▼ 4.幼馴染
「先生方が手を出せない気持ちもわかります。誰しも自分の身が一番かわいいですからね。亜子先生はお子さんだっていらっしゃるでしょう?」
「お前の嫌味にさえ言い返せる言葉がないな。そうだよ、私も所詮は子の親だ。さっきの綺麗事は忘れてくれ」
「理想を語ってこその教師でしょう。裏方は似合いませんよ」
「…お前、何を考えているんだ」
水質調査に関する報告書を打ち込んでいた指がふと止まり、亜子がゆっくりと火野を見据える。眼鏡の奥から投げ掛けられた視線は普段と変わらず穏やかだが、瞳に宿る剣呑な意志にただならぬものを感じた。
亜子はそっと、白衣に包まれた二の腕を両手で擦り合わせる。窓の隙間から差し込む、春めいたそよ風がひんやりと肌を濡らしていくようだ。
「僕はただ、守りたいだけですよ。この場所と、大切な人を」
六限目の終わりを告げる鐘が鳴り、火野はうっすらと微笑んで丸椅子を立った。
◆◇◆
「随分と片づいてるじゃない。頑張ったねぇ」
「頑張ったねじゃねえだろ! 人にやらせといて自分はどこほっつき歩いてたんだよ! あーくっそ、腕がいてぇ!」
紙袋を提げた火野は南校舎一階、明るい昇降口を背に、ひっそりと奥まった場所に位置する生物実験室を訪れていた。
教室の使用頻度が極端に低いこともあって、ここ数日は火野が実家から調達した家具や書籍等が乱雑に実験台の間を占領していたが、幼馴染兼生徒会長の時宮が既に粗方を準備室の方へ運び入れてくれたらしい。ソファや椅子はともかく、準備室は入口が狭いので本棚とデスクでかなり苦労したと窺える。
自らが運んだばかりのソファにぐったりと身を投げ出した幼馴染に、火野はおざなりの拍手と賞賛を送った。
「えらいえらい。立花の援助を断った甲斐があったよ」
「なに助っ人断ってんだよ! あの机入れるのどんだけ大変だったと思ってんだ!」
「だから褒めてるでしょ。昨日、うちに近江牛が届いたの。ご褒美に焼いてあげるよ、ステーキ」
飾り棚の上に置かれたコーヒーメーカーで二人分のコーヒーを淹れつつ、火野がにこにこと上機嫌で笑いかける。好物にぱっと顔を輝かせた時宮だが、ううんと複雑な表情で唸ってみせた。
「お前んちに来いってことだろ」
「嫌なの? そっちより広くて片づいてるのに」
「うるせえ。なんか落ち着かねーんだよ、モデルルームみたいで」
ローテーブルへパスされたカップをふうと冷まして、時宮は静かにコーヒーを啜る。テーブルを挟んで向かい側に火野も腰を落ち着かせ、ふ、と伏し目がちに笑みを浮かべた。
「それは遠回しに、輝の部屋に来てほしいって言ってるのかな?」
「違う違うなんか違う」
「そこまでおねだりされたら仕方ないね。先週行った時に買って冷蔵庫に入れたもの、そろそろ食べておかないとまずいし。輝に任せてたら腐らせちゃう」
ぐ、と苦々しく言葉を詰まらせた時宮の反応に、火野は満足そうに頷いてカップを置いた。
時宮家は父が単身赴任、姉が別居のため同居しているのは輝と母親のみだが、母は多忙な職種で大半は家に居らず、これ幸いにと火野が押し掛けることも少なくない。
ほとんど独り暮らしに近い生活を送っているにも関わらず、時宮はあらゆる家事が不得手だった。できないわけではないのだが、やる気が全く湧かない。わざわざ食事を作るよりも買った方が早くて旨いし、服を洗濯して干すよりも三軒先のコインランドリーへ放り込めば済むし、といった感じで、とにかく楽をしたいのだ。
掃除洗濯は適当でも苦にならないが、食事だけは種類豊富なコンビニでもすぐに飽きが来てしまうので、できたら(自分以外の)手作りがいいな、とは常々思っている。
そこにつけこまれている自覚はあれど、実際問題、火野が何の苦もなさそうに、むしろ楽しそうに作る料理の数々は文句なしに旨いのだった。当人の食に対する欲に反して、だ。時宮がハンバーグにがっついているのをよそに、自分は味噌汁だけ啜って読書に勤しんでいたりする。
直前までどれだけ彼に腹を立てていようと、『食べないの? 捨てちゃうよ?』と言われれば勝手に箸を持って手を動かしている始末。だって無駄にしたくないし、腹は減っているし、ちゃんとしたご飯は旨いもん。こいつに罪はあっても食べ物にはない。悔しげに顔を歪ませながら食べていて、『体は正直だね』などとせせら笑われたこともある。
