リトルマイヒーロー
小学生ひのてん

車両ひしめく大通り。エスカレーターで運ばれる無数の人間。洗練された都会の空気。やや狭い青空。
県庁所在地でも地方都市でもない、市内では一番人出が多いという程度の蓮華駅前だが、天子は満足げに周囲を見渡した。

(俺は自由だ)

込み上げる万能感に、きゅっとつり上がった目を輝かせて駅前通りを駆け抜けていく。ハーフパンツの裾が風にはためき、商店や喫煙所、道行く人々から様々な香りが流れ込んでくる。生まれ育った高浪の焼き畑や家畜の匂いとは全くの別物だ。ああ、この町に生まれたかった。にょきにょきと生えた駅ビルと百貨店を見上げて嘆息する。
タクシー乗り場を通り過ぎて、目に留まったのはドーナツチェーンの有名店。ガラスを隔てた店内では老若男女が和気藹々と午後のティータイムを楽しんでいる。

(うまそう)

親が仕事帰りに買ってくることもあるが、もうずいぶん食べていない気がする。入口近くに貼られたメニュー表へ、天子は自然と吸い寄せられる。知らない新メニューがいくつも増えていた。ドーナツ屋のくせに、担々麺まで売り始めたとは。
外に面したカウンター席では大学生らしい男がひとり、読書の傍らコーヒーを啜っている。ドーナツは皿にひとつ。これだ、と天子は強く頷いた。飲食店で、メニューを選んで、食べて、金を支払う。この一連の流れはまさに大人そのもの。都会デビューを飾るに相応しい行為だ。
逸るままにドアの取っ手を掴んだ天子は、メニューとは別に貼り出されていた注意書を読んで愕然とした。

『小学生のお子様のみのご利用はご遠慮ください。
(おとうさんやおかあさんといっしょにきてね)』

「なめてんのか?」

誰がお子様だ。二行目のひらがなが苛立ちをより煽る。悔しげに眉を寄せ、天子はその場で地団駄を踏んだ。
言葉も喋れるし字も読める。金の数え方も外食のマナーも心得ており、財布だってきちんと用意しているのに。
一律の年齢ではなく知能と言動で判断してくれと歯噛みするも、それを店員に訴えたところで聞く耳を持ってはくれまい。せっかくの大人気分を、爪の先で易々と弾かれた不快感が胸に広がる。

「入らないの?」

背後から届いた声にびくんと肩が跳ねる。声の低さとしては子供でも大人でもない年頃か。恐る恐る振り返れば、天子より十センチほど上背のある華奢な男が立っていた。高浪には決して存在し得ないだろう理知的に整った顔は、ただ不思議そうに天子を見つめている。入口を塞いでいた自分を咎めたわけではなさそうだ。

(中学生?)

Tシャツにハーフパンツの天子と違って、彼は襟付きのシャツにVネックのベストを着込んでいた。ボトムがスラックスなら私立中学の制服と言われてもしっくりくる。しかし身長や服装よりも、どこか陰のあるその表情が彼を子供という存在から脱却させていた。
天子は目を合わせたまま首を振り、そろりと入口を譲るように一歩横へずれる。

「先、どーぞ」

「入らないの?」

気遣いを意に介さず、彼は全く同じ質問が繰り返す。貼り紙を読めばこちらの事情くらい察せるだろうと苛立ったが、彼はそもそも自分がひとりでいることを知らないのだ。例えば店内には天子の両親が既にいて、今から天子だけが合流すると見ているのかもしれない。

「これ」

天子は先程の注意書を指差す。彼の双眸が文字を捉えた。

「俺ひとりで入ったら、追い出されんじゃん?」

「ああ、そういうことか」

明らかに年下である天子の敬語の有無には気を留めず、彼は納得したと言わんばかりに頷いた。

「だからほら、入るんならどーぞ」

『PULL』マークの取っ手を示して再度促すが、彼は依然として足を止めている。他に客が来れば、彼も営業妨害の片棒を担いでいるように見えてしまう。焦れた天子が周りを窺うと、彼は誰にともなくぽつりと呟いた。

「甘いものが食べたいわけじゃないんだ」

「は?」

「飲み物が飲みたいの。でも、ここで飲み物だけって頼みにくいじゃない?」

今度は天子が納得する番だった。なるほど、入店を躊躇する理由はそんなところにあったのか。彼は道路を挟んだ向かいのデパートを指差して続ける。

「あの裏にある喫茶店によく行くんだけど、たまには違うところでもいいかなと思って。でもどうしようかな、ドーナツ嫌いだし」

(嫌いなのかよ)

