あたらよの宴
ひのてんR18

「帰ります」

みっともなく上擦った声色を響かせ、ショルダーバッグをわしづかむ。ここで弱さを見せるくらいなら逃げ出したほうがましだ。話を先送りにしたところで内容が変わるわけもないだろうが、痛みで今にも胸がつぶれそうだった。
ドアの取っ手を乱暴に引いて、振り返りもせずに天子は言う。

「……来週でいいですか」

だからどうか、今日は見逃してほしい。何を言われても平気な顔で受け止める準備を、休日の間に済ませるためにも。
一方的に約束を押し付けてドアを閉め、生物実験室を抜けて薄暗い廊下を足早に進んでいく。手のひらがほんのり痛いと思ったら、握ったボールペンの芯が何か所にも刺さっていた。追いかけてはこないだろうが、近くの水道で手を洗っていて遭遇するのは避けたい。インクまみれの手で昇降口をのろのろと目指す。

(別れたいのか)

じんわりと視界が歪み、乱暴に目元を拭ってスリッパの音を響かせる。
神妙な口調だった。今日こそ切り出さなければと、火野も覚悟を決めてきたに違いない。直接伝えようとしたのは最後の良心なのか。
自分の何が悪いかなんて、思い当たる節は無限にあれど、考えたところで真実が判明するわけがない。女性とならば天子も経験はあるが、彼女の何が良いかなど交際には関係ない。想いを断るほど不快ではなく、告白されたからてきとうに相手をしてやったまでだ。唐突な別れ話を持ち出されても翌日にはけろっと忘れていた。付き合って以降、相手への興味や関心をそれ以上抱くこともなく、恋情には程遠い気軽さで隣にいた。
火野も、そんな感じだったのかもしれない。天子を好いてはいても、恋愛とは違う気持ちで接していたのだろう。体の関係なくして恋人は成り立たないが、恋人でなくとも体の関係は持てるのだ。そこは天子だってよくよくわかっているし、三大欲求である以上はどうしようもない。心までほしいと願うのは傲慢だ。
――嫌だと言ったら、どうなるのだろう。困ったように微笑んで、ごめんねと謝るのか。興味のない相手からのアプローチを、今までと同じく、撥ねつけてきたように。
消火栓横の壁にもたれて、ひっそりと瞑目した。
昇降口は目と鼻の先だ。静まり返った廊下に、突き当たりの部屋から楽しげな談笑が聞こえてきた。化学部だろうか。いつもなら生物部より早く解散するはずだが、話が盛り上がっているらしい。見つかっては面倒だ。そそくさと靴箱へ向かった。

『明日は予定通りでいい』

うつろな両目でメールを送信する。正門をくぐる頃に佐藤から返信があった。

『了解。大丈夫だよ』

「…大丈夫じゃねえよ」

つんと鼻の奥が痛む。涙に絡まりそうな声音がひどく悔しかった。 

***

鬱々とした三連休を過ごすよりはずっと有意義だったかもしれない。日曜の昼過ぎ、広間に用意された昼食をぱくつきながら天子は実感した。
人間、どんな気分でも一応腹は減る。二個目のおにぎりを片手に、作務衣のポケットから携帯を引っ張り出した。ネットニュースを流し読みして、友人から届いたメールに返信をしたためる。
零からの『文化祭当日シフトの打ち合わせ』には苦い顔でスルーを決め込んだ。最悪の場合は自分が退部することも考えられるし、軽々にああだこうだとは言いにくい。
そこへ、支配人の鈴木がひょっこりと顔を出した。束の間の休憩時間らしく、彼は座るなり生白い頬の内側にせっせとのり巻きを詰め込んでいく。茶で流し込む合間に彼の方から話しかけてきた。

「ちょうどよかった。十六時に株主様方がお見えになる前に、玄関前の掃除を頼みたくてね。小畑さんにも声をかけてあるから、休憩あがったら合流してくれないかな」

爪楊枝みたいな体から甲高い声を発して、頼むね、と鈴木は手を合わせてきた。蓮華高校で竹刀を振るう体育教師のように高圧的な態度で命じられるよりはいいが、たかがバイト相手に腰が低すぎる。普段、客に頭を下げすぎて自我などどうでもよくなっているのか。金をもらう以上は意向に沿うつもりでいるのだから、支配人らしく堂々と頼んでくれてもいいのに。

