小説 | ナノ


▼ 13.食卓

「先輩。そのエンドルフィンってやつ、ぎゅーってしてる方しか出ないんすか? 俺がこうやっても、薫からは出ない?」

いちご牛乳の紙パックを両手で持つ薫へ懲りずに抱き着くと、零はふと思ったように尋ねる。薫はもう諦めたのか、好きにしろと言わんばかりの呆れた表情でため息をついた。ジュースをいったん置いて、ひまわりで買った芋けんぴに手を伸ばす。

「水川が立花のこと好きならちゃんと出るよ」

「マジすか! じゃあ出てるじゃん、よかったー」

顔を綻ばせてぎゅむむと薫を抱き締める零に、尚も火野は続ける。その手が依然ぽんぽんと天子の背を優しく撫でる様子を、彩音は普段より一回りほど見開かれた瞳で凝視していた。

「痛いの痛いのとんでけってあるでしょ? あれもたぶん、その応用なんじゃないかな。お母さんとか、信頼してる人に患部を労ってもらうと微量でも分泌されるんだと思う」

「そっか…」

どことなく口許を緩ませた直に気づいたのか、芋けんぴをかじる薫から体を離した零は笑いながら、片手を伸ばして彼の猫毛をかき混ぜる。んん、と直はくすぐったそうにかぶりを揺すった。

「昔、お前が泣いてた時はよくこんな感じでやってたよな。ちょくちょくボール当たって泣いてたっけ」

「そ、それは……はい。先輩に励ましてもらうと、なんかこう、やる気が湧いてくるっていうか」

バレー部はただただ厳しく、アタックボールが顔にめり込むことも少なくなかった。音を上げるものかと根性で乗り切っていたが、それを強く支えてくれたのは零だ。いつだって彼は直の憧れで、今も背中をずっと追い続けているようなものだ。

「勇気づけてもらえてるんだって、おれはすごく嬉しくて――ひいいっ」

思い出に