あたらよの宴
ひのてんR18

「そんなもんしてたのか」

仲居という業務上、アクセサリーは禁じられていたはずだ。作務衣の内側でこっそりと身につけるくらいなら、本人にとっては御守のたぐいだろうか。三日月がモチーフのシンプルなネックレスだった。

「誰も見てないから、少しくらいいいかなって」

俺は勘定に入らないのかよ。
昨日から他の人間よりもやや無防備な面を見せられているので、信頼されていると思っておくべきなのか。雑談によると小畑には天子と同じ年の弟がいるそうで、気安いのはその辺りの事情によるのだろう。

「心配だったの。その、おじさんの相手をしなきゃいけないかもと思って。だったらなんでバイトなんか応募したんだって思われそうだけど、今度彼氏と旅行に行くことになってね」

「別に訊いてねえし」

呆れた気味の天子が塵取りでゴミをかき集めていると、はっと我に返った小畑もさかさか箒を動かし始めた。ごめん、と風にさらわれそうな声がする。

「…ま、明日までの付き合いだから聞いてやってもいいけど」

この、女性特有の――と天子は断じたくなるが、尋ねてもいないのに自身のことをべらべらと喋り立ててくる感覚が、こちらからすると実に不可解でならない。返答する頃には全く違う話に切り替わっていたり、悩んでいるようだからと助言を繰り出せばそうじゃないと叱られたり。いったい何を求めているんだと火野に愚痴をこぼした際は、彼も天子と同様の意見だった。

「それもらったのか?」

不躾に胸元を指差すと、羞恥に俯いていた小畑が小さく頷いた。

「先月わたしの誕生日で、その時にね。東京に出張した時、選んでくれたんだって。彼、社会人だからってデートとか車もいつも出してくれて、さすがに申し訳なくて。わたしも普段は違うバイトしてるけど、旅行代は出したくて、短期間で稼げるものを探して応募したの。ただ、彼氏にはこのバイトのことは内緒にしてて…っていうのも、その、嫉妬深いっていうか過保護っていうか、おじさんの宴会の手伝いなんて聞いたら絶対に怒ると思って。だから、彼が心配するようなことが起きちゃうとわたしも後ろめたいというか」

「ふーん」

子供の作り方すら知らないような幼顔で、彼氏と旅行とは結構な身分だ。
早くも白けた気分になり、まっさらな雑巾で玄関ポストをだらだら磨く。天子の反応にいっそう気まずさが増したのか、小畑はひょいとネックレスを服の内側に戻した。

「ごめんね、こんな話聞かせて。掃除しよう掃除」

「黙ってたっていいんじゃねーの。付き合ってるからって何でもかんでも伝えなきゃならない義務もねえし」

男女だから苦労がないなんて思わない。男同士が険しい道なのは確かだが、男と女というだけでうまくいくほど世の中も甘くない。天子には知り得ない悩みが小畑にはあるということだ。彼女は少し困ったようにサイドの髪を指で擦っている。

「秘密にしとくのが嫌なら話せばいいだろ」

「そ、れはちょっと。怒られちゃうかな」

「怒られるだけマシじゃねえか」

え、と小畑の呟きを無視して雑巾を絞る。バケツの水があっという間に濁り、天子はため息をついて裏の水道までバケツを引っ張っていった。

(怒られたことなんてない)

罵詈雑言を吐いても、礼節に欠ける振る舞いをしても、散々な成績を取っても、強引に口づけても。火野はいつも、笑って流すだけだった。いや、天子が都合よく覚えていないだけで、別れ話に発展する前にどこかで注意されたのだろうか。それを、恋人だから構わないと決めつけて、彼の気持ちを塗りつぶしていたのか。
火野は何事も諦めがいい。良すぎるくらいだ。粘り強さや根性といった単語も嫌うし、見込みのないものはさっさと切り捨てる。天子の潔さとはまた違う性質だ。

諦めきれるだろうか。この想いを。

諦めさせるためのあらゆる言葉を使って火野が自分を説得にかかるとしたら、それは最後の優しさなのかもしれない。

ーーー

波模様の浴衣を身につけた大勢の男たちが、大宴会場に繰り出してきたのが三十分ほど前のこと。作務衣に揃いの黒い腰エプロンを巻いた服装で、バイト学生は人の間を縫って忙しなく動いている。てんてこ舞いの厨房と宴会場を何往復したかもわからないが、酒宴は順調に進んでいるようだ。畳敷きの大広間に長机がいくつも並べられ、その上のビール瓶とジョッキが補充されては空になっていく。
けばけばしいピンクの浴衣に身を包んだ女たちが押しかけてきたのには度肝を抜かれたが、どうやら温泉街のコンパニオンを呼んだらしい。未だにこんな風習が残っているとは時代遅れもいいところだが、株主様はご満悦だ。派手な美女軍団を見物するべく、天子と小畑を除くバイト連中がこぞって宴会場に行きたがるので、二人はしばらく厨房の仕事に専念できた。