「わかりました」と携帯から目線を移して天子も頷く。

「ありがとう。昨日教えた通り、掃除用具は裏の倉庫にあるから。大浴場は桧垣くんたちに頼んであるし、玄関掃除が終わったら宴会場で長嶋さんの手伝いを頼むよ」

今回、臨時バイトは天子を含めた六人がいる。
男が五人、女が一人。その男のうちのひとりが桧垣で、紅一点が小畑。
旅館の総支配人――客対応から雑用までこなし、天子たちに指示を与える人間が彼、鈴木だ。年の頃は四十前後、服装は隙もなく整っているのにどこか弱気でよれっとした雰囲気がある。
長嶋は女性仲居のリーダー的存在で、女将の右腕とも言うべき女傑だ。こちらは迫力だけなら女将に負けず劣らずで、鈴木より下の立場でありながら彼にもきびきびと言を憚らない。もちろん天子はこういう女が大の苦手である。昨日の研修時から、彼女に用事がある時は小畑を誘導して指示を仰ぐようにしていた。
ものの五分で食事とも言えない量を摂取していった支配人をのんびりと追いかけ、居室である十階の広間を出て天子も従業員用エレベーターに向かう。

ここで老舗旅館・古池屋の館内について少し説明を挟んでおく。
旅館は山を背負った旧館と、平成初期に増築された新館とに分かれる。旅館の前身となる湯治場は江戸時代に開湯されたが、江戸末期の戦争で全館が消失し、翌年再建された旅館が現在の旧館にあたる。高地の天辺を平らに均して地上四階建てとしたものの、そこより低い平地に増築した新館の地上八階から旧館の一階へ連絡通路が伸びているため、旧館は便宜上『地上八階から十一階』と称される。バイト学生の居室に宛がわれている旧館十階へ行くためには、新館一階の玄関からまず八階まで上り、旧館への連絡通路を通ってさらに二階上がるという仕組みだ。
施設のメインたる新館は一階がフロントとラウンジ、二階が朝食会場で三階から五階が大浴場と一般客室、六階は宴会場、そして七階八階が特別客室という割り当てになっている。
おおよその館内図は以上である。

ということで天子は旧館の八階まで下り、新旧をつなぐ連絡通路を渡って新館のエレベーターで一階まで辿り着いた。Z方向の移動が非常に面倒だが、温浴施設が密集した狭い温泉街では建物が上に伸びるのも仕方ない。
午後の閑散としたフロントロビーを通過する。今日は大宴会に備えての準備のため、日帰り入浴も営業していないせいか。
自動ドアをくぐってすぐに、石畳のアプローチをせっせと掃き清める姿を認めた。乾鮭色の作務衣に包まれた肩は小さく、箒が往復する度に明るい茶色のポニーテールが跳ねる。

「鈴木に言われて手伝いに来た」

背中に声をかけると、ひょいと振り返った顔はまるで中学生だ。小畑は檜の柱に立てかけてある箒を指差して言った。

「持ってきておいたよ。わたしはこっちから掃くから、天子くんはアスファルトの手前からこう掃いて。えっと、庇を目印にこの辺で半分ずつってことで」

至極妥当なエリア分担だ。了解した天子が箒を手に取ると、それと、と小畑は幼い顔立ちを厳しく見せるようにむっとした。

「鈴木『さん』だからね」

「はいはい」

昨日から都度挟まれる小言を流しているせいか、小畑も肩を竦めただけで自分の陣地に戻っていく。彼女は国高台にある私立大学の学生だと自己紹介があった。そして、母校は天子の通う蓮華高校だ。
アルバイト禁止の校則を押し切って参加した件には当然首を傾げられたが、支配人の鈴木がとりなしてくれた。天子の友人・佐藤の大叔父の知己が鈴木の父にあたり、佐藤の紹介で特別に許可した旨を説明されると小畑はあっさり納得した。礼儀は大事にするが、融通が利かないタイプではないのだろう。
この地は毎日のように風が吹く。通りに面した立地は結構だが、アスファルトからエントランスに吹かれてきた落ち葉や砂利は石畳全域に及んでいた。整備された庭園の草花に注意しつつ、箒をさっさと動かして掃除につとめる。今は無心になれる作業がありがたかった。

「株主の人たちって、四時にチェックインなんだよね?」

不意に小畑が小股で歩み寄り、声をひそめて続ける。

「わたし…じゃない、わたしたち、ここでこのままお出迎えするのかな?」

大きな瞳には僅かに拒絶の色が浮かんでいる。彼女の心を落ち着かせる意図はないが、天子は鈴木からの追加指示を漏れなく伝えてやった。

「ここ掃除したらすぐ宴会場の準備しろって言ってたぞ。株主のジジイ共もまずは風呂だろうし、宴会始まるまではかち合わねえって。お前は厨房だから余計に会わないんじゃね」

「よかった」 

目上には敬語を使うべきと常識を心得ているだけで、年下の天子に『お前』呼ばわりされても平気なあたり、自分は例外なのかもしれない。
彼女は安堵をたたえて自分のエリアに戻ろうとしたが、不意に作務衣の首元から手を差し込んでごそごそとやり始めた。天子は反射的に目を逸らす。下着でもずれたのかと思いきや、握った手を胸元から引き抜いて開くと、作務衣の上でしゃらんとチェーンが揺れた。


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