小説 | ナノ


▼ 7.あれはダメ

四時十分にホームルームを終えた彩音はほぼ一番に教室を飛び出し、西階段を駆け下りる。ついにあの実験室へ見学に行けるのかと思うと、午後の授業はまるで頭に入らなかったが、まぁよしとしよう。

「あ、早すぎちゃった…」

一年五組はまだ教室の前後の戸が閉まっており、ドア越しに担任教師の落ち着いた声がする。よくよく考えてみれば、零や薫は職員室を経由して実験室へ来るのだから、早く着いたところでまた外で待ちぼうけになるだろう。
彩音は西階段をもう一度、今度はゆっくりと上っていき、飲むタイプの苺ヨーグルトを自販機で買った。とろみのある中身をストローで吸いながら、五組の廊下へと戻っていく。ちょうど、ガタガタと椅子が一斉に動く音が聞こえ、前後のドアがほぼ同時に開け放たれる。廊下に溢れ出る生徒たちに混じって、凛が手を振りながら現れた。

「お疲れ。どうする?すぐ行ってみる?」

「うん。先輩たちが来るまで、待つことになるかもしれないけど」

胸の高鳴りがなかなか収まらない彩音は、ヨーグルトを片手に廊下を東へと進んでいく。凛も重そうなスクールバッグを細い肩につっ掛け、彩音の後を追った。

「実験室だっけ。こっちにあるんだ、昇降口しかないと思ってた」

「昇降口のまた向こうなの。一番端っこだったよ」

やがて『化学実験室』の白札が見えると、彩音はすうはあと深呼吸で近づいていく。が、予想通りドアには鍵がかかっていた。だよねえ、と凛も頷く。

「二年生の教室は二階か三階なんだし。で、職員室が逆の南校舎じゃ、あたしたちのほうが早いか」

ふふっと凛は笑みを浮かべて、

「先輩たち、びっくりするんじゃないかな。うわ、こいつらテスト受ける気か!って」

「絶対驚くよ。だって昨日、周りの子たちみんな嫌がってたもん。…わたしも人のこと言えないけど」

「まぁまぁ。逆にさ、勉強してどうにかなるならいいと思うよ、あたし。自分の適性もわかるし」

「うーわぁ、凛ちゃんほんと大人…」

などと実験室の前でやっていた、その時。角を曲がってきた薫の姿に、彩音はぱっと目を見開く。凛も気づいたようだ。

「あれが、薫先輩?」

彩音が無言で頷くと、わあ、と口許を手で覆う。思いきりにやけていた。凛もこんな顔をするのかと、彩音は改めて腐の魔力を思い知る。
薫はミニリュックを左右に揺らしててくてく歩いていたが、部屋の前のふたつの人影にぴたりと足を止めた。くりっとした瞳をぱちくりさせて、数メートル先から彩音と凛を見つめている。声に出さないまでも、かなり驚いている様子は伝わった。凛が数歩前に出る。

「こんにちは!あたしは光坂凛、こっちは結城彩音といいます!化学部の見学に来たんですけど、いいですか?」

薫はきょろりと視線を彷徨わせ、小刻みに何度も頷いた。ひとつひとつの仕草が小さくてハムスターのようだ。可愛い、と凛が囁いたのを彩音はしっかり聞いた。

「ありがとうございます!よろしくお願いします!」

「よ、よろしくお願いしますっ」

はきはきとした凛に続けて、彩音も慌てて頭を下げる。おさげがゆらりと振り子のように揺れた。
薫は二人を興味深げに見つめながら、実験室のドアを手慣れた様子で開ける。

「ど、どうぞ」

やや気圧された薫が、おずおずと手のひらを向けて二人を招き入れた。

「失礼しまーす」

昼休みにもいろんなことを話したが、凛は中学では陸上部だったらしい。もう運動はしなーい、と文化部に入りたがっているようだが、はっきりした物言いや挨拶はその辺りで身に付いたのだろう。見習わなくては、と彩音は挨拶を復唱する。

「ここが実験室…」

普通の教室の倍はあるだろう面積の部屋を、彩音は
ぐるっと見回す。水道付きのお馴染みの黒い実験台がいくつも並べられ、壁際の作り付けの棚には様々な実験器具や容器が収納されていた。正面には上下する二段の黒板と、横に広い、教師用の実験台。薫たちが入ったドアとは黒板を挟んで逆側にあたるドアは、薬品や特殊な器具を収めた化学準備室へと続いている。

薫に促されるまま、彩音と凛は入口に近い実験台へついた。零が来るためか、引き戸は開けたままだ。
薫は緊張しきった面持ちで二人の向かいに腰掛ける。当然である。普段は零だけで事足りるからとろくに他人と話さない薫が、年下とはいえ初対面の、しかも女の子二人を相手に、気の利いた一言など出せるわけなかった。が、喋らないわけにはいかない。

「副部長の、水川、薫、です」

沈黙に耐えかねて、薫は辿々しく自己紹介を始める。と言っても、話せることなど極々僅かだ。別にこれといって趣味があるわけでもない。化学についてなら滔々と語っていられる自信はあるが、そんなことをしてせっかくの見学者に飽きられてしまったら元も子もない。薫だって部員はほしいのだ。
もう、プライドなんかに構っている余裕はない。指摘される前に自分から話してしまったほうがいっそ楽だ。薫は諦めて口を開いた。

「……ごめん。俺は、その、あまり…話が、得意じゃなくて」

恥ずかしい。めちゃくちゃ恥ずかしい。年下の女の子を前に、恥しか晒すものがないなんて。こうなるとわかっていたら、迷わず一組から零を引っ張ってきたのに。っていうか早く来いよ何してんだよ。

「あ、大丈夫ですよー。ちゃんと聞こえますし、あたしたちが押し掛けてきたんですから先輩は気にしないで下さい。もしよかったら、あたしたち質問するんで答えてもらってもいいですか?」

ね?と凛は彩音に同意を求める。
彩音は察した。凛ちゃんもしや、化学部ついでに水川先輩へあれこれ聞いてしまう作戦なのでは。立花先輩も来ないみたいだし、これを機に攻めちゃおう、ってことなのかな?

「う、うん。先輩、いいですか?」

口下手な先輩に呆れもせず、むしろこちらを気遣って話を振ってくれた後輩に、薫はほっと息を吐き出して頷く。よかった、いい子たちだ。これで零に気がなければ歓迎するのだが。

「じゃああたしから。化学部って、普段どんなことしてるんですか?」

「去年までの活動だと…実験したり、科学館に行ったり、授業の復習をしたりした。大学や企業のホームページを見て、面白そうな実験を見つけてくるのが多い。結晶を作ったり、分子模型とか、そういうのも」

化学関連の話なら、自己紹介よりもずっと饒舌になれるらしい。凛は会話の糸口を探しつつ、部活についても訊いてみる。

「部活は毎日やってるんですか?」

「毎日実験、ではないけど…放課後は、だいたいここにいる」

あ、やっぱり化学の話のほうがいいのかな。でもこうしてもごもご困っているのも、それはそれで庇護欲をそそるというか、萌えるというか。
凛は携帯をポケットからこっそりと出して、薫に気づかれないよう、実験台の下で文字を打ち込んだ。彩音をつんつんとつついて、ディスプレイを見せる。

『めっちゃかわいくない?』

彩音がかなり真面目な顔で頷く。バカ、あんたそれじゃバレるでしょ。にやけんの堪えてんじゃないわよ。

『なんかきいてみて』

「えっとぉ…ここ、食べたり飲んだり、してよかったですか?」

そこかい、と凛は机上の飲むヨーグルトを横目に心の中でツッコミを入れる。しかし、意外性のある質問で薫の緊張はいくらか緩んだようだ。

「だい、じょうぶ。俺も、お菓子とか、よく食べてる」

『おかしすき?ってきいて』

「先輩、お菓子好きなんですか?」

「…すき」

「よかったら、これどうぞ?彩音もほら」

凛はぱんぱんのスクールバッグから袋に入った個包装のチョコクッキーを引っ張り出して、机に広げる。小腹が空いていた薫はきらりと目を光らせた。

「…いただきます」

細い指がぴりっと袋を破き、柔らかそうな桃色の唇がクッキーを食んだ。小さな口を、もぐもぐと動かしてクッキーを頬張る小動物。彩音なら二、三枚を一気にいけそうなクッキーを、ちまりちまりとひと口ずつ、前歯でかじって食べ進めている。先程の不安げな表情とは打って変わって、糖を得た薫は満足げだ。
凛はとうとう彩音を椅子から引きずり下ろし、直接顔を突き合わせる。どちらもかなりひどい顔をしていた。

「あれはダメよ」

「あれはダメだよ〜」

ぐっ、と本日二度目の固い握手が交わされた。



prev / next

[ back to top ]



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -