Anniversary リーマンパロディ その後 |
揺れたグラスの中で、毒々しいほど深い赤色がたぷりと踊った。傾けられた先の唇に少量が流れ込み、やがてグラスを戻した彼の瞳が満足そうに細められる。切れ長の相貌を縁取る睫毛は艶やかに長く、眼鏡の奥でシャンデリアの明かりを受けて尚光る。 窓を飾る夜景に霞むことなくクラシカルなベルベッドソファで寛ぐ彼は、格調高いインテリアに溶け込んだ芸術品のひとつにすら思えた。 「どうかした?」 「すげえ場違いなとこに来たなって」 口の中でじゅわりと旨味を溶かす生ハム。今まで食べてきたものは『生ハム風』だと言わんばかりの逸品を、即座にグラムいくらか勘定するような庶民には到底相応しくない場だ。 部屋のどこかから流れ出す、ボリュームが絞られたオーケストラの一節に乗るように、火野は頷きながら笑った。 「それだけ大人になったと思えばいいんじゃない」 「大人の階段を何十段ぶっ飛ばしても俺には縁がないと思うんですけど」 ようやく得られた初任給は税金ががっつりと引かれ、研修生のお小遣いにはちょうどいいだろうとの額が手元に残った。大事に大事に使っていこうと決心したのに、金の価値観を簡単にぐらつかせてくれる部屋と食事が用意されていて。調度からカトラリーまで、何を触るにも恐れ多い。 火野はちょいと首を傾げ、グラスを静かにテーブルへ戻す。 「気に入らなかった?」 (あ……) 天子は慌ててかぶりを振った。贅沢な空間ばかりに気を取られ、このホテルに招かれた目的を今更ながら思い出したのだ。 「別に居心地が悪いとかじゃなくてっ、なんだ、その…慣れないから落ち着かなかっただけで、全然、嫌じゃないです」 『時間が欲しい』と分不相応な望みを口にした自分のために、多忙な火野は誕生日の夜を空けておいてくれた。ゆっくり過ごせるところがいいねと、贅を尽くした部屋を予約して。身の丈に合わない雰囲気に気後れするあまり、彼の気持ちを蔑ろにするような言葉を放ってしまった。 言い訳をぽつぽつと漏らせば、やがて微笑んだ火野が小さく手招きしてくる。テーブルを挟んで相対していた天子がソファへ回り込み、彼の隣に腰を下ろすと、長い腕がゆるく絡みついてきた。すっきりとしたミントの香りに胸の内側がざわめく。 「よかった」 安堵の声を耳に吹き込まれ、僅かに肩が跳ねる。狼狽を知られたくなくて自分からも腕を回せば、子供をあやすように髪をくしゃりと撫でられた。触れてくる指先に、もう迷いは感じられない。天子はぎゅっと目をつむる。 (まだ、食ってんのに) 夜を共に過ごすことになった時点で、相応の覚悟は決めていた。自分だってそれを望んでいる、が。 「し……ごとの話、していいですか」 柔らかい拘束をやんわりと解いて、彼の腕を掻い潜ろうとする。心臓が胸の皮膚を突き破りそうだ。 火野もあっさり体を引いて、いいよ、と気を悪くした様子もなくテーブルに向き直る。自分から言い出しておいて、そこに一抹の寂しさを覚えるのだから勝手だ。 鴨のローストをフォークで突き刺しながら、真鯛のポワレの皿もこちらへ引き寄せた。二人しかいないので、マナーなどお構いなしに食べては飲んでを繰り返す。 (危ねえ) もう少しで彼のペースに呑まれるところだった。 初めて肌を重ねてから、ちょうど一週間。体の痛みや強張りもすっかり解け、会えないもどかしさに身を焦がす日々が続いた。だからわかる。触れたい気持ちはむしろ天子の方がよくわかる、けれど。 せっかく恋人が用意してくれた空間だ。眼前には見たこともない美食の数々が並んでいる。これらを差し置いて欲に耽るほど、品がないとは思われたくない。今日は金曜日、昼間はせっせと研修に励んでいたのでどう考えても腹を満たすのが先だ。 アペリティフのキールで乾杯したのが十五分ほど前のこと。お供のビスキュイローズを無作法にばりばりと片づけて以降はスパークリングウォーターを口にしていたが、酒も少々は味わっておくか。 度数をかなり低めたシャンパン。持ち方すらあやふやなグラスを取って口に含む。クラっとくるようなアルコールの勢いはほとんど感じられず、フルーティーな酸味だけが爽やかに弾けていく。大丈夫そう?と火野に尋ねられ、天子は頷いてこくこくと喉に流し込んだ。