「生ごみ出してくる。これだけか?」

「うん。あ、さっきのお造りのごみもまとめようよ。生臭いし」

二人で青いポリバケツから袋を引っ張り出し、新しい袋を引っ掛ける。すると挨拶回りをしていた支配人の鈴木が宴会場から足早に駆けてきて、小畑に声をかけた。しゃがんでいた天子の存在がカウンター越しで見えなかったのだろう。

「小畑さん。悪いけど、取り皿が足りないみたいだから十枚くらい持ってきてくれるかな。ステージの前のテーブルに置いてきて」

「えっ。は、はい」

他のバイト学生は姿が見えない。大方、宴会場でコンパニオンに鼻の下を伸ばしているのだろう。鈴木も宴会場へ素早く戻っていったので、天子はポリ袋をぐいと小畑に押し付けた。

「皿は俺が行く。お前はこれ捨ててこい。遠いほうの倉庫に行けよ」

「あ、ありがとう」

宴会場後方の入口からステージ前方まで皿を届けるにはずいぶん歩かなければならない。前方入口も襖は開いているが、ホスト側は基本的に後ろ側から出入りする決まりだ。コンパニオンを侍らせている情けないオヤジたちの前や後ろを何度も通る必要があるのだから、小畑は絶対に行きたくないだろう。しかし支配人からの名指しを断るほど気も強くないので、天子が気を回してやるしかない。ついでに宴会場からあとひとりくらい、おつかい学生を引っ立ててくれば小畑は厨房周りの業務だけを請け負える。
積み重なった小ぶりの皿を棚からそっと抜き出し、天子は後方の襖から宴会場に入る。入口近くのテーブルでは既に赤ら顔のオヤジががはがはと不快に笑っており、そこにしなだれかかるコンパニオンの横をすり抜け、足袋の爪先で畳を蹴った。
座布団にだらしなく寝転ぶ男、大きく開いた女の胸元に札を挟んで喜ぶ男。男の悪いところを濃厚に煮詰めたような空間には、同性の天子すら嫌悪感を抱いた。小畑を連れてこなくてよかったとつくづく実感する。

「失礼しまーす」

やる気のない声で目的のテーブル端にどんと皿を置く。料理はまだまだ余っているが、宴会はどうせ夜半まで続く。酒の入った自慢話とコンパニオンのおねだりコールが頻繁に飛び交う中、さっさと持ち場に戻ろうと踵を返したその時だ。

「っ!」

作務衣の上からやんわりと腰を撫でられて息が詰まった。驚嘆の表情そのままに振り返れば、残り少ない頭髪を縞に撫でつけた男ががっしりと天子の腰を掴んでいるではないか。悪寒と怒りで脳みそが今にも炸裂しそうだった。男は首を捻りながらも無遠慮な手つきで膨らみにぐりぐりと指を沈ませ、不意にぱっと手を離した。

「あ? なんだ男かお前」

「当たり前だろーが! てめえ酔っ払いだからってふざけてんじゃねーぞ!」

「ぐうっ」

男の浴衣の袷を掴んで持ち上げると、呻きながら天子の腕を押さえようともがき始める。酔いが醒め始めたのか、天子に胸ぐらを引き上げられた男は座布団に足をついて立ち上がり、盛大に噎せ込んでから酒臭い息を吐き出した。

「何すんだこの小僧! 俺を誰だと思ってんだ!」

「知るかハゲ! てめえこそ女と間違えやがって詫びのひとつもねえのかよ!」

周囲の席の客も騒ぎに気づいてはいるものの、素知らぬふりで酒宴を続けている。すると右後方のテーブルから目を血走らせた鈴木が怒涛の勢いで飛んできた。

「申し訳ございません穴熊様! この者が大変な失礼を致しましてっ!」

「はあ!? 俺じゃねーよこいつが!」

「いいから謝りなさい! ほら!」

ぐいぐいと鈴木に頭を押される力に抗い、自分より上背のある巨漢をその眼力でもって睨みつける。なんでもかんでもペコペコと頭を下げる大人になどなってたまるか。
ふん、と不機嫌も露わに鼻を鳴らし、男は鈴木を追い払う仕草をしてみせた。


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