小説 | ナノ


▼ 3.水川 薫

オリエンテーション及び新入生歓迎会を終えた、午後四時の化学実験室。零は腹が減ったと言って大盛りカップ焼きそばをやけ食いしながら、また泣き声を漏らしていた。薫は先程自販機で買った焼きプリンをお供に、幼馴染の反省を聞いていた。
三十分が経過しても、実験室のドアは一度も開かなかった。

「ひとりも、来ないね。ごめん」

「………」

「やっぱ、俺が見るからに体育会系だからかな。化学的じゃなくて、自然の摂理に合わないようなこと、言っちゃったのかな」

ずるずずぞぞぞ、と零は最後のひと口を啜りながら器用に鼻も啜る。薫はいったん紙製のスプーンを置いて、黒い頭に手を伸ばした。
わしゃわしゃ、なでなで。昔はよくやってもらった。

「お前のせいじゃない。し、そんなに落ち込むな。ひとりくらいなら、きっと、どうにかなる」

「うん……!」

ぐしぐしと目元を白衣の袖で拭い取り、零は焼きそばのゴミを袋に入れて結ぶ。これはそこらへんには捨てていけない。
切り替えが早いのはいいことだ。薫はほっと息を落として、二人きりの広い実験室を見渡した。

◆◇◆

『ゆっくりでいいから話してもらえる?どうして化学が好きなの?』

最初は星だった。
病室の景色はあまりに味気なくて、けれど天体はいつ見ても少しずつ違った。月は満ち欠け、星は巡る。雲にすっぽり覆われる夜もあった。
ある日、見舞いに来た祖母は子供向けの星座辞典を携えていて。夢中になって読み返したのを今でも覚えている。

時を経て、薫は中学生になった。勉強は好きだったが、特に理科が得意だった。空気の組成、地球の組成。物の成り立ちに興味を引かれるようになる。それはひとえに、幼き日の零の言葉が忘れられなかったからか。

『かおるとおれはにんげんだけど、ぜんぶおんなじじゃないよな』

血と肉と骨で出来ているはずの自分と零は、あまりにも異なる存在だった。だとしたら人間とは何なのだろう。にんげんを細かく細かく分けていったら、いつかは零と同じものになるのだろうか。そんな考えが時折ちらついた。

受験の頃、気まぐれで読んでいた本で元素というものを知る。物質を化学的に分けた結果、最終的に見つかるものはそれらしい。
零も、元素で出来ているのか。しかし、薫はこの頃には自分の中で答を見つけていた。

いくら同じもので出来ていても、結果が同じとは限らない。世の中の多くのものに触れるたびにそう思った。
同じ材料と手順で肉じゃがを作っても祖母のほうが絶対に美味しくなるし、同じ授業を受けていても薫にはわかるが零にはわからなかったりする。
みんなみんな、そうなんだ。そもそも『全く同じもの』なんてこの世には無いのだ。元素レベルでも恐らくそう。その小さな差が、構成されるたびにどんどん大きくなり、やがて異なるものが誕生するだけ。

それでいい。
何もかもが同じじゃなくてもいい。
零みたいに、元気な体で、優しくて、運動ができて――そんな自分ならよかったのにと、眠れぬベッドで何百回泣いたとしても。それでも零は、十年経っても薫の隣にいて、山のような白飯を箸で掻き込みながらうまいうまいと嬉しそうに肉じゃがを頬張っているんだから。
『かおる』は『薫』でもいいのだ。

『君が導き出した答は素敵だよ』

ちょうど一年前の化学実験室で、辿々しい昔話を聞いた彼は、にこりと笑って手を叩いた。化学に興味がある、と言って聞いてもらった話を、ずいぶんと脱線させてしまったのに。ひとつ上の彼は、人見知りを自覚する薫が不思議と言葉を引き出せる空気を持っていた。

『面白い子だ。僕はそんなふうに、情緒的な考えはできないよ。いい話を聞かせてもらった』

『聞きにくく、なかったですか』

『いいや。君はそのままでいいよ』

すっ、と彼は黒い実験台に入部届を滑らせた。

『今度は僕が化学の話をしよう』

◆◇◆

「…お前は、いいのか」

「んぐ?」

今度は口いっぱいに詰め込んだ唐揚げおにぎりを炭酸で押し流してから、何が?と零は薫の瞳を覗いた。

「本当は、運動したいのに。バレーだって、続ければよかった。わざわざ俺に付き合わなくても……俺はもう、ひとりでもできる」

元来体を動かすことが好きな零は、中学でバレーボール部に入った。朝から夜まで、授業以外はほとんど部活できつい練習を続けていたが、本人はいつも楽しそうだった。その運動神経を買われて、他の部や臨時の駅伝部にまで引っ張り出された程だ。何かひとつ、スポーツを極めようと特訓すれば全国レベルも夢じゃないと言われていた。
それを諦めさせてしまったことを、薫は今でも後悔していた。こんな辺境の化学部に入るのは、自分だけでよかったのに。興味なんかないくせに、心配だから、そばにいたいからと押し切られて。
しかし今ならまだ間に合う。入部届は毎年提出することになっているので、それを違う部に出せばいい。部活紹介で華々しく活躍していた、バレーでもサッカーでもバスケでも、中学校より遥かに豊富なスポーツを選べる。
薫がやや身を乗り出して、懇願の眼差しを向ける。零はひたりと薫を見つめていたが、徐に笑い出した。

「ざーんねーん!もう出しちゃったもんね、化学部に!」

「!」

「ていうか先月も話したじゃん!俺が部長で薫が副部長って。もう決定でーす。…薫はさ、俺が本当は運動したいって言うけど、そりゃそうなんだけど、違うよ。だって約束したじゃん」

屈託のない笑顔で、零は己の小指をふりふりと見せる。

「いっぱい、一緒にいたいんだもん。バレーやりたいとか、運動したいとか、そんなのよりずうっと先に決めたことだろ。悪いけど、俺何言われても取り消す気ないよ。俺は俺がやりたいことをする」

がたんと木製の椅子を蹴って立ち上がった零は、実験台を回り込んで薫の隣にしゃがみ込んだ。両の手をそっと繋ぐ。

「運動なら今だって朝晩走ったり、社会人サークルに混ざってバレーやったりしてるし。別に俺、大会に出たい訳じゃないんだ。まぁ、そんなこと言ったら化学も好きってわけじゃなくなるけど」

きゅ、と握られた熱い手に力が込もった。

「化学に夢中になってる薫が好きなんだ。目がきらきらしてて、いつもよりずっと喋ってて、なんか見てて安心する。だから、俺のことは気にしないで。俺と薫と、あとひとり誰かいれば、部は続けられる。とりあえず今は、そこに集中しよ?」

それに、と何やら嬉しそうに零が部屋を見回す。

「もし誰も入らなかったら、ここでこーやって二人きりになれるじゃん?へへっ」

「そ、んなの、部活じゃないっ」

膝を伸ばした零は、腕を広げてすっぽりと華奢な体をくるんだ。鍛えた胸は薫が何度叩いてもびくともせず、腕の中でもがくほどきつく絡み付いてくる。髪に頬擦りしてひとしきり堪能した零は、解放した体を両手を掴んでぐいと引っ張った。薫の腰が椅子から浮き上がる。

「今日は帰ろ?新入生も、きっとお母さんたちと帰っちゃったんだよ」

朝から入学式や歓迎会が続き、緊張も相まって新入生はクタクタのはずだ。本格的な部活見学は明日以降になるだろう。薫も窓の外を眺めて頷いた。
食べ終えたプリン容器を零のゴミ袋にまとめる。テーブルに投げ出されていたショルダーバッグを肩に掛け、ついでに薫のリュックもひょいと担いで、零は実験室の鍵を返却するべく職員室へ足を向けた。薫もおずおずと後をついていく。

「…今だけ!」

言い訳のように叫んで、零は空いた手を薫の手のひらに滑り込ませた。表情ではむっとしつつも、薫は何も言わない。
明日からは部員集めに奔走しなければならない。無事に廃部を免れた暁には、『こんなこと』はできなくなるだろう。
だから、今だけ。



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