小説 | ナノ


▼ 8.遭遇

「――部長。少しよろしいですか?」

「何かな? 僕と君しかいないんだし、そんなふうに改まって言わなくてもいいのに」

「その『あなたと私しかいない』ことに関してです」

どこで販売しているのか、『進化の系譜 -棘皮動物編-』などというマニアックすぎる一冊をテーブルに置いて火野が問い返す。返り血を丁寧に落として漂白した白衣をハンガーに掛け、由姫は腰に手を当てて斜め上を睨んだ。

「この数日、私はずっと危惧しておりましたけれど。まさか、この期に及んで部員を勧誘なさらないおつもりではありませんわよね?」

蓮華高校の部活動規則によれば、新規または継続の部活動における最低人数は三名となっており、定員に満たない場合は部活動として認められることはない。具体的には、最低三名が四月末のリミットまでに『入部届』を提出することが条件となっている。
部活動として認められないイコール、『学校側から予算や場所等の提供を受けられない』となる。
無論、公序良俗に反しない等、定員の他にも規則はいくつかあるが、火野が発足を進めている生物部は今のところ部員数以外の項目はクリアしており、時宮の懐に無理やりねじ込む形で申請を前倒しして活動しているのだ。
それも由姫としては遺憾に思うが、新入生はおろか、上級生さえ『こんな活動をしています』のパフォーマンスがなければ活動内容すら知ってもらえないだろう。由姫が考えている以上に『解剖』や『生物部』はマイナーな存在らしいのだ。
既に他の部活動は苛烈な新入生獲得レースが始まっている。掲示板は花見の場所取りの如くベタベタと無数のポスターで埋められ、放課後になれば敷地内のあちこちでキャッチセールスめいたチラシ配布や過剰な声掛けが見られる。
ところが当部は日々のんびりと解剖に興じ、茶を飲みながら知識を蓄えるばかりで、生徒を引き込もうという意気込みは全く感じられない。何せ生徒会発行の『部活動のすすめ』にすら名を載せていないのだ。さすがにこれではいけないと、由姫も危機感を露わに詰め寄ったわけだ。

「勧誘? どうして?」

けろっとした顔で火野は茶を淹れ始めた。
由姫はしばし呆気に取られていたが、沸々と湧き上がる怒りを抑えられず、実験用の蛙が泡を食って逃げ出す程の勢いを彼にぶつける。

「どうしてもこうしてもありません! ご存知のはずでしょう、部員は三人いないと部として成り立たないのですわ! 今、ここに! 私とあなた以外の人間がおりまして!?」

「人間はいないねぇ」

ソファに腰を下ろし、わざわざ部屋全体をぐるっと見回してから火野はのどかにコーヒーを啜る。げこっ、と水槽の中で応じるように蛙が鳴いた。
ぜえぜえと息を切らした由姫へ座るように促すも、はねつけた彼女はややトーンを落として続ける。

「私だって皆が皆、生き物への関心が高いとは思っておりません。ましてや解剖や培養となれば、興味を持つ高校生の方が稀でしょう。わかっておりますわ、私やあなたが特殊ということは。ですが、こうして場を設けると決めた以上はどうしても成立させたいのです。自分のアイデンティティとも言える趣味が気兼ねなく楽しめる数少ない場所ですわ。それがなくなってしまったら、私は…」

幅の狭い肩を落とし、すとんと由姫はソファに座り込んだ。ほんのりと湯気を上らせる湯呑みを両手で包むと、大丈夫だよ、と火野の真面目な声が返ってくる。

「ここまでやった以上は、どんな手を使っても設立にこぎつける。それだけは安心していい」

「具体的に、どのようにですの?」

愛らしい唇がむっと引き結ばれる。

「名前だけ誰かに貸してもらえばいい。いわゆる幽霊部員だね。入部届っていう書類さえあれば生徒会は認めてくれるんだから、誰かにこっそり頼んで入部してもらう。まぁ――それは最終手段だけど、僕は部員に関してはそこまで心配してないんだ。まだ三週間以上あるし」

「私はできたら、共に生物談義を交わせる方がよろしいのですが…なかなか難しいのかもしれません。その点は妥協しますわ。ですが、時間に余裕があるのは事実としても、あなたが考えもなしに事を進めるような方とは思えません。何か根拠がおありなのでしょう?」