変わらぬ表情で淡々と喋った彼は、ついに入店を決めたらしい。取っ手をしっかりと掴み、天子をそっと見下ろした。眼差しは穏やかだが、中性的な顔立ちも相まってか、漆黒の瞳に見つめられるとたじろいでしまう。

「一緒に入ってよ」

「え?」

「そしたらお互い助かるでしょ?」

天子は彼という仮の保護者を得られ、彼は天子の付き添いで堂々と飲み物だけをオーダーできる。いいことづくめには違いないが、すんなり了承するのも気が咎める。
知らない人についていってはいけない。日頃から口を酸っぱくして言い聞かされてきた言葉だ。

(でも、ケンカしたら絶対俺の方が強いよな)

身長では負けているものの、彼はひょろりと細身でいかにも非力そうだ。武器を所持していない限り、天子に分があると見て間違いない。
それに、いざとなったらこちらには泣き叫ぶという手もある。人目につく場所なら尚更、中学生が小学生を苛める図にさえ見えれば勝ちだ。よし、と腹を決めて目線を突きつける。

「いーよ、友達のフリしてやっても」

「察しが良いね」

彼は小さく頷き、天子のためにドアを大きく引き開けた。

ーーー

「いらっしゃいませー」

女性店員の声に出迎えられ、天子はすっかり浮わついた気持ちでトングとトレーを手にした。先を行く彼が、ねえ、と振り返ってくる。

「何飲む?」

「え、いらねー。飲むもん高いし」

ドーナツは一個辺り百円少々で済むが、長居する客が多いためか、ドリンクはドーナツより高めの値段に設定されている。天子が首を振れば、彼は財布を出しながらあっさりと言い添えた。

「ついでだから奢るよ」

(うわ、金持ち)

金属製のカルトンに乗せられた五千円札に瞠目する。己の動揺を悟られまいと、天子はそそくさとドーナツに目を向けつつ答えた。

「じゃあコーラ。あ、でもこっちは自分で買うからな!」

カチカチとトングで威嚇するように言い切り、眼前のドーナツを真剣に吟味する。せっかくなので二つくらいは食べておきたい。『一番人気!』のPOPには目もくれず、黄色の粗い粒がまぶされたものを選ぶ。甘いばかりでは飽きそうなので、ドーナツ屋にも関わらずカレーパンを取ってしまった。まぁよしとしよう。
応酬が耳に届いていたのか、店員は彼と天子の関係を疑うことなくすんなりとトレーを受け取った。つつがなく皿に移されたドーナツとパンに、にんまりと口許が緩む。
窓際のカウンターにトレーを乗せ、高めの丸椅子に飛び乗った。隣に腰かけた彼が炭酸のグラスを渡してくる。

「ありがと」

礼を言ってストローに口をつけた。しゅわりと弾けた爽やかな酸味に、作戦がうまくいった高揚感も湧き上がる。
すぐさまドーナツを頬張れば、バタークランチの歯触りとココアの甘い風味が幸せへと誘ってくれる。二口、三口とがっつく天子を、彼はじっと眺めながら飲み物を啜っていた。赤いカップからはコーヒーの香りが立ちのぼる。

「君、どこに住んでるの」

「なにそれ。ナンパ?」

唐突な質問に不躾な質問で返せば、カップを置いた彼がくすりと小さく笑った。なんだ笑えるんじゃん、とさっきまで能面だった表情を見返して思う。

「ただの世間話だよ。無理には言わなくていい」

「ふーん。高浪だけど」

「高浪。金刀比羅神社があるところだね。電車で来たの?」

「親の車。妹がこの近くの皮膚科に行ってて、それ終わるまでの暇つぶし」

「皮膚科は混むからね。症状にもよるけど、結構時間かかるんじゃないかな」

「駅前散歩して、七日堂のゲーセン寄るかなって思ってた。待ち合わせも七日堂だし。これ食ったらそっち行く」

七日堂は駅から東に歩いた先のデパートで、フードコートにおもちゃ屋、ゲームセンターなど子供の遊び場には打ってつけだ。妹の診療を終えてから母親と合流し、一階のスーパーで夕食の買い物をして帰る予定だった。


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