小説 | ナノ


▼ 2.浅春

化学部の部室である化学実験室は北校舎一階の東端にある。三階の二年七組から階段を下り、昇降口を過ぎて東の突き当たりへ。
引き戸をスライドさせると、無数のファイルやノートが散らばった実験台が見えた。既に二人は最後の片づけを始めていたらしい。奥の準備室から顔を覗かせた零が、火野の姿に気づいて薫と共に連れ立ってくる。改めて見ると、ここ一年で零の白衣はオレンジや青といった試薬のシミでずいぶん汚れていた。

「先輩お疲れっす!」

「遅くなって悪かったね。ほとんど僕のものなのに」

年度末とあって、三月に入ってからは実験よりも整理整頓や来年度の準備に追われることが多かった化学部である。火野が生物部を設立すると決めてからは尚更だ。
実験ファイルやノートの分別に、不足した備品の買い足しやラベルの貼り替え、使用期限の確認等々。もちろん顧問の仕事でもあるのだが、来年度からは火野に頼らず二人だけで部活動を支えていくのだからと、零と薫は自ら役割を買って出てくれた。おかげで火野も自身の引っ越し作業に没頭することができ、春休みを待たずして『生物部』の部室が完成間近となったのだ。

「全然いっすよ! てか薬品とか実験器具って結構高いんすね! 薫と計算しててマジでビビったもん、な?」

こくこく、と振られるくせ毛の頭。薫は心なしかむっとして、

「先月、零が割ったナスフラスコ、三千円だった」

「えー! そんな高いやつなの!?」

「高いものはもっと高いからね。これから後輩も入るんだし、先輩が割ってちゃ格好つかないよ?」

そうっすよね、と二人の言葉を重く受け止めたのち、零は実験台に広げられたファイル類を丈夫な紙袋に詰めていく。火野が新天地へ持参するものだ。書籍類は今までにもちょくちょく運び出していたので、これが最後の作業になる。
零の気遣いはありがたいが、ぐしゃりと袋の底でページが折れる音がしたので自分でやるよと火野が言い出そうとすると、薫が後方からぱしんと頭を叩いて零を止め、丁寧に詰め直してくれた。

「叩かなくてもいいのにー。って、それはそうと先輩。後輩で思い出したけど、なんかアテあるんすか? 部活申請って三人いないとできないっすよね」

ノート類は薫に任せ、実験台の抽斗の中身を確認しつつ零が口を開く。そうだよねぇ、と火野も実験台に腰を預けて頷いた。ぎょっとした顔で零が向き直ってくる。

「え、まさかノープランですか」

「うーん、一応声をかけた子はいるよ。入ってくれるかどうかはまだ、何とも」

はぁ、と先行き不透明な回答へ相槌を打った零に、今度は火野が尋ねる。

「そっちはどうなの? というか立花、今更だけどほんとに来年度も続けてくれるの? 水川が心配してたよ」

「!」

ファイルを手から取り落としそうになった薫にぴょいと体ごと向け、零はわざとらしく唇を尖らせる。

「もー、俺言ったじゃん! 薫がいるところに俺はいたいの! 運動は確かにやりたいけど、部活じゃなくていいんだってば! 薫は人前に出るの苦手だし、部長は俺がやるって! な!」

「ああ、やっぱりそういうことになったんだね」

知識や技術で部長を決めるのならば間違いなく薫の方が適任と思えるが、部活を取り仕切る立場となると校内では表に立つ機会が多い。特にこれからの新学期は各種手続きや宣伝等で生徒会や新入生たちと渡り合わなければならず、人見知りをする薫にはやや難儀だと火野も考えていた。
くるりと振り返った零は自信ありげに言い放つ。

「決めたんです! 俺が部長で、薫は副部長って! ほら、ちゃんと原稿も作ったし!」

ぴらりと見せられたB5サイズの用紙には『蓮華高校化学部』『見学歓迎』のポップな文字と猫のイラストが描かれている。毎春に生徒会で発行されている『部活動のすすめ』へ記載するための原稿だ。

「水川が描いたの? 上手だね、ひーちゃん」

「かわいいっすよね。これで見学者がじゃんじゃん来てくれるといいんですけど」

大切な原稿をクリアファイルにしまいこんだ零は、作業を終えた薫と何やら顔を見合わせ、合図のように、互いに小さく頷いた。くりっとした純真な目が四つ、一斉に火野を捉える。

「先輩! 一年間、ありがとうございました!」

「ありがとう、ございました」

ぺこりと揃って旋毛を見せた二人に、火野はややきょとんとした表情を浮かべている。頭を上げた零は、相も変わらずまっすぐな瞳を向けてきた。

「俺が楽しかったのはもちろん薫といたからなんですけど。薫、中学だと部活が少ない上にほぼ運動部だったから入れなかったんです。それで、俺ばっかり部活楽しーってなってて、なんか申し訳なくて。だから、高校なら興味のある部活がきっと見つかるよって言ってたんすけど。俺バカだから、化学部っていう場所があっただけじゃ、薫に何もしてやれなかったと思うんですよね。でも、先輩みたいにちゃんと教えてくれる人がいて、薫がすげー楽しそうにしてるの見られて、俺ほんとに嬉しかったです! ありがとうございます!」

ほら薫も、と促され、にじにじと摺り足で薫は少しだけ前に出てくる。照れているのか恥ずかしいのか、視線を合わせられずにちらりと見上げるだけに留めて、普段より幾分か声を張ってみせた。

「最初に、会った時…全然話せなかったのに、俺の話を聞いてくれて、いろんなことを教えてもらえて、嬉しかった、です。お菓子もたくさんもらって、本も貸してもらって…本当に、お世話になりました」

「えー、そんなかわいいこと言われちゃうとやっぱりここに居たくなるなぁ」

長い腕がぎゅうと薫を包み込めば、端で見守っていた零が悲鳴を上げて火野のジャケットを引いた。

「ぎゃーっ! ちょ、離れて下さい! 今そういう場面じゃなかったっしょ! いや、しんみりすんのも嫌っすけど! 先輩!」

「お別れなんだから大目に見てよ。いいじゃない、立花はこれからしばらく二人きりでいられるんだから」

「……そっかああ!」

単純な零は一瞬だけぱっと瞳を輝かせるが、いやいや、とやはり食い下がる。薫は目をつむってからぎゅっと火野にしがみついて、すぐにひょいと後ろへ退いた。名残惜しそうに薫の髪を撫でながら、火野が何気なく尋ねる。

「春休みはどこか行くの?」

新学期まで十日余りの短い間だが、気候も随分と暖かくなってきた。どこぞの引用句のように、桜の蕾も既に膨らみ始めている。本格的に春が芽吹く頃ならば、寒さに弱い薫でも満足に外へ出られるだろう。
二人は再度視線を合わせ、やや照れくさそうに頷いた。おや、と火野も僅かに目を瞠る。

「薫のお母さんたちに会って来ます。年度末で忙しいけど、こういう時にしか行けないし、正月会ったきりだし」

淀みなく喋り終えた零が、な?と横の幼馴染に返事を振る。薫が口を開くことはなかったが、その瞳にありありと感謝を湛えているのが見て取れた。
薫の両親は遠い地で店を営んでいる。盆暮れだけはこちらへ戻っているようだが、ひとりきりではないにしても、実の親に長らく会えない寂しさを薫は何年も抱えているのだ。あちらへ出向こうにも、虚弱体質では一人旅など論外。小夜も高齢とあって、零が自ら同伴を買って出たらしい。

「関西だったね。行楽シーズンで人も多くなるだろうから、気を付けて行ってくるんだよ。立花、頼りにしてるからね」

「うっす! 大丈夫っすよ、薫は絶対俺が守りますから! ねー」

せっかくだから観光もしようなと笑いかける零に戸惑いながら、薫はちらりと火野を一瞥して、ほんのりと頬を赤らめた。



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