「非科学的なことでよければね」

ようやく緑茶に口をつけ始めた後輩を見据え、火野はくすりと微笑んだ。

「幸先のいい夢を見たんだ。君が入部してくれたこともそうだけど、誰かに出会える予感がする」

「夢のお告げ、ですの? あら、まぁ。あなたでもそのようなものを頼られることがあるのですね。なんだか拍子抜けしてしまいましたわ」

何事にも理論ありきの彼にとって、夢などという不確定要素は信じるに値しないと感じていたが。由姫はやや目を瞠り、ふと思い出したように立ち上がる。
引っ掛けられた白衣の近くに置きっぱなしだったケース。異なるサイズのメスやピンセットがいくつも収納された解剖キットだ。

「お借りしていたのに、申し訳ありません。ありがとうございました」

今日は早速ウシガエルを解剖したのだが、道具一式は既に火野が用意してくれていた。ごく細いメスやハサミは白衣同様に血を拭って消毒しており、薄く青光りしたステンレスの光沢が美しい。
新品同様のビニールケースを両手で差し出せば、火野は笑って首を振った。

「返さなくていいよ。あげるつもりで渡したんだ」

「え?」

それ、と火野は由姫の左手首を指差す。ジャケットの袖から、ピンクゴールドの華奢な腕時計が覗いていた。

「昨日、入学祝いって言ってたでしょ」

そういえばそんな話をした気がする。アメリカ在住の従兄からもらいうけた品だ。盗難が怖いのでしばらくは家で保管するつもりだったが、やっぱり着けてみたくて数日だけこっそり身に付けていたもの。

「僕からあげられるものは、それくらいしかないから」

それくらい、なんて彼は言うけれど。贈り物をされたこともほとんどないけれど。
火野はいつだって、本当に欲しいものをくれるのだ。場所も、知識も、道具も。この放課後の時間すらも。
真新しいケースを両手でそっと包んで、由姫は小さく礼を告げた。

◆◇◆

じくじくと痛みを訴える脚。腿とふくらはぎを強かに打ち付けられたせいだろうか。治って間もない小指が無事でよかった。これ以上使い物にならなくなっては困る。

「情けねーの」

擦りむいた額を覆って舌を打つ。慣れているのだ。怪我も喧嘩も、出る杭として真っ先に打たれる立場も。
たかが数人に寄って集られた程度でこの様だ。動かさなかった間に体が鈍ったのか、単に自分が弱いだけか。
頬がひりひりと熱い。口の中を占めていた鉄の味は消えかけているものの、満身創痍は否めない。重く怠い体を引きずっていると、道行く生徒がちらちらと振り返っていくのがわかる。

威勢よく啖呵を切ってグラウンドへ乗り込んだのが三十分前。やめて、と女子部員の悲痛な叫びが耳をつんざいたのが十五分前。地面に這いつくばった自分を置いて、あいつらが街へ繰り出したのが十分前。なんだ、サンドバッグにされていた時間は正味五分程度か。
は、と自嘲のひと息を吐き出して我に返る。

(帰るか)

放課後の用事は済んだ。教室に戻って勉強してもいいのだが、お節介なクラスメイトに見つかって保健室へ連行されるのは勘弁してほしい。舐めときゃ治――らなくても、帰宅すれば自分で絆創膏くらい貼れる。

正門をくぐるまであと少し。
南校舎のすぐ横を足早に進んでいた天子は、耳に届いた女子生徒の声に立ち止まった。
――悲鳴だ。どこかで悲鳴が聞こえる。

『やめて! もうやめてよ! 天子もそんなことしなくていいじゃない! おとなしくしてればいいんだから!』

どくり、と心臓が嫌な音を立てる。
鼓膜に張り付いた残響が震えると同時に、天子は走り出していた。
悲鳴は南校舎の東側だ。人気のない三年生の昇降口で靴を脱ぎ捨て、靴下のまま廊下の床を蹴る。階段を過ぎた先には、暗がりの中に教室がひとつ。辿り着いた天子は躊躇なくドアを開けた。

「ふふ。あなた、内臓が個性的ですわね。意外と弾力もありますし」

はあ、と切れかけた息を整えた天子は、ドアを掴んだまま呆然としていた。室内では、白衣に身を包んだ女子生徒がカチャカチャと音を立てて実験台に向かっている。

「おい。お前…」

声に気づいたのか、彼女はすいと入口を振り返った。揃えられた前髪の下、黒目がちの相貌が天子を見据える。細い首がかくんと横に傾いだ。

「あなた、は……?」


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