ことほぎの儀
ひのてんR18

「っあーすっきりした!」

ガタンッ、と勢いよく引き戸をスライドさせ、タオルを被った天子がのしのしと洗面所を出る。上はヒートテック一枚、下は股引と裸足。その他の衣装は小脇に抱え、髪から滴る雫もお構いなしに廊下を闊歩していく。

「あらぁ! ほんとにお風呂入る子がいるなんてねえ」

「げっ」

角を曲がったところで運悪く事務員に見つかり、気まずさについ乱暴な口調で捲し立ててしまう。

「うっせえな! 使えっつったのはそっちだろーが!」

「悪いなんて言ってないよ。せっかくあったまったんだから湯冷めしないようにね、わかったかい!」

「いってぇ!」

天子の背をバンと遠慮なく叩き、彼女は朗らかに笑いながら去っていく。まさか、入浴の理由まで見透かされたわけではあるまい。ふーっと安堵の息をつき、できる限り足音を立てずに居室へ戻る。

「お帰り」

襖を開けて驚いた。部外者であるはずの火野は至極当然のように、こたつで呑気にみかんを剥いている。昼休憩の終わりが迫る時間帯、他には誰もいない。
中途半端な天子の格好を一通り眺め、彼は予想に違わぬ提案を申し入れてきた。

「着替え、手伝おうか」

「結構です」

また面倒な点検をされては敵わない。間髪入れずに背を向ける。

「下着はどうしたの?」

嫌がらせとしか思えない問いかけに舌を打つ。

「どうもこうも、自分のやつ履く以外に選択肢あるんですか」

赤々と燃えるストーブの前に胡座をかき、髪の水分をがしがし拭う。後のことを何も考えずに頭からシャワーを浴びてしまったので、仕事へ戻る前にせめて髪は乾かしておこうと熱源に旋毛を向けた。
タイムリミットが緩やかに迫っている。腹掛や半纏を着込む時間はかろうじて残っているが、僅かな猶予の中で、何を伝えるべきか悩んだ。その背中に投げ掛けられる穏やかな声。

「仕事終わるまで待っててもいい?」

露店の食べ物を奢る約束を果たすためか。天子はぶんとかぶりを振った。

「自分で買うからいいです。バイトの奴らと、帰りに寄るかって言ってたし」

彼の好奇心を満たすために多大な犠牲を払ったのだから、本来ならたらふく食べさせてもらいたいところだが。なかなか集まれない仲間たちとの都合もあるし、遅くなると彼も零たちと一緒に帰ることができない。その辺りを皆に勘繰られたら厄介だ。それに。

(ここで離れとかないとたぶんマズイ)

拒み切れなかったのは決して薬なんかのせいじゃない。久しぶりの体温は心地よくて、離れがたくて。仕事など忘れて、求められる喜びに浸っていたかった。
肩越しにちらりと彼を一瞥する。柔らかく向けられた微笑みに、つんと鼻の奥が痛んだ。

『嫌いにならないでね』

(なれるもんならとっくになってるっての)

それを見越してのわざとらしい台詞。勉強に差し障らぬようにと気を遣っているのが馬鹿馬鹿しく思えてくる。タオルを放って、体ごとくるりと向き直った。

「――これ、焚き上げのとこで後日燃やすらしいんですけど」

股引を摘まんで口を開く。燃やすの?と火野は瞳を見開いた。少し前まで自分を翻弄していた細い指が、みかんの白い筋を丁寧に取り除いている。

「もったいないね。まぁ、今はともかく昔の用途を考えたら、使い捨てでも仕方ないのかな」

「そんで、燃やす前に各自で洗濯してこいって言われて――今日、親も妹も親戚んとこ行ってるから誰もいねーし、柔軟剤とか全然知らねえから…」

我ながら情けない言い訳だと思うが、つまらない意地を張ったところで気持ちは筒抜けだ。ならばどこまでも浅ましく、素直に貪欲に伝えたい。心境を悟ったらしい火野が頷いた。

「うちで洗うから持っておいで。お友達とゆっくり遊んだ後でいいよ」

出店を狩り尽くしてからではすっかり日が暮れてしまう。その時間帯に招待されたのなら、洗濯以外のあれこれも許してくれるのだろう。胸の内がぽかぽかと温かくなる。

「終わったらお給料もらえるんでしょ? 二万円だっけ。屋台制覇できそうだね」

「そんな使い方のために稼いだわけじゃないんで」

食い意地が張っていると思われたようで少々むっとするが、拭った手で水気を飛ばすように髪をかき混ぜられ、反抗心は瞬時に萎んでしまう。

「知らねえだろうけど、そこにちょっと足せばこっから東京まで三往復できるんですよ」

案の定、彼は細い首を傾げる。

「二往復もできないんじゃない?」

「バスの話です」

彼が想定したであろう列車は、速度に比例して料金もそれなりだ。一方、高速バスは倍の時間がかかる代わりに料金も特急の半額近くまで下がる。タイムイズマネーのどちらを重視するかによるが、回数をこなすのなら後者に限る。

