あたらよの宴
ひのてんR18

「こんなサービスでは出すものも出せんな。来年からの投資は考えさせてもらう!」

「そんな! お願い致します、どうかご支援の余地を――ほら君も! 誠心誠意謝りなさい!」

「うるせえ! 自分が悪くねえのになんでこいつになんか――」

「支配人!」

精一杯に振り絞られた声が前方の襖から届いた。仲居のリーダーである長嶋が、コードレス電話機を手に天子たちめがけて息を切らせて来る。

「お電話です! 今すぐ、支配人をお願いしますと」

「後にして下さい! 私は今大事な話を」

「葵の間のお客様からですよ」

長嶋が僅かに逡巡して付け加えた瞬間、鈴木の表情がさらに青くなるのを天子は見た。恐る恐る電話を受け取った彼は、咳払いののちに至極丁寧な口調で名乗ってみせる。

「支配人の鈴木でございます! はい、いつも大変お世話になって…は? 穴熊様を、ですか? はい! 少々お待ち下さいませ! 穴熊様、お願い致します」

鈴木が電話機を掲げるようにして持ち上げれば、乱暴に奪い取った男が大声でがなり立てる。

「俺だ! どこのどいつだか知らないが、いったい何の用……え…い、いや、その」

みるみるうちに男の顔色がなくなり、威勢のいい声があっという間に萎んでいく。開け放したままの襖を時折気にするように、目がちらちらと泳いでいる。しどろもどろになりながら、下手な愛想笑いを含めて男は太い首を揺すった。

「いえいえ、なんでもありませんよハハハ、バイトがね、いけ好かなかっただけですんで。それよりのちほどご挨拶にーーあ、結構ですか、でははい、今後ともどうぞよろしく。ええ、支配人にお返ししますので。失礼します」

ほらよ、と電話を再び鈴木に押し付けると、男は眉間に皺を寄せて深く息を吐き、活力を使い切ったように座布団へ倒れ込んだ。鈴木は気にかける素振りもなく応答に勤しんでいる。

「鈴木でございます! お食事ですか、ええ喜んで! 特上御膳でございますね、かしこまりました! すぐにお部屋へお持ち致しますので……はい? え、バイト? 先程の。もちろんでございます、何なりとお申し付けくださいませ! 早急にご用意致しますのでこれにて失礼致します!」

電話だというのに深々とお辞儀をしたのち、天子くん!と鈴木が目を剥いてきた。

「早く! さあ外へ!」

「は?」

強引に腕を掴んで引っ立てられ、訳が分からないまま宴会場の外に出る。鈴木は冷や汗でびっしょりの額を拭い、大声で厨房へ命じた。

「特上御膳! 葵の間に!」

「了解!」

長嶋がよく通る声で応答すれば、鈴木は気合いを入れるように自らの両頬をぱんと叩いた。天子の肩にもぐっと手を置いて、彼は力のこもった口調で告げる。

「いいかい。今から君に重要な仕事を頼みたい」

ーーー

「客対応はしなくていいんじゃなかったのかよ」

二段積のワゴンを両手で押しながら愚痴をこぼす。従業員用エレベーターで八階に出ると、ホールは行燈の間接照明で穏やかに照らされ、グレーの石畳タイルがほんのりと暖光を帯びていた。
ワゴンを再び押して、ゆとりのある空間を進んでいく。食器である上等な焼き物にヒビでも入ったら鈴木になんとどやされるかわからない。ただ運ぶだけなのにやたらと神経がすり減る。

『葵の間のお客様に、特上のお膳を運んでほしい』

先程あった、鈴木とのやり取りを頭の中で反芻する。

『それは俺の仕事じゃないですよね』

『君が穴熊様に絡まれているところを助けて下さった御方だよ。君のほうからも丁重にお礼を言っておきなさい、いいね!』

『またあんなジジイだったら今度こそ殴りますけど』

『万が一にもないと思うけれど、困ったら内線で私に電話をくれればすぐに行く。頼むから、本っ当に頼むから失礼のないようにしてくれるかな、いやほんとお願いだから! ね!』

「クソジジイじゃありませんよーに」

静まり返った廊下に、車輪の音と天子の恨み節だけが僅かに響く。

(つっても、よぼよぼのジジイなら逃げればいいしな)

