あたらよの宴 ひのてんR18 |
「なんのこと?」 今度は火野がきょとんとする番だった。彼も天子に倣って畳にしゃがみ込む。 「最後の最後に贅沢しとけっていう、要らない優しさみたいなもんかって」 「別れたかったの?」 「俺じゃねえよ! 一昨日言ってただろ、話があるからって……それで…っ」 口を開く度に泣き言が溢れそうになり、天子はぐっと押し黙ってうつむく。しばしの沈黙の後、すべての事情を察した火野がゆっくりと頷いた。 「ごめん。あの時は、そんな話をしようとしたんじゃないよ」 諭すような優しい声に、天子は息を呑んで瞠目する。 「ここしばらくの間、てんこを放っておいたことの弁明であるのは確かだけど。結果的に紛らわしいタイミングになっただけで、全然違うことを話そうとしてたんだ」 凍り付いていた心にじんわりと温かいものが染み渡っていく。同時に、安堵と怒りと羞恥と、寂しさが綯い交ぜになって胸に襲いかかる。連休明けの火曜日を迎えるのがどれだけ怖かったか、彼には想像もつかないだろう。作務衣の生地をきつく握りしめていないと、今すぐにでも彼に飛びついて泣き叫んでしまいそうだった。 「だったら、何の話…」 「僕の体のこと」 全く予想だにしていなかった内容が明かされた。思わず目線を合わせたが、追及はいつもの微笑みでさらりとかわされてしまう。 「後できちんと話すから、もうそんな顔しないで」 「……勝手なこと言ってんじゃねえよ」 誰がこんな顔にしたと思っているのか。 天子は膝立ちで身を乗り出し、華奢な体躯にかじりつく勢いで抱きついた。涙腺を堰き止めていたこめかみがズキズキと激しく痛み、額を丹前に擦りつけて堪える。 「ごめんね」 躊躇なく抱き返されて喉が詰まる。せり上がるものを呑み込んで、ゆるゆると首を横に振った。 「違うんなら、謝らなくていいです」 腰の上辺りをぽんぽんと撫でながら、情動の奔流を決壊させる台詞を平気で口にするのだ、この人は。 狡いと思う。それでも許せるのは、簡単に欺けるはずの自分に、決して嘘をつかないからだろう。 「別れたいなんて、少しも考えたことなかったよ」 ーーー 「なんだこれ。マジでウニか」 今まで食べてきたものはウニを模したメレンゲだったのか。なるほど本物は旨い。 県産和牛で包まれたウニを咀嚼しつつ、地元特産である小魚の唐揚げにレモンを絞った。頭からばりぼり噛み砕き、続いて豚肉のしゃぶしゃぶをごまだれに絡める。 さすが古池屋で一番量が多いと評判の御膳で、育ち盛りの天子が本気で食しにかかってもなかなか減る気配がない。すっかり忘れていたおひつに手を伸ばせば、僕がやるからいいよ、と火野が茶碗を手にした。しゃもじでそうして白飯を盛っていると、バイトの身分で客に――というより彼に配膳をやらせているのが申し訳なくなる。 「一緒にって言ったのに食べないんですか」 よそわれた茶碗を受け取って天子が言うと、火野は横目でちらりと膳を一瞥し、黄緑色のグラデーションが入った蓋付きの椀を両手で持ち上げた。漆塗りの匙が付いている。茶碗蒸しだ。火野が好きだとは知らなかった。プリンみたいでプリンじゃない中途半端さが天子は嫌いだ。 匙を操る細い指を興味津々で眺める。まともに食事をしているところを初めて見たかもしれない。二口食べてから、持ち込んでいたアロエジュースを飲んで全てを台無しにしていく。でもまた食べ始めたのでやはり好きらしい。歯応えはないに等しいが固形物でカウントしておこう。 天子の視線に気づいたのか、半分ほど減った椀を置いて独り言のように呟く。 「好きな食べ物って、訊かれると困るよね。子供の頃は本当に困ったよ。給食を残して怒られたり、お菓子が好きで当たり前だと思われてるからいらないって言うと大人に変な顔されたり」 「え? あ、あぁ」 動揺が口に出てしまった。それもそうだろう。普段の彼は自身のことなど訊かれない限り話すことはないし、ましてや昔を振り返りながら感傷に浸るなんてありえない。この人に子供時代が存在したのか、本当に。 纏う雰囲気もいつもとはどことなく違う。恋人という関係になっても『ここまで』と必ず線引きして天子を近づかせない部分があったのに、その境界線が今は感じられない。 (俺が、泣いたからか) このひと月の間。火野の態度に不安を覚えてもそれを尋ねられなかったのは、心のどこかで彼を怖がっていたからだ。何を考えているかわからなくて、けれどその『わからない』ことを彼に知られたら『やっぱり理解できないんだね』と言われてしまいそうで怖かった。もちろんその反応は天子の想像にすぎないが、面倒くさい奴だと思われたくなくて必死だった。 そんな我慢を目の当たりにしたことで、火野も考えを変えたのかもしれない。天子が自分を抑えずにいられるよう、鉄壁の守りを崩して隙を見せてくれたのだろう。そこまでしてくれなくても天子の気持ちは確固たるものに違いないが、歩み寄ってくれる姿勢は嬉しかった。 「そういえば、どうしてここでバイトしてるの?」 歴とした進学校である蓮華高校は言うまでもなくバイト禁止だ。火野もその点を咎めているわけではなく、一般の求人で出ていないような仕事なので疑問に思ったらしい。醤油に飽和量ぎりぎりのわさびを溶かして天子が答える。 「俺の中学のダチに佐藤っていうニートがいて、そいつの親戚がここと太い繋がりでバイトを無理やり斡旋されたらしいけど、まぁニートだからやる気ゼロで俺に誘いが来たってわけで」 「同級生? 高校には通ってないってこと?」 「クラスが一緒でした。頭は悪くねえのに変な奴で、中学も半分不登校だけどどうにか卒業してからはほぼ引きこもり。金持ちの家族と仲悪いからって離れに住んでて、パソコンに向かってずっとゲームとかプログラミングしてる感じで、一応小金はそれで稼いでるっぽい」 へえ、と火野は興味を惹かれたようだった。そうなる気がしていたからあまり喋りたくなかったのだが、親友とも呼べる存在なので紹介くらいは許してやろう。 「本人は大学なら行きたいとかほざいてるけど高校はさすがに行かないとってわかってるんで、今年度は国高未来受けるって言ってました」 「中等部に凛ちゃんの弟くんがいる学校だね。すごく自由な校風って評判の」 国高台未来学園は数年前に創設された中高一貫校で、生徒の自主性を何よりも重んじる学校として人気が高い。凛の弟・弥生は英国クオーターという外見もあり、小学校で嫌がらせやいじめのターゲットになっていた経験から、様々な生徒を受け入れている未来学園を志望したらしい。 佐藤はプログラミングの実践授業がある点と、授業が単位制・成果制などを選択できる点に魅力を感じたようだった。彼にとって、毎朝同じ時間に起きることは至難の業といってもいい。 「てんこはそこに進もうとは思わなかったの?」 唯我独尊を貫き、校則を無視し続けている天子も高校選択時はもちろん興味があった。だが。 「高校で私立なんて言っても『うちにそんな金はない』で終わるし、担任が学力的にもったいないって言うから仕方なく」 「お金のことは残念だけど、成績はそうだね。バランスよく点数が取れるんだから、大学進学まで考えたら普通科で進むほうが得だと思うよ」 全統模試でトップ層に食い込む人間から褒められても素直には喜べない。 「でも、バイトを肩代わりしてあげるなんて優しいね」 「別に義理じゃねえけど、金持ちだけあって普段からよくメシ奢られたりーーいや引きこもりだからコンビニで俺がそいつの金で二人分買ってきたり、昔俺が家出した時もしばらく住ませてもらったり、そのへんの貸しを返してるだけです」 天子は外界から食料を調達し、佐藤は場所と娯楽を提供する。そうした持ちつ持たれつの関係は四年に及んでいる。 海外のプログラミング仲間と頻繁にチャットでやり取りする彼は、天子が年上の男に告白したという衝撃的な出来事を伝えられても『へー、意外だね。まぁでも偏見ないよぼく、ドイツにゲイの友達いるし』とあっさり受け入れてしまった。 彼自身は今のところ恋愛経験も恋愛願望もないようで、『いつかぼくに恋人ができた時の教訓にするから、何か進展あったら聞かせてよ』と言ってくれる。火野の存在を知らない人間のほうが、天子もいろいろと話しやすかった。 →next ×
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