▼ 1.邂逅
思えば自分は昔から神経質だった。
潔癖症とまではいかずとも他人の気配には人一倍敏感で、自分のものに囲まれていないとどこか落ち着かなくて。人の家に呼ばれることが何より嫌いで、知らない匂いの布団では一睡もできなくて、合宿や旅行の類いは地獄でしかなかった。
本質はたぶん、臆病で自己中心的なのだ。
幼少の頃から心の中にすっと通っている、決して折れない芯のようなもの。それが外的要因によって僅かでも揺らぐと、水面へ広がる波紋の如く己の精神は干渉される。だから、揺らされる危険のある人間はもちろん、そもそも他人には近づかない。自分はいつだって自分で在りたいから。そう在るしかないから。
ずっとひとりきりで生きていけばいい。子供の頃に固く結んだ誓いは、幼馴染という望んでもいなかった存在によって意外にも呆気なく取り下げられた。
『そんなのつまんないだろ』
サッカーボールを手にした少年がむっとした顔で怒る。こっちはもっと怒っているのに。
『楽しいとか、面白いとか、お前がそう思う奴と一緒にいればいいんだから。みんなと仲良くできないからって、全部諦めるのは違うんじゃねーの』
子供心を容赦なく突き刺した言葉はとてつもない痛みを催したが、自分で刺していた無数の棘を、強引に抜き出してくれる針のようだった。
自分で遠ざけていたのは、他でもない自分自身なのだ。
『――じゃあ、輝』
呼ばれた少年が、あどけない瞳をくりっと大きくする。
『僕と、一緒にいてよ』
『僕』はこの日、誰かに向かって微笑むことを覚えた。
◆◇◆
あの日以来、定期的に見る夢。
夢というより実際の記憶を睡眠のさなかに映し出しているだけなのだが、これは大抵の場合が運命の合図で、これから何かが起こることを示唆するものだった。そのほとんどが良い事ばかりなので、本来なら元旦にでも見ておくべき夢なのだろう。火野は夢の淵から覚醒の気配を感じ取る。
六限目の保健室のベッド。六つのうち、最も窓際の男子用ベッドを彼は拝借している。今頃、自分のクラスは世界史の授業の只中だ。どうせ眠くなるならここで眠った方が建設的だろう。全く悪気なく彼はそう思う。
あれほど神経質だった自分も、このベッドではすんなりと眠りに落ちるのだからすごい。保健室特有の、どことなく母性を連想させるような匂いと雰囲気がそうさせているのかもしれない。
意識がふわりと浮上したところで、今し方の柔らかな空気に似つかわしくない喧騒が、カーテンの外から両耳をつんざいた。
「っ! いってぇ! 染みるっつってんだろババァ! わざと痛くしてんじゃねーだろうな!」
「誰がババァだ! お前こそ、転んでおいて偉そうにしてるんじゃない!」
「うっせぇな! こっちだって好きで転んでんじゃねーぞ!」
養護教諭の亜子は見た目も物言いもさっぱりとした女性だが、ここまで声を張り上げるとは珍しい。怒鳴っているのは男子生徒だろうか、こちらも声量と気迫は負けていない。いかにも反抗期真盛りという風で、声の主に叩き起こされたことも忘れ、火野は枕元の眼鏡に手を伸ばす。
内容からして、亜子に怪我を処置してもらうために彼は訪れたのか。いや、あの性格では自ら来たとは考えにくい。クラスメイトか誰かに無理やり連れてこられたといったところか。
すっかり怠さの抜けた体をゆっくりと起こして、火野はカーテンの隙間からそっと二人を窺った。
「全く、お前は本当に怪我ばかりするな」
「ああ?」
「骨も治ったばかりなんだろう。まだ部活はやらない方が…」
「ちっ。うるせぇババァ、俺が何しようと勝手じゃねーか」
まるで聞く耳を持たない彼と、ため息をつきながら彼の手首に絆創膏を貼る亜子。体操着のラインは緑。一年生のようだ。
彼は機嫌を損ねていることもあって、見れば見るほど生意気そうな顔立ちをしている。いくら亜子が気安く接してくれるといっても、彼は上級生や他の教師にさえ怯むことはないだろう。