しかしそれならば気になる点がひとつある。天子が運んでいる食事だ。
刺身に焼き物にと盛り沢山な御膳は、高齢者には量が多すぎる。仮に妻が同伴していて二人で食べるのだとしても、ひとつの膳を分けるのはあまり品が良い振る舞いとは言えないし、支配人にまで融通が利く立場ならいくらでも我が侭なオーダーができるだろう。かといって家族がいるなら人数分を事前に頼むのが普通で、当日わざわざ用意させるのはナンセンスだ。どうにも理屈が通らない。

(やっぱり大食いの奴がひとりでのさばってんじゃねえか)

宴会場に顔を出さず部屋にこもっている辺り、ああいった派手な酒宴は苦手なのかもしれない。まともな人間性が期待できそうだ。
ワゴンから漂ってくる香りに食欲が刺激され、きゅる、と心細く腹の虫が鳴いた。こんな贅沢品を年かさのいった男にだらだら食べさせるくらいならここで盗み食いしてしまいたい――は言い過ぎとしても、正直憎たらしい。あの騒ぎが起きなければ今頃は休憩でまかないにありつけていたのに、空きっ腹を抱えて他人の食事を世話しなければならないなんて。

「ここか」

『葵』の札が掛けられた障子戸をカラカラと引き開ける。ここは廊下に出る扉で、部屋を隔てる襖は三メートルほどの小路を進んだ奥にある。

(にしても、偉い奴がこんな部屋でいいのか?)

というのも、葵の間は確かに特別客室だがここよりグレードの高い部屋は他にいくらでもあるのだ。床面積もたっぷり、ローベッド付きでユニバーサルデザインを備えた和洋室が最上位クラスとすれば、葵の間はそれより二ランクは格落ちする。
部屋の大きさは一般客室とそう変わらず、和室に布団を敷いて寝るごくスタンダードなタイプだ。一般客室との違いはただひとつ、個室に露天風呂が付いている点のみと言ってもいい。だからこそ天子は当初、鈴木が真っ青な顔で電話を取り次いだ反応に疑問を覚えたのだ。

「失礼しまーす」

窪んだ中心をふんわりとした花弁が囲む花――恐らくこれが葵だろう、筆で描かれた引き戸をコンコンとノックして横に開く。やっと玄関が見え、揃えられたスリッパがひとつだけ置かれていた。床張りに上がり込んだ天子は襖の前に膝をついて、もう一度ノックをした。返事がない。

(耳の遠いジジイとか)

鍵もかけておらず、スリッパがある点からしても部屋にいるのは確実だ。十畳程度の部屋で、天子の声が聞こえないはずはないのだが。

「お食事お持ちしました。入りまーす」

襖をゆっくりと左にスライドした天子は、飛び込んできた光景に我が目を疑った。
和室の中央には長方形の机と座椅子、奥にテレビと押し入れ、窓際に椅子と小さなテーブルがある一般的なつくりだ。違うのは前述の通り、掃き出し窓から庭に出られる部分だけ。
しかし広縁の籐椅子に深く腰掛け、浴衣に丹前を着込んで文庫本をめくる姿はそう、紛れもなく。

「やあ」

ぱたんと本を閉じて、彼は微笑みかけてきた。天子の心を掴んで離さない、あの笑みで。

「なんで……」

天子は床張りに座り込んだまま茫然としていたが、不意に立ち上がると、ずかずかと畳を踏みしめて火野に詰め寄った。

「なんでこんなところにいるんですか」

「株主だからだよ」

天子の反応を楽しそうに観察しつつ、火野も椅子から腰を上げた。丹前の裾がはらりと翻る。

「どうしてこんなところにっていうのは、僕だって訊きたいけどね」

彼を見上げていた天子は、ふと我に返って思わず周囲を見渡した。火野が不思議そうに尋ねてくる。

「どうかした?」

「だ、誰かいるんですか。家族とか」

「いないけど、どうして?」

「だって、飯が」

普通の男子高校生ならともかく、固形物をほとんど摂取しない火野があの膳を食べ切れるとは到底思えない。ああ、と火野は納得したように頷き、ひょいと和室の長机を指差した。

「ここで、一緒に食べようと思って頼んだの。お腹すいてるでしょ?」

「は!? 俺……?」

当たり前だと言わんばかりの火野の仕草に、短時間で様々な事柄が脳内を駆け巡った。『話があるんだけど』、『ごめんね』、『一緒に食べようと思って』――結果、へなへなとその場に座り込んだ天子が静かにうなだれる。

「それは……なんだ、手切れ金ってことですか。別れる前の」


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