「ああ、そうだね。確かにバスなら可能だと思うけど」

ここまで説いても彼は核心に迫っていないのか、東京往復の目的を訝しむばかりだ。

「だーかーらっ、」

あまり気の長くない天子はバンとこたつの天板を叩くなり叫んだ。卓上のみかんの山が危なげに揺れる。

「会いに行ってやるって言ってんだろ! 大学受かろうが引っ越そうが! 知ったことじゃねえんだよ!!」

はーっ、と血が上った脳みそに荒く酸素を取り入れる。天子の剣幕に何度か瞳を瞬かせてから、火野は徐に笑い出した。口許を手で覆い、さも可笑しそうに背中を丸めて。

「だめだね。可愛い後輩の企みにも気づかないなんて」

「むぐっ」

綺麗に剥いたみかんの一房を口に突っ込まれ、咀嚼しきらないうちにまた一房を唇に押し付けられる。ずいぶんと粗暴な甘やかしだが、決して照れているわけではあるまい。みかんだって火野が自分で食べるために剥いたのではないこともわかっている。
ともあれ唐突な決意表明は一笑に付されることもなく、ほんの少しだけ安堵する。

「楽しみに待ってるよ」

返事をしようにも、次々と差し出されるみかんが発声を阻む。

「僕も時々は帰ってくるから。今のマンションは人に貸しちゃうつもりだけど、泊まる場所はたくさんあるし。四月に入って、少し落ち着いたらいつでもおいで」

ごくんと最後の房を飲み込むと同時に大きく頷く。会いたいなら行けばいい。声が聞きたいなら電話すればいい。顔を合わせられない違和感もきっと時間が解決するし、一年と期間が決まっていれば我慢できないこともない。
物分かり良く流してしまうのも癪なので、作為的に眉をひそめて尋ねる。

「大学入ったら勉強に夢中で、他のことなんかどーでもよくなるんじゃないですか」

国内最高峰の研究施設を誇る場所だ。学生は勉強が本分とはいえ、火野なら度を越えてのめり込むだろう。そうなれば自分のことなどあっさり忘れてしまうのではないか。特に否定せず微笑む彼の様子に、想像が現実味を帯びてくる。

(別に、忘れることが悪いとは思わねえけど)

会えないもどかしさを四六時中募らせていては気が滅入る一方だ。どうにもならないことで悩むよりよほど前向きであるのは間違いない。今まで彼と過ごしてきた時間をこれから何に使うべきか、改めて考える機会かもしれない。服を着せつけてもらいながら思う。
彼の指があちこちへ触れる度に、体が未練がましく熱を孕む気配がした。

二人きりの空気に後ろ髪を引かれつつ、居室を出て社務所の玄関へ連れ立っていく。屈んで雪駄を履いていると、火野が靴箱の上を指差した。

「見てごらん」

クロスが敷かれたスペースには鏡餅や門松など季節の小物が飾られているが、彼が指先で示したのは写真立てだ。被写体は淡い紅紫色の、ツンツンとした独特の花。

「これがイカリソウの花だよ」

「うえっ、あいつかよ」

もう二度と世話になりたくない植物の名に、天子は苦々しい顔を背ける。火野が僅かに目を瞠った。

「そういえばイカリソウの花言葉って」

「…て?」

「――ふふ。何でもないよ」

やんわりとはぐらかされるが、憮然とする間もなくとんでもないことを囁かれて驚く。

「その服、僕が洗うなら気兼ねなく汚せるね」

収めたはずの煩悩が容易く息を吹き返す。耳の赤みを見られまいと、さりげなく手で覆いながら外へ飛び出した。
前言通り、焼きそばにたこ焼き、串焼き三種、じゃがバター。そこに鶏皮とケバブを足せば、己の備えは充分だろう。聖なる巫女を拐かした責任は、一晩かけてでも取ってもらわなければ。
木々の隙間から吹き込む寒風を吸い込み、いくらか落ち着いた頭で切り返した。

「途中でぶっ倒れないように、さっさと帰って寝といた方がいいんじゃないですか」

「そうするよ。可愛い後輩に心配かけないように、ね」


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