あまり酒に強くない自分を気遣って選んでくれたのだろう。 「食べないんですか。うまいのに」 オマール海老のパスタをフォークで丸めながら目線を送ると、火野はちょいとカトラリーを手に取り、生ハムに添えてあったモッツァレラチーズを少しだけ口に運んだ。この人チーズ食えたんだ、と普通なら何でもないような事実を天子は改めて知る。もはや何杯目かわからないワインをそっと飲んで、彼が呟いた。 「人が一生懸命食べてるのを見てると、僕もお腹いっぱいになりそうなんだよね」 昔から何度となく聞かされてきた方便をはいはいと流し、中途半端に巻きつけたパスタをすする。素直に、豪華なディナーをひとり占めできてありがたいと思うべきか。食欲の赴くまま、忙しなくフォークを手繰って皿を空にしていく。 咀嚼しながら、テーブルを見回してふと気づいた。火野にはとても及ばないが、食べ物の好き嫌いは天子も程々に多い自覚がある。にも関わらず、どの料理を食べても嫌いなものが入っていない。デザートのような鬱陶しい甘味も見当たらない。頬が早くも熱を帯びそうになり、バスケットにあったパンをちぎらずかじりついた。 「新人の配属先、もう決まってたりします?」 ふわふわとした丸い白パンと、適度な歯応えが香ばしいフランスパン。天子は後者の方が好みだ。皿に残ったオイルベースのソースにちょちょいと浸しつつ、今後について探りを入れてみる。 新卒の研修期間は約三か月。最終的に個々人の希望配属先を人事部へ申請する運びになっているが、所詮希望は希望。人手の足りない部署へ押し込まれるのが常だと聞いている。 とはいえ人事異動は社内でも機密性の高い話題だ。桜井遥の中途採用と同様に『守秘義務だから』とかわされるかと思いきや、火野は意外にもすんなりと頷いた。 「ほとんど決まってるね。僕が知ってるのは技術部で採用した子たちが何課へ何人入るかってことだけで、具体的に誰がどこに、っていうのはわからないけど」 「え」 天子は一瞬手を止めたのち、 「開発、います?」 「今年は新人どころか中堅社員も取らないって」 パンを片手に、はー、と深く胸を撫で下ろす。開発課からオファーが来た勤続数年目の社員ならまだしも、同期の誰かが配属されていたらと思うと気が気でない。込み上げる安堵をシャンパンで心地よく押し流す。ややつまらなさそうに、火野はくるくるとグラスを回していた。 「役員から『新卒は取るな』ってお達しが来たみたいでね。守山さんにも断られちゃったし、残念」 どこかで聞いた名前だと思ったら、研修で人事部の説明に来ていた男だ。元はシステム開発課で、その優秀さを開発課に買われたものの、すげなく辞退されてしまったとか。天子にしてみれば、なんと傲慢で勝手な真似をと文句を言いたくもなる。 「あの仏頂面はなんで断ったんですか」 「こらこら」 穏やかな声でたしなめつつも、彼の愛想については火野も特に否定しなかった。 「プライベートを優先したいんだって。現代の若者らしくていいね」 皮肉にしか聞こえない。ふん、と鼻を鳴らした天子は再度生ハムを摘まむ。 「俺は、生技に放り込まれるんだと思いますけど」 「たぶんね」 二度目の探りにも彼は頷く。研究開発課を除くと、残りは生産技術、生産設計、製品開発、応用技術の四つだ。所属社員の人数を考えれば、新卒の六割程度は生産技術に割り振られるだろう。業務内容も手広く、忙しさも程々とくれば力試しにはちょうどいい。 唐突に、ふふ、と彼が小さく吹き出した。 「そういえば、技術の課長から面白い話を聞いたよ。てんこのこと、すごく気に入ってくれた部署があるんだって」 思いもよらぬ内緒話に、天子は傾けたグラスを急いで戻した。 「は!? なんで俺――ってか、どこですか」 「当ててごらん。今週、どこかでプラントの見学に行ったんでしょ?」 となると火曜日か。 初めて肌を重ねた後遺症で、月曜はじんわりと全身に倦怠感が残っていたが、『例の薬』のおかげか、腰の痛み自体はすっかり引いていた。そうして次の日、しゃきっと整った体でプラントを歩き回ったわけだが。考えあぐねても、これといって変わったことはなかったように思う。 →next ×
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