「まぁいいよ、近江牛はどこでも焼けるから。輝は今日、自転車のカゴに牛肉を入れて帰宅するわけだ」
「なんだその間抜けな絵面。ステーキのためなら別に恥とは思わんけどな」
カップが空になったところで、火野は再びコーヒーメーカーに向き直る。依然物が多く、雑然とした部屋をぐるりと見渡して時宮が尋ねた。
「なぁ。そもそも、お前の他にあと二人もここに集まるのか? 生物って化学よりマイナーだろ。部として成り立たなかったら今日含めた俺の労働は何だったんだってなるぞ」
「そしたら僕のひとり部屋になるだけだよ。いいねぇ、それもありかな」
こぽこぽと胎動する不気味なオブジェを撫でつつ、火野が軽やかな声音で応じる。幼馴染の本気を感じ取った時宮は慌てて立ち上がった。
「ありなわけあるか! だいたいお前な、ここだって先生から強引にぶん取ってんだぞ。これ以上私物化すんな!」
「ぶん取ったからには有効に使わないと。というか、そんなに僕って人望ないの? 立花にも部員の心配されたんだけど」
「自分でよくわかってんじゃねーか。あったら訊いてないだろ」
ふうん、と呆れ顔の時宮を一瞥して、火野は人差し指をそっと立てた。
「ひとりは大丈夫。勧誘してある」
「はぁ。で、あとひとりは?」
「そこは運命のお導きに任せるよ。幸先良さげな夢も見たことだし」
ああそう、と二杯目のコーヒーに口をつけた時宮の前髪を、不意に伸ばされた火野の指がゆっくりとすくい上げる。突然の接触に驚いた時宮はコーヒーを吹き出しそうになったが、指先がすぐに離れると、安堵したように吐息を湯気に溶かした。
「まだ治らないの」
額に貼られた正方形の絆創膏。
時宮は前髪の上からそこを軽く擦り、やや顔をしかめて頷く。
「縫ったわけでもないし、そのうち治るんだろうけどな」
「あの一味に真正面からお説教って、ほんと輝は馬鹿だよね。何て言ったの?『諸君らは青春を無駄にしている!』とか熱い台詞で説いちゃったの? ぷっ、だっさ」
「おまっ、心配してんじゃなかったのかよ! つーか聞いてた!?」
「聞いてないけど、え、まさか本当にそうなの。うわぁ、お馬鹿さん。それでよく殴られないと思ったね」
がしがしと居心地悪そうに髪を掻いて、時宮は心からのため息をつく。
「仕方ねーだろ、誰かが何かしない限り変わらねえんだから。俺は…生徒会長はそのためにいるんだぞ」
「違うよ」
カップをトンとテーブルに置いて、火野はゆっくりとかぶりを振った。ひたと据えられたレンズ越しの威圧に、時宮も思わずたじろぐ。
「そんなことのためにお前は生徒会長になったの? 違うでしょ。選挙で全校生徒に何を訴えたか覚えてる?」
「…行事を盛り上げて、この学校を楽しくする…」
火野はこれ見よがしに大きく頷き、手元に引き寄せた文庫本へ目を落とした。肌を射抜くような視線が外され、時宮も胸を撫で下ろす。
「だったらそれに注力しなよ。会長は表で堂々としていればいいの。汚れ役は誰かに任せてさ」
「うぐぅ。だから嫌なんだ」
何が?と火野は不満そうに顔を上げた。こういうところを見ると、生意気で常に不機嫌だった子供の頃を彷彿とさせる。外向きの処世術を身に付けただけで、やはり芯は変わっていないなと時宮は実感した。
「こうやって俺がもたついてると、見かねたお前がとんでもねえ方法で処理するだろ。俺は平和的な解決がしたいんだ」
「何を今更。あっちが暴力に訴えてる以上、和解なんて無理だよ。諦めて入学式の原稿でも進めれば」
「そうだそれだ。やばい、ちーちゃんに明日〆切って言われてたんだった」
「ステーキ焼いてる場合じゃないねぇ」
「それは関係ないだろ!」
「まぁ…輝のことだし、必要なくなると思うけど」
「は? なんで…」
時宮の言葉を遮るように、ブンブンと携帯のバイブレーションが空気を震わせる。火野がジャケットのポケットから携帯を引っ張り出して開くと、知らない番号からの着信が表示されていた。
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