小説 | ナノ


▼ 3.汚染

「水川、これ。餞別ってわけじゃないけど、僕からプレゼントだよ」

火野が荷物から取り出したのは十センチ四方の箱だ。受け取った薫がそうっと蓋を浮かせれば、澄んだ青色の結晶がクッション材に身を埋めていた。薫はぱっと瞳を輝かせる。

「硫酸銅…!」

「そう。大きいでしょ? 種結晶からじっくり育てたんだよ。表面もコーティングしてあるから、触っても大丈夫」

多面体の結晶は長辺七センチ程だ。恐る恐る結晶を手のひらに取って、薫はうっとりと頬を緩ませる。これほどまでに結晶を成長させるにはかなりの日数を費やしたことだろう。
横で見守っていた零があやふやな知識を披露する。

「えーと、硫酸銅ごすいわぶつってやつ? 毒あるんすよね? あれ、結晶ってどうやってできるんだっけ」

「五水和物、ね」と火野。

「そもそも水和物ってなんすか?」

そこからか、と言いたげな表情で薫が口を開く。

「水和っていうのは、他の分子やイオンに対して水分子が強く引き合うこと。この場合は、銅イオンCu(2+)に対して水分子の酸素イオンO(2-)が引き合ってる。プラスとマイナスは引き合うから」

「硫酸銅ってやつが水とも仲良くしてるってこと?」

「まぁね、理解はそれでいいよ。五水和物だから水分子は五個あるんだけど、水川の話に補足すると、五個のうち四つは銅イオンと配位結合していて、もうひとつは硫酸側の酸素イオンと水分子の水素イオンが水素結合してるね」

ほうほう、と薫はメモでも取りかねない勢いで火野の話にのめり込んでいるが、零はてんで理解が及ばないらしく頭を抱えて唸っている。

「ついでに、結晶は溶解度の差を利用して作るんだよ。例えば60度のお湯なら30g溶けるけど、20度だと10gしか溶けない物質があるとする。30g溶かしきった60度の水溶液を20度まで冷やすと、溶けきれない分が小さな塊で析出するの。これが結晶。その小さな種結晶を元の溶液に浸けておくと、結晶がゆっくり大きくなっていくんだよ」

「へええー。先輩がさっき『育てた』って言ってたのはそういう意味なんすね。へへ、よかったなぁ薫。大切にしような」

薄茶の頭がこくこくと何度も振られる。ありがとうございます、との礼も聞いたところで、火野は薫が詰めてくれた紙袋を持ち上げた。

「それじゃ、僕はこれから新しい部室の準備に行くよ。元気でね、二人とも」

「え、もう行くんすか! てか俺手伝いますよ、準備!」

引っ越しとなれば力仕事が基本だろう。薫ほどではないが、火野もその辺りは苦手だ。嬉しそうに腕まくりをした零に、次でいいよ、と火野は優しく告げる。

「今日は人手を呼んであるんだ。新年度に届くものもあるから、立花にはその時にお願いするね」

「そっすか? 先輩、友達いたんすね! ――いてっ! 違うって、嫌味とかじゃなくて! いたんだって発見?みたいな!」

悪気なくするりと口から出た無礼な言葉。横から薫に上履きを踏まれた零が、痛みにぴょんとその場でジャンプする。ありがとう、と火野が笑いながら薫の髪を撫でた。

「でも気にしてないから大丈夫。まぁね、立花に比べたら全然いないけど、僕にも多少…少々はいるんだよ。それに、これからは後輩もきっと増えるから。そっちも頑張ってね」

ぎゅ、と薫の手を握ってから、はい!と零が背筋をしゃっきり伸ばして応答する。薫がそっと微笑みを返したのを最後に、火野は実験室へ背を向けた。


階段を上り、二階の渡り廊下を歩きながら小さくため息をつく。そんなものが自分から吐き出されるとは思わず、ふと我に返ってから苦笑を浮かべた。

「守るものが増えちゃったな」

誰にともなく呟くと、いっそうの自覚を伴って自らに反芻される。
部長としての義務なんて背負うつもりはなかったのに、零も、薫も、驚くほど優しくて、純粋で。礼を言う立場だったのはもしかしたら自分の方かもしれない。
零の言う通り、友達はろくにいないし、無駄に作ろうとも思わないが。後輩ならば、勿体ないくらい恵まれたと言えるだろう。
だからこそ、彼らは自分が守らなければ。

(あの二人には、何があっても手出しはさせない)

指に食い込む紙袋の持ち手をきつく握って、排除の決意を固める。二時間前、保健室での亜子の苦々しい表情が脳裏をよぎった。

◆◇◆

「時宮は大丈夫か? 暇を見つけて来いと言ってるのに全く来やしないぞ」

「先生にご心配をかけたくないんでしょう。年度末で生徒会も立て込んでいるようですし。元気ですよ」

亜子は曖昧に頷きつつ、苛立ちを押し込むように、丸めたシーツを洗濯機へ投げ入れた。火野が今し方まで使っていたものを剥ぎ取ってきたのだ。

「普段は用がなくても来るくせに。白峰なんか怒り狂ってるんじゃないのか」

「かもしれません。どこかの馬鹿みたいに、正面切って乗り込んでいかないといいのですが」

「二の足を踏みすぎて何もできない臆病者よりはいいだろう」

「自虐的ですね。先生らしくありませんよ」

粉洗剤を振り撒いてスイッチを押し込んだ亜子は、額を軽く押さえて椅子にどさりと腰を下ろした。ブン、と洗濯機が徐に胴を震わせる。

「子供ひとり叱れないなら、教師なんて居ても仕方ない」

「この年にもなって自分のやっていることに責任も持てないようでは、子供と言わざるを得ませんか」

「お前、自分がまるで子供じゃないような言い方をしているが、私たちにとってはここの生徒全員が子供なんだ。誰であれ、悪いことをすれば叱るしいいことをすれば褒める。完璧に平等とはいかなくても、目指すべきはそれだ。なのに――情けないな。何なんだ、この体たらくは」

「心中お察しします」

心の濁りを勢いよく吐き出すように、端で洗濯機が給水を始めた。



金城勝(かねしろまさる)が蓮華高校へ転入を果たしたのは昨年十月のこと。
金城といえば蓮華近辺では名の知れた富豪である。街をやや外れた郊外に広い敷地を持ち、大型犬を何頭も庭へ放しているような豪邸に住まう一家。ただし、周辺住民からの評判は決して良くなかった。
彼の父親も表向きは不動産会社の社長として地位を確立していたが、裏では非合法すれすれの金融業を営んでおり、邸宅は文字通り、泣き寝入りを強いられた客たちから巻き上げた金の城と化していた。

高等学校は一般的に転校というシステムが小中学校ほど機能しておらず、特に公立高校は欠員募集がない限り学生の転入・編入は受け入れない。蓮華高校では二学年の生徒が少し前に家庭の事情で県外へ移ったために空きがあり、そこへ金城がすっぽりと収まってしまったのだ。恐らく担当教師に金銭絡みの不正があったと噂されているが、現在はその教師も行方知れずのため真偽の程は窺えない。彼を蓮華へ迎え入れてしまった、それが全ての始まりである。
彼は以前、蓮華駅から徒歩十五分の距離にある工業高校へ通っていたが、問題を起こして退学となった経緯があったらしい。歪んだ両親の溺愛と有り余る金に育てられた彼が、新たな土壌を汚染するのは時間の問題だった。
亜子の言葉通り、家にいくら金があったとしても学校においては皆が平等。授業さえろくに参加せず、古巣である工業高校の派手な仲間たちと街をうろついていては留年も致し方なしと、庇う者は誰もいなかった。が、そこで癇癪を起こしたのが子供たる由縁である。
彼はまず、自分を特に厳しく叱責していた陸上競技部の顧問を仲間たちと共に休職へ追いやった。詳細は誰ひとり知らないが、かの教師は現在も病院に籠もりきりだという。彼が病床に伏したことで妻は鬱病を発症し、娘と共に生活保護を申請するまでに至った。

『逆らってみろ。お前たちの大切なものも奪ってやる』

実際に口走ったわけではないものの、彼からの無言の圧力は他の教師や生徒たちを震撼させるに十分だった。彼のバックにあの親有りと見れば尚更説得力が増す。
以降、彼と仲間たちは気まぐれに高校へ立ち寄っては我が物顔で校庭を練り歩き、盾の無くなった陸上部へ日々の鬱憤をぶつけている。彼らは二週間以上姿を見せないこともあれば、二日続けて来ることもあった。生徒はおろか、教師すらも目を合わせようとはしない。
誰も、彼を止めることはできなかった。



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