髪はざっくりと分けて散らされ、地毛か否か、黒と茶と黄を程よく混ぜて薄めた色だ。きりっとした造形によく似合っている。ややつり上がった目許が印象的だが、全体的なルックスは決して悪くない。こういうタイプが好きな女の子も一定以上はいるに違いない。
処置を終えた亜子が道具箱を片づけながら彼に告げる。
「もう怪我するなよ! それと――気を付けろ。いいな!」
靴を履いた彼は切れ上がった瞳で亜子を一瞥すると、籠から解き放たれた鳥のように、グラウンドへ戻るべく足早に駆けて行ってしまった。
くるりと窓に背を向けた亜子は眉間を揉みつつ、カーテンの向こう側へ声だけを投げ掛けた。
「悪いな、火野。起こしただろう」
「先生が謝られることはありませんよ。夢の区切りもちょうどよかったので」
カーテンをさっと引いて青色のスリッパを突っ掛け、亜子のデスクへ歩み寄る。彼が今の今まで座っていた丸椅子にとんと腰を下ろして、窓の外を眺めつつ火野は口を開いた。意識せずとも自然と笑みが浮かぶ。
「面白い子でしたね」
はぁ、と亜子はデスクチェアに背をもたれてかぶりを振る。扱いに困るのも無理はないが、苦笑を浮かべている辺り、手を焼かされながらもそれなりに気に入ってはいるらしい。
「天子か。面白いわけないだろう、黙って治療もさせてくれやしない」
「あまこ? 漢字で、てんこって書く子ですか?」
「ああ。なんだ、知ってたのか」
いいえ、と火野は首を軽く横に振った。
「名前だけです。一年生のテストの順位表で、いつも水川の隣に名前があったので。三位以下はころころ変わるのに水川とその子だけはずっと変わらなくて、どんな子か気になっていたんです」
蓮華高校では定期テストの順位が各学年の廊下に掲示されることになっている。無論全員ではなく、総合で上位三十名までが名を連ねており、火野が可愛がってやまない薫は常に首位をキープしていた。試験の度に火野もさりげなく確認していたが、彼の名前、天子竣は常に水川薫の右側にあったのだ。
先程の様子を脳裏に浮かべながら、火野は小さく笑みをこぼす。
「彼がそうだったんですね。こう言っては何ですが、ちょっと意外です」
「ああして自分の成績に泥を塗っていく奴だからな。成績表の評点なら水川を超えられるだろうに、内申は言わずもがなだ。自分が嫌だと思ったことは意地でもやらんぞ。まぁ、そういうところはお前もそうか。あいつと違って器用なだけだな」
「仰る通りですが、今は僕のことをぜひ棚に上げて頂いて。気になることをお聞きしても?」
亜子が脚を組み替えてふんと頷く。自分の言動から予想はついているらしい。
「先生が彼に仰った『気を付けろ』とはどういった意味ですか?」
「どうって、そのままの意味だろう」
「怪我をするなという意味合いであればその前に仰っていたと思いますが」
「わかった。ちゃんと話すからその疑心に満ちた目をやめろ。お前な、高校生の目じゃないぞ」
ふうと深く息を吐き出してから、亜子は回答の鍵となる一言を火野に告げた。
「あいつは陸上部なんだ」
「そうでしたか」
冷たい黒色の瞳が、眼鏡の奥でうっすらと陰を帯びる。夢に現れた幼馴染が額を押さえながら悔しげに口を結んでいた、つい数日前の出来事が思い起こされた。
「骨も治ったばかり、ということは骨折ですね? もしかして、『彼ら』に…」
「いや、その怪我は関係ない。単なる疲労骨折だ。第五中足骨」
「足の小指、付け根辺りですか。所謂ジョーンズ骨折。手術はしていなさそうですね」
「ああ。折れてはいないし、症状も初期だったからな。天子はそれもあってしばらく部活の方は休んでいたんだが、その間にあいつらがのさばっていたわけだ」
あいつら、と亜子は憎々しげに爪先辺りを睨んで吐き出す。正義感が強く、生徒たちを我が子のように愛する彼女なら、憤懣やる方ないのは当然かもしれない。
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