▼ 5.結城 彩音
「えーっとポテトコロッケ四つと、それからトンカツ二つ、あと…カマンベールチーズカツ下さい」
夕日が半分沈んだ蓮華町の駅前通り。駅ビルと細い道路を挟んで立ち並ぶ商店街の肉屋『鳥好』で、結城彩音は紙袋いっぱいに揚げ物を詰め込んでもらう。高校以前からの常連である彩音に、タオルを額に巻いたおやじさんが白い歯を見せて笑いかける。真新しい制服を眺めながら、感慨深げに頷いた。
「よぉ、結城さんとこのお嬢ちゃん。蓮華に行ったんだってな、おめでとう」
「はい。ありがとうございます」
揚げたてのフライやコロッケが並んだショーケース越しに、三角巾を締めたおばさんも紙袋を渡しながら彩音に声をかけた。
「こーんな、ちっちゃかったのにねぇ。まさか高校生になって、こうやって帰りに寄ってくれるなんて」
「お母さんにおかず頼まれたんです。今日は、好きなだけ買っていいって」
水色のカルトンに札と小銭を置いて彩音も笑う。いつもは兄が仕事帰りに寄ることが多いのだが、これからは自分の役目になるかもしれない。
「そうかい。ああ、こっちはいいよ」
カマンベールチーズカツを別の小袋に入れ、おばさんは千円札だけを受け取る。
「これは食べながら帰るつもりなんだろう?はいよ」
「わぁ、ありがとうございます。また来ます」
茶色の温かい紙袋を抱え、もう片方の手で口の開いた小袋を持って、彩音は帰り道をとことこと進む。
「んー、おいしーい」
開いたところから丸型のチーズカツをにょきっと出して、揚げたてのそれにかぶり付く。唇がテカテカになっても今は気にしない。鶏の胸肉にカマンベールチーズを挟んで揚げたフライは彩音の好物だ。
(それにしても、テストがあるとは思わなかったなぁ…)
商店街から高校方面に戻る道を進みながら、先程の薫の言葉を思い出す。口はもぐもぐと動きっぱなしだ。駅構内を抜け、高校帰りの生徒たちと反対方向に歩いていき、駅裏の道路から横道に入る。
(でも、確かに化学に全然興味のない人が入っても、嫌だよね)
可愛らしい顔には不似合いの、ちょっと険しい表情で薫は宣言した。ああでも、あの顔もあれはあれでよかったかも。慌てた零のフォローもきゅんときた。
あの後、ふたりは実験室でどんな話をしたのだろう。めくるめく妄想が頭の中でふわふわと育っていく。
「ただいまー」
自宅のドアを開けたところで、ちょうどチーズカツと妄想が終わった。お帰り、と母が奥から顔を覗かせる。
「早かったのね。部活の見学して来るって言ってたから、もっと遅くなると思ってたわ」
「うん…一応見てきたんだけど、ゆっくりでいいかなって」
ダイニングテーブルに紙袋をどさりと置けば、給食でも始めるのかと思しきサイズの寸胴鍋がコンロに鎮座していた。ちなみに、結城家は彩音と兄と両親の四人家族である。
彼女はさも当たり前のように鍋を見て、それから一升炊きの炊飯器も見て、今日はカレーだね、と鼻をひくひくさせた。おかずになるはずのコロッケとトンカツはまさかのトッピングだったのだ。やったぁ今日はカツカレーだね、と今し方チーズカツを食らったばかりの彩音は小さくはしゃいだ。
◆◇◆
(あああ、ない!やっぱりない!)
その翌日。
彩音は四限の授業を前に、備え付けのロッカーをがさごそあさりながら青くなっていた。
(ないよ、数学Aしかない!)
蓮華高校では各教室の廊下に小さな個人ロッカーがずらりと並んでおり、その中に教材を入れることになっている。教科書は学校ではなく指定の書店で事前にまとめて購入していたが、大半は家に置いたままで、時間割を見ながら日々少しずつロッカーへ持ち込んでいくのだ。彩音もそうしていたのだが、教科書をうっかり間違えて持ってきてしまったらしい。
次の四限目は数学T・A。数学Aの教科書はあったが、Tの教科書が手元のどこを探してもない。クラスメイトによると、数学はまずTから始まるのだという。そして昨日のオリエンテーションで知ったのだが、数学担当はいかにも厳しそうな男性教師だった。初回で忘れ物をしたとなれば黙っていないだろう。
焦りに加え、昼前の空腹も手伝って、頭が空っぽになってしまう。
(だ、誰か貸してくれないかな…!)
教科書は学年共通なので、他クラスで持っている人に借りれば済む。問題は、誰が貸してくれるかだ。同じ中学の知り合いはいるが、仲良しかどうかは微妙なところ。唯一、貸してくれそうな友達のいる七組はもう、移動教室で美術へ向かってしまった。
彩音は走って階下のクラスへ向かう。誰か誰か、誰でもいい、助けて。
「す、すみません!あの!」
一年五組の前で背の高い女子生徒を見掛け、彩音は大きな声で呼び止めた。くるりと振り向いた彼女の髪は肩まできれいなウェーブを描いている。赤い眼鏡の奥の瞳が、誰?と彩音に訊いていた。
「八組の結城彩音といいます!あの、数学Tの教科書、げほっ、持ってたら…っ、貸してもらえ、ませんか…!」
階段を全力で下ってきた報いか、ぜえぜえと荒い息遣いを披露してしまう。ああ、普段ならともかく、こんな汗だくの怪しい奴になんて貸してくれない。お願いします、と彩音は低い位置にある頭をより低くして何度も頼み込んだ。
「数T?いいよ」
あっさりと頷いた彼女は、鈍色のロッカーをガタンと開けてクリーム色の冊子を掴み取った。それだ、わたしがほしかったものは。はいと手渡されて、彩音は既に泣きそうだった。
「ありがとうございます!後で返しに来ます!」
「うん。ほらもう始まるし、飯塚厳しいから、早く行ったほうがいいよ」
飯塚というのが数学教師の名だ。彩音は礼を連ねながらまた階段を駆け抜けていった。
(ああ、ほんとよかった…)
昼休み開始の鐘と共に退出する飯塚を見送って、彩音はぎゅっと教科書を抱きかかえる。飯塚が忘れ物をチェックすることはなかったが、挨拶もそこそこに早速一ページ目から授業が始まったので、無ければ気づかれたかもしれない。
見ず知らずの、しかも冷や汗まみれの女に教材を貸してくれるなんて、なんて親切な人だろうか。彩音は西階段の自販機で紙パックのリプトンレモンティーを買って、五組へ向かう。好みはわからないが、女子高生ならリプトンが嫌いな人はたぶんいないだろう。もし嫌いだったら、好みを訊いて改めて買ってこよう。
彼女は教室の外で待ってくれていた。こうして見るとやはり背が高い。150センチの彩音は特にそう感じた。
「助かりました!本当にありがとうございました、これよかったら…」
彩音がリプトンを差し出すと、教科書くらいで別にいいのに、と笑いながら彼女は受け取ってくれた。
「ありがと。ちょうど飲み物買おうと思ってたんだ」
「そうなんですか、よかった…」
近くで見るとわかるが、彼女の瞳はうっすらと茶色がかっていた。髪色も赤みを感じさせる茶色だ。
それにしてもさ、と彼女がおかしそうに笑う。
「何で敬語なの?同い年じゃん」
「え?えっと、何となく…」
こちらが依頼する立場だったこともあり、同い年ということをまず念頭に置いていなかった。彼女はさらりと髪のウェーブを揺らして続ける。
「彩音、だったよね。あたし光坂凛。よろしく」
「よ、よろしく!凛、ちゃん」
凛は満足げに頷き、天井から提げられた真四角の時計を見上げた。
「ね、よかったらお昼一緒に食べない?景色のいいとこ、見つけたんだよね」
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