。土の成分を分析したかったし、焼き物は化合・酸化還元と化学の要素が多いからね。知識だけ詰めようとしても立花は全然覚えてくれないから、去年はそうやってよく課外授業に連れ出したよ」

なんだ、そういうことか。
露骨に安堵してみせ、画面に視線を戻す。工房に並ぶ、皿、マグカップ、一輪挿し。青水焼という名前は蓮華と湯花原の間、塩本にある青水のお堂から取ったのだろう。平安時代に建てられた国宝だ。

「陶芸部って、エリオスで部活してる奴らですか」

エリオスは旧音楽堂を取り壊して建てられた文化会館で、大小のコンサートホール、劇場を備えている。新設とあって地方随一の音響設備を誇り、以前はなかなか招待できなかった有名アーティストも公演に訪れるようになった。蓮華高校では毎年、そういった芸術方面に秀でた個人・団体を招いて全校生徒で鑑賞会を行うが、校舎では設備が心許ないのでジャンルによってはエリオスへ赴くこともある。
施設内はレストランにラウンジと一般に開放された場所もあり、陶芸部は主にラウンジで活動しながら、時々子供向けの体験教室を開いているらしいのだ。
おや、と火野が瞳を瞬かせる。

「よく知ってるね。僕たちほどじゃないけど、陶芸部も結構マイナーなのに」

天子は若干気まずそうにそっぽを向いた。

「あー、まぁ。うちのババアがエリオスで事務やってて」

「お母さんが? ああ、それでいつだったか姫にクラシックコンサートのチケットあげてたんだね」

『あんたはどうせ興味ないだろうから友達に配ってきて』と余ってしまったチケットを母親から押し付けられ、天子は一も二もなくそのまま由姫へとスライドした。長年ピアノを習っている彼女なら使うには困らないだろう。三枚あれば彩音や凛を誘う口実にもなる。日にちは固定だから既に予定が入っているなら仕方ないが、ひとまずは受け取ってもらうつもりでいた。そのジャンルが好きそうな人間に回してくれさえすればいいのだから。
ちょうど予定が空いていたのか、彼女はとても喜んでいた。丁寧に礼を言われ、天子はそれを最後まで聞かずにさっさと踵を返したものの、やはり『天子=クラシック』の等式に違和感を覚えたのだろう。『どなたから頂いたのでしょうね』と火野に雑談でこぼしたのかもしれない。
本筋から逸れたが、陶芸部の活動内容は母親から伝え聞く機会があったというわけだ。

「ーーあの」

どうにも引っかかっていることがあり、後回しになっていた話題を遠慮がちに切り出した。

「さっきの、体のことってなんですか」

薫同様に持病があるらしいことは聞いているが、デリケートな問題とあってこれまでは尋ねられずにいた。話してくれる決心がついたのなら、こちらも覚悟を決めて聞きたい。
彼は曖昧に首を捻り、「仕事は何時までなの?」と問いかけてきた。

「宴会が終わるまでお手伝いするの? でも高校生は働けても十時までだよね」

「もっと早く終わると思います。あのオッサン共どうせ夜中まで騒ぐから片づけは早朝ってことになってて、てきとうに配膳とゴミまとめたら終わりでいいって鈴木が」

小畑より無礼に寛容な火野はそのまま頷く。

「昨日から泊まり込みでって言ってたけど、学生用の部屋がどこかにあるの?」

「旧館の広間。雑魚寝ってか広い座敷に各自布団敷いて寝る感じで、女はひとりだから新館の空き部屋にいるっぽい」

小畑との雑談を思い出しながら答えると、火野は眼鏡の奥からひたりと天子を見つめた。久しく寄越されることのなかった流し目に思わずたじろぐ。

「その部屋に戻らないと怒られちゃう?」

「え?」

「ここに朝までいてくれないの?」

この上なくストレートな響きに箸を取り落としかけた。しどろもどろになりながら、震える指で白木の箸を掴み直す。

「そっ…別に、いられないことはない……けど」

心臓がばくばくととてつもない早さで脈打つ。油断していたところに突如爆弾を打ち込まれては狼狽も仕方ない。忙しなく口を動かして気を鎮めようとするも、あんなに美味だった牛肉の味すらわからなくなってきた。
そう、と当人はいたく満足そうに茶を啜っている。いったん意識すると湯呑みを包む長い指が妙に艶めかしく思えて、ひどく居たたまれない気持ちになった。

(浴衣がエロいってそういうことか)

彩音と凛が男の和装について熱い談義を交わしていたが、今、身を以て知ることができた。体のラインにぴたりと沿った格好も、袖と裾から覗く手足も、鎖骨と喉仏の凹凸も。隠されているようで隠されていない、蠱惑的な矛盾が心を掻き乱していく。
このままではいけない。封印したはずの欲が食を上回る前にと、箸で摘んだ小魚にかぶりついた。


next

×