小説 | ナノ


▼ 6.普通

蓮華高校の周辺にはいくつもの桜の木がひしめいている。春先になると一斉に蕾を付け、ちょうど入学式の前後に満開時期を迎える。新入生たちを歓迎するが如く、連なる並木が正門への道を作るのだ。
使い古されたおざなりの台詞を校長や来賓が述べたのち、新入生代表として由姫は登壇した。蛇腹に折った文を広げ、幾度も練習を重ねた文字をひとつひとつ発音する。紋付き袴姿の祖父が安っぽいパイプ椅子にどんと腰を据えている様は普段なら笑いがこぼれる場面だが、無論緊張でそれどころではない。
無事に学業への邁進を誓い終えた由姫は、拍手を受けながらステージ中央の階段を降り、行きと同じく来賓へ礼を重ねて席へ戻る。手はすっかりかじかんで冷たくなり、ほんのり汗が滲んでいた。文を膝に置き、ハンカチでぐしぐしと両手を拭う。大役を終えた安堵からか、昼を目前にしてようやく空腹を覚えた。

生徒会長・時宮の訴え掛けるような熱弁は妙に心地よかった。だって、由姫はもう自由なのだ。責任さえきちんと背負えば、自分の好きなことをどこまでも追い求められる。そのためにエスカレーター式の私立を蹴ってまで選んだのだから、学業はもちろんのこと、余暇は思いきり楽しんで過ごしたい。

(友達はまだ、できそうにないけれど)

今朝はクラスでの自己紹介を各自行い、入学式まで好きに会話するようにと担任が教室を出ていったのだが、由姫に声をかけてくるのは一部の男子生徒のみだった。これからよろしくお願いします、と由姫も前席の女子へ挨拶をしたものの、彼女は黙って頷いたのち、同じ中学だったらしい友達と楽しそうに携帯を見せ合っていた。
式の前に女子トイレを訪れた時も、あの子がそうらしいよ、と囁きを耳にしたり。鏡の前で前髪を直したただけで、やっぱりお嬢様は違うね、などと嫌味を呟かれたものだ。
前途多難ではありそうだが、由姫は周囲の反応をそれほど意に介してはいなかった。家柄と資産が最大のステータスである私立中学校では、この比でない嫌がらせが常に横行していたからだ。何度鞄を汚され靴を隠されたか、いちいち数えていたらキリがない。

(一概に私立と括ってはいけませんが、こちらは全体的に平和ですわね)

令嬢が物珍しいだけで、特定の誰かが除け者にされている雰囲気は今のところなさそうだ。時宮のこうした言動が生徒や教師に受け入れられていることからも、鷹揚で自由な校風が感じ取れる。友達作りはゆっくり頑張るとして、ひとまずは入学できてよかったと由姫は安堵に浸った。



(どこか腰を落ち着ける場所はあるかしら)

午後のオリエンテーション開始まで、一時間程度の昼休憩に入った校内。約半数の親は入学式のみで学校を辞したようだが、引き続きオリエンテーションを観覧できるとあって、子と共に弁当を広げている親も多い。
由姫の祖父母は迎えの車で帰ってしまったが、今夜は祝いに食事へ行こうと提案してくれた。多忙な中、帰国だけでも疲れているのにと由姫は遠慮したものの、行きつけの割烹を予約しておくと祖父は嬉しそうに語っていた。
教室にぽつんと座っているのも何なので、由姫はメイドに持たされた手提げを片手に、校内の冒険へ飛び出した。
南校舎への渡り廊下を進んでいると、はっと頭に名案が浮かぶ。

(生物実験室なら…!)

既に自分は火野によって入部を確約された身だ。部室での飲食は一般的な高校生にとって『普通』らしいと少女漫画でこっそり読んだことがある(創作故の架空設定なら悲しいが)。
正式な届けは出していないものの、新設された生物部ならまだ火野しか在籍していないはずだ。何より、これから放課後を過ごすだろう場所を由姫はいち早く見ておきたい。今日は食事会ですぐに帰宅しなければならないので、暇は今しかないだろう。
渡り廊下の先にある下り階段を駆け、三年生の昇降口を背に暗い廊下を進む。『生物実験室』の古びたプレートを確認し、由姫はそっとノックをした。返事はない。

「あら、開いてる…」

引き戸に手を掛けるとすんなりと横へ開いた。電気も付いておらず、人の気配はない。泥棒にでも入ったような気分で、高鳴る胸を押さえて由姫は忍び込む。

(あまり使われておりませんのね)

鬱蒼とした湿り気のある空気が部屋を淀ませ、器具や実験台も何となく『そこにあるだけ』という感じで無造作に置かれている。春休み明けということを除いても、使用頻度は少ないようだ。

(ここにも部屋が…?)

