あたらよの宴
ひのてんR18

元は炭鉱で栄えた町だが、エネルギー資源が石油に代替して以降は温泉を活用したレジャー施設の建設が始まり、市内一の観光の目玉として成長を遂げていった。市の中心は間違いなく蓮華と言えるものの、駅周辺はビジネスホテルばかりだ。市外県外からの観光客ならばまずは湯花原が宿の第一候補になる。
ひと駅離れているとはいえ湯花原は高浪とごく近い立地で、天子も蓮華などよりよほど馴染みがある。高浪小学校の低学年の遠足といえば湯花原にある美里山公園が定番だ。子供の頃は旅館に泊まり、両親や妹と貸切風呂に入った記憶もある。湯花原でのバイトと聞いて真っ先に浮かぶのが温泉やレジャープールの清掃というわけだ。

「まぁね、そんなところだよ」

「はっきり言えよ」

黒コショウ味のポテトチップスを丁寧に開けて、天子にも勧めながら彼は続ける。

「旅館の仲居さんのお手伝いをするんだ。泊まり込みで、二泊三日」

「仲居? 客に愛想振り撒いて飯出して布団敷けって? 冗談じゃねえ」

「まあまあ、そこまでお客さんに気を遣う仕事じゃないよ。古池屋ってあるでしょ?」

「芭蕉じゃないやつだろ、旅館の」

創業300年以上とこれまた老舗の温泉旅館で、立地もサービスも良く、湯花原の中心的存在でもある。ただし観光地きっての高級旅館ではなく、あくまでリーズナブルな値段を貫きつつ人気を博していると言ってもいい。地域にそぐわないというか、地方の小さな温泉街で高級旅館を建てても儲かりはしないのだ。

「古池屋で年に一回、ハロリゾートや湯花原温泉施設の大株主を集めて総会をするんだって。といっても株主総会ってのは普通決算が終わった五月くらいにやるものだから、どんちゃん騒ぎしたいだけの名目会議なんだけど」

ハロリゾートは前述したレジャー施設だ。プールにショー、温泉、ゴルフとアクティビティは一通り揃っているが、如何せん入場料が高いので地元民はあまり利用しない。
かなり昔、天子が家族で訪れることができたのは父親が知り合いから株主優待券という魔法のチケットを譲り受けたおかげだった。なるほど、その出資者の集まりとなればテーマパークのホテルより断然旅館に軍配が上がる。

「旅館が儲かるなら客がオヤジ共でも構わねえってことか」

「そういうこと。夏休みが終わったら観光客も途切れるし、紅葉の行楽シーズンまでは旅館もちょっと暇なんだと思うよ。めんどくさい株主のおじさんたちでもお得意様には違いないから」

「つったってバイト雇うほど人手不足でもないだろ。稼ぎ時の夏休みも普通に乗り切ってんだし」

「だからじゃないかな。その仲居さんたちが遅れて夏休みを取る都合と…ぼくが女だったら酔っ払いのおじさんの相手なんてしたくないし、男のバイト雇えば安上がりじゃない? 仕事も掃除と宴会の手伝いが主だから、ひとの部屋に上がり込んで布団敷いたり話し相手になったりしなくていいって聞いたよ」

仲居の女性たちをセクハラの魔の手から守るためなら仕方あるまい。どうせオヤジたちは酒を飲んで騒ぎたいだけなのだから、男は淡々と仕事をこなすのみだ。

「金は? つーかいつだよ」

「来週末の三連休。一日目は仕事をざっと教わって、おじさん軍団が二日目の夕方にチェックインするからそしたら本番。宴会でちょっと遅くまで働くことになるけど、そこまで遅くはないよ。労基で十八歳未満の労働は夜の十時までって決まってるからね。また泊まって、最終日の朝は宴会の片づけと朝ご飯の準備、おじさんたちが帰ってから洗濯とか掃除を手伝って終わり。食事も寝床も付いて三日で三万。悪くはないんじゃない?」

「悪くはないのにお前はやらねえのか」

「ぼく枕変わると寝られないんだってば。働きたくないし」

ニートがついに本音を漏らし、不要なお節介を加える。

「もちろん、先輩さんとの用事ができたらドタキャンしても構わないよ。大叔父さんの面目つぶすのも一興ってことで」

「白々しいにも程があんだろ。ヒマそうだから面倒事吹っ掛けてるくせに」

面白くなさそうな顔でゆるゆるとかぶりを振り、天子は直近の懐事情を反芻した。金が有り余った経験などあるわけもなく、月々の収支は常に赤字を計上している。
ゲームソフトがほしい。服もほしい。身だしなみも欠きたくない。飲み物も水や茶では味気ない。食べ物ならば、小遣いが底をつく月末は『お腹すいてるの?』と誘ってくれる火野に甘えてコンビニやファミレスで腹を満たせるが、先輩とはいえ毎回それでは情けない。年の差こそあれ、恋人とは対等で然るべきだ。
つまり、金はない。ないことはないが、あって困るものではないからあるに越したことはない。欲しいか欲しくないかで言えば断然欲しい。

「お前のフリしなきゃならねえのは御免だぞ」

了承とも取れる天子の言葉に、彼はにんまりと頬を緩ませて頷いた。

「そこは大丈夫。バイト禁止の蓮華高校っていうのも何とか呑み込ませるし、佐藤って名乗らなくていいよ」

三連休はどうせ三連休のままだ。家でくさくさしているなら金でも稼いだ方が有意義には違いない。パソコンデスクの椅子に飛び乗ってメールをしたためている佐藤をよそに、折り畳みの携帯を未練がましくぱかりと開く。

『今週末は用事があるから』の文面を返信ボタンで押し込んで消す。『あっそ』と打ってから、ひとつ息を吸い込んでやっぱり消した。しばらく唸っていたが返す言葉は結局見つからず、インターネットに繋いで古池屋を検索にかけた。

***

金曜日の放課後。
カエルの腹をかっさばいて得た某細胞を蛍光色素と共に観察し、各々レポートにまとめたところで時計が十八時半を指した。
気味悪がられること受け合いのウシガエルシールが貼られたノートパソコンを閉じ、由姫が颯爽と腰を上げる。正門近くに黒塗りの車が到着したのだろう。

「ではお先に失礼いたします。お疲れ様でした」

スクールバッグを肩に引っ掛け、丁寧に頭を下げれば火野がにこやかに応答する。

「お疲れ様」

「さっさと帰れ」

対照的に、蚊でも振り払うように手を振る天子。一応むっとして見せる由姫も、『気をつけて帰れ』の類語らしいと踏んではいる。さっさと帰りますわ、と顔だけはつまらなさそうにしてドアを静かに閉めていった。
再び訪れる静寂。書きかけだった数式をぐちゃぐちゃのノートに続けていくが、左辺と右辺が全くイコールでないことに気づき、ため息をついて二重線で打ち消した。

「てんこ」

奥のデスクから、そっと声をかけられる。紛れもなく火野が発したものだ。普段より幾分か重いトーンのそれに、天子もただならぬものを感じて姿勢を固めた。このまま聞いてはいけない予感がした。

「話があるんだけど」

暴れようと身構えていた心臓が先に凍り付いた。火野はこちらを見ているようだが、天子はノートを貫かんばかりに目線を固定していた。背中を嫌な汗が伝う。握ったボールペンが小刻みに震えた。
ふう、と小さく吐息を落として火野が呟く。

「ごめんね。最近、迷惑をかけてばかりだったでしょ。ちゃんと話そうと思って」

「聞きたくない」

自分でも驚くほど低い声が漏れる。眼鏡の奥の瞳が、不思議そうにぱちりと瞬いた。覚束ない脚に力を入れて、天子はカウチから立ち上がった。拳をきつく握り込んでいないと、見られたくないものがたくさん出てしまいそうだった。

「怒ってるなら尚更聞いてほしいんだ。そんなに長い話にはしないから」

時計を一瞥した火野が静かに告げる。上り電車はおよそ十九時ニ十分に蓮華駅を発つ。高校から駅までは下り坂で一キロ程度なので、普段の天子は十九時前後に部室を出ることにしている。電車に間に合うようにと火野は時間を気にしたのだろうが、今はその気遣いが逆に怖かった。


next

×