▼ 9.処置
長い黒髪を後ろでひとつに束ねた、華奢で楚々とした少女。手には血の滴る小振りのメス。彼女の向こうで、台に四肢を磔られたカエルがぴくぴくと痙攣しているのが見えた。目を背けた天子は息を落ち着けながら、つかつかと彼女に詰め寄っていく。
「悲鳴が聞こえた。お前じゃねえのか」
「悲鳴?」
メスの先をペーパーで丁寧に拭いながら、彼女は細い首をかくりと曲げる。やがて大きな瞳をさらに見開いて、あっ、と恥ずかしそうに口許へ手をやった。透けるように白い頬が僅かながら赤みを帯びる。
「申し訳ありません、私ですわ。その、些か興奮してしまいまして」
「は……?」
たおやかな声音と共に発せられる、場違いな言葉遣いと単語。天子は毒気を抜かれてしまう。実験台では開腹されたカエルが四肢を放り、その周りを小道具が取り囲むばかりで、興奮できそうな媒体や物質は他に見当たらない。
カエルにか。カエルに感極まってあんな声を上げたのか。だとしたらとんでもない性癖の持ち主である。このような見目麗しい美少女でも関わりたくはない。天子は即刻踵を返した。
「何ともねえなら用はねーよ」
紛らわしいことを、と毒づく気力さえ削がれた気持ちで、カエルにも背を向けて一歩を踏み出す。しかし。
「待って下さい! お怪我をされていますわ!」
小さな両手にシャツごと腕を掴まれ、ぐんと天子の体が後方に引っ張られる。雑に振り解きたいのは山々だが、たとえ変態(?)でも自分より遥かに力の劣る彼女を相手に乱暴な真似はできない。うるせえ、と腕を揺すって天子は舌を打つ。
「離せよ。ほっとけ」
上から睨み付けて威圧すると、彼女は僅かに怯んだものの、いいえ、と手の力を強めてかぶりを振る。艶めいた髪の光輪が揺れた。
「見てしまった以上、放ってはおけません。こちらにいらして下さい」
「おい! 離せっつってんだろ!」
彼女は先程より芯のある声で宣言したのち、ぐいぐいと天子を部屋の奥へ引っ張っていく。天子も負けじと声を張り上げるが、彼女は迷いなくずんずん進むばかりだ。教室の後方に目立たぬドアがあり、内側から準備室に通じているのがわかった。彼女が片手で押し開け、天子を強引に引き入れる。もはや負傷者への気遣いはないに等しい。
「てめっ、いい加減に――」
「部長、怪我人がいらっしゃいますの! 入室してよろしいですわね!」
天子が最後まで苦言をぶちまける前に、彼女はすぐ左手のドアをノックして叫んだ。返答はない。
焦れた彼女が取っ手を掴もうとするや否や、ドアが向こう側からゆっくりと開く。
「怪我人? どういうこと――」
現れたのは長身の男。ネクタイは青色だ。和風の顔立ちは涼しげに整っている。
視線が眼鏡の奥の瞳とかち合うなり、天子ははっとした。彼も口にしかけた言葉を途中で呑み込み、やや驚いた表情で天子を凝視している。しかし彼女に急かされ、ああ、とドアを広く開けて二人を部屋に招き入れた。
「どうぞ。入って」
ーーー
「ってえ!」
「消毒は染みるものですわ。我慢なさって下さいな」
消毒液に浸した脱脂綿をピンセットでつまみ、由姫は尚も額の傷を何度となくつつく。わざとやっているわけではないだろうが、時折余分な液が垂れて目に入りそうになる。天子は乾いた脱脂綿で目を庇いながら叫んだ。
「ふざけてんじゃねえぞおい! とっととなんか貼れボケ!」
「ええ、このくらいですわね。ではこれを」
ようやく大判の絆創膏を額に貼られ、天子は目元の脱脂綿を外して由姫を睨む。ネズミ程度なら射殺せるだろうその視線に彼女は見向きもせず、頬にも同様の処置を施していた。何を言っても無駄らしいと踏み、天子は早々に抵抗を諦めて部屋を見渡す。気味の悪いオブジェと目が合わぬよう、飾り棚の一部を避けつつ。
長方形の部屋は『生物準備室』の様相を呈していなかった。薬液に浸けられた標本や関連書籍はともかく、およそ生徒が使用するための教室ではなくなっている。教師ですらここまで贅沢な部屋は与えられないだろう。
天子が今座っているソファもそう、本来なら校長室にでもあるべき応接セットだ。奥にある書棚付きのシステムデスクは言わずもがな。机には辞書の如く分厚いハードカバーと、薄型のノートパソコン。デスクの脇には『危険物』『ワレモノ』マークの段ボール箱が雑に積まれている。
極め付きは教室のサイドを埋める奇妙なオブジェ。インテリアとして飾っているのなら相当に趣味が悪い。が、カエルに興奮を覚える人間がこの場にいると知っていれば何ということはない、ただただ引くだけだ。
「その怪我はどうしたの」
机を挟んで向かいのソファに座っていた火野が声をかけてきた。肉付きの薄そうな腿にはカバーのかかった文庫本が乗っている。彼は先程から手当ての妨げにならぬよう黙っていたが、由姫が顔の処置を終え、手首の擦過傷に移ったところで口を開いた。見た目から想像されるよりやや低い声だ。ふん、と天子は顔を背ける。答える義理はない、とばかりに。
「誰かに叩かれたの?」
火野は生意気な態度を気にした様子もなく、声のトーンを変えずにさらなる問いを重ねた。無視するほどに会話が長引きそうな気配を感じ取り、天子は目もくれぬままつっけんどんに返答する。
「関係ねえだろ」
「関係あるかもしれないよ」
「うるせえな、ほっとけ――いってえ! 何すんだてめぇ!」
血の滲む擦り傷に、ぐりぐりと故意に押し付けられる脱脂綿。染みる痛みに天子はソファの端へ飛びのき、たちまち由姫に食ってかかる。彼女は立ち上がると腰に両手を当て、きつい表情で天子と対峙した。
「私にはそのようにお話をされても構いません。ですが」
由姫の手のひらがひらりと舞って火野を指す。
「こちらは先輩にあたる方ですわ。適宜、敬語をお使いになって下さいな」
「ああ? 上級生なんて見りゃわかんだろーが! 敬うかどうかなんざ俺が決めることだっての!」
自分の胸元から垂れる緩いネクタイ――緑色を揺らして、天子は彼女との間に激しい火花を散らす。まぁまぁ、とひとり穏やかな声で火野は由姫をなだめた。
「ありがとう、姫。でも僕は気にしてないよ、大丈夫」
「でしたら気になさって下さい」
由姫は天子から視線を外さないままにべもない。火野は薄く微笑むと腰を上げ、飾り棚に乗っていたティーセットにいそいそと手を伸ばした。
「いつもお茶を淹れてもらってばかりだから、今日は僕がやろうか。君は?」
「いらねえ」
天子も由姫を見上げたまま微動だにしない。
カチャカチャと慣れた手つきで湯を注ぎ入れ、程なくして火野がテーブルにカップを運んでくる。細かな装飾が施された、白と桃色の可愛らしいカップだ。ハーブの香りがふわりと漂うと、由姫はふっと夢から醒めたように振り返り、湯気の立つカップに目を瞠った。
「まぁ、カモミールティーですわね。でも…」
ちらりと天子を一瞥する瞳は既に落ち着き始めている。火野はすかさずフォローを入れた。
「手当ての続きは引き受けるから、ゆっくりしていいよ。これもどうぞ」
戸棚から茶請けらしい個包装のクッキーを皿に取って、カップの横に添えてやる。ついさっきまで目をつり上げていたというのに、由姫はあっさりと喜んだ。少し冷ましてから茶を含んで、彼女は外見に相応しい上品な笑みを浮かべた。
「おいしい。蜂蜜入りですわ」
白黒つけず、強制的に喧嘩を打ち切られた天子は無論面白くない。手首を処置するべく火野が絆創膏と包帯を手に取れば、しっかりと距離を置いたのち、警戒心を露わに睨み付けてきた。
「触んな。自分でやりゃいいんだろ」
「そう?」
『気にしてない』と言った通り、ぞんざいな言葉遣いにも突っぱねた口調にも特に反応を示さず、火野は素直に頷いて元の場所へ戻っていく。由姫は上機嫌でジャムクッキーを咀嚼している。人の世話を焼いたり礼儀を正したり、つくづく変な奴らだ。ため息をついて、天子はペリペリと絆創膏のシールを剥がして腕に貼り付けた。少しよれてしまったが、もうどうでもいい。
「ああ、そういえば。自己紹介が遅れてしまいましたわね、すみません」
カップのハーブティーを半分ほど減らしてから、由姫はぱんと両手を打って天子に向き直った。カモミールの鎮静作用か、はたまた甘いもので気持ちが満たされたのか、口調を咎めていた際の鬱憤は晴らされたらしい。
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