教室の後方にドアを発見し、ノブを握って押し開ける。前方には器具や試薬瓶の詰まった棚、左手にはまたドア。ドアにはこれ見よがしに貼り紙がある。

『用無き者の立ち入りを禁ず 生徒会』

天井付近の壁に嵌まった磨硝子からは明かりが漏れ、人の存在をそれとなく伝えている。教師だろうかと一瞬考えたが、果たして教師がこんな紙を貼るだろうか。
由姫は一歩踏み出し、ドアを軽くノックした。

「地衣良です。入ってもよろしくて?」

しんと静まり返っていた部屋の中で、僅かな物音がした。それから気怠げな足音。由姫はこくりと喉を鳴らす。
内側からドアがゆっくりと開かれ、見知った笑顔が覗いた。

「どうも、ご無沙汰しております。まさかこんなに早くご挨拶に来られるとは」

「えっ、あ、ご迷惑でした…?」

火野がそんなことを言いつつ眼鏡の下で目元を擦ったので、由姫はバッグを胸に抱えて慌てる。好奇心を抑えられずにここまで突入してしまったが、もしかしなくても自分は彼の眠りを妨げたのではないか。
彼は小さく笑ってドアを大きく広げた。

「いえいえ。驚きましたが来て下さったのは嬉しいですよ。どうぞ」

恭しくドアを押さえてくれたので、由姫はありがたく体を通す。応接セットが目前に据えられ、奥は火野の場所と思しきデスクと本棚が収まっている。
少女漫画で見た『部室』とはおよそかけ離れているが、居心地は自室のようで悪くない。

「このような作りになっているなんて、入ってみないとわかりませんわね」

ひとり掛けのソファに腰を下ろし、教室をくるりと見渡す。壁際にセットされた飾り棚を目にした由姫は、思わず二度見をして叫んだ。

「液浸標本ですわ! トカゲにラットに、クラゲまで。ポージングも芸術的ですわね、あなたが作られたんですの?」

「いえ、それは元からここにあったものなんですよ。昔、生物部がきちんと機能していた時代に作製されたんでしょう。せっかくなので飾っておこうと思いまして」

飾り棚にひしめく瓶の数々は所謂『ホルマリン漬け』と呼ばれる標本だ。ホルマリンで体内の組織を変成させて防腐処理を施したのち、標本とアルコールをぴっちりと瓶に詰めて出来上がる。生物の保存手段としてごく一般的に広まっており、中には一世紀以上も生前の状態を留めている標本があるらしい。
棚の上に置かれたオブジェにも視線を配って由姫は言う。

「こちらは創作物でしょうけど、胎内回帰に対する懐旧の念が垣間見えますわ。自分で思い出せずとも、人間なら誰しもが記憶の奥底に刻まれている事象ですものね」

博覧会に招かれた有識者のようなコメントを残し、あ、と自らの手提げに思い当たる。

「あの、お昼を食べてもよろしいですか?」

客に茶を淹れようとしていた火野は目を瞬かせ、どうぞと含み笑いで顔を背けた。そういえば漫画に影響を受けたとの話も聞いたし、彼女は着々と『普通の高校生』の準備を進めているらしい。

「お弁当なら緑茶の方が良さそうですね。気疲れなさってお腹も空いているでしょう」

急須を傾けつつ慰労の言葉を掛ければ、由姫は楕円の弁当箱に箸を伸ばしつつ照れくさそうに笑った。

「ええ、とても。途中から自分が何を言っているのかわからなくなって――あら、ありがとうございます。どうぞお構いなく」

差し出された湯呑みを両手で包むと、冷えた指がじんわりと温まっていく。温度もやや温めに調整してあり、そっと啜れば茶葉の甘みと渋みが喉を抜ける。

「こう言っては何ですが、なかなか庶民的ですね」

おかかの撒かれた白米に卵焼き、ぬか漬け、鶏つくね等のラインナップを眺めて火野が呟く。

「そうなるようにお願いしましたの。ご飯と卵焼きがあればそれらしく見えるのでしょう?」

「ええ、まぁ。そんなところまで気を配らなければならないとは世知辛いですが。お友達は如何でした?」

由姫は咀嚼するふりをして口をつぐみ、静かに茶を含んでかぶりを振った。



prev / next

[ back to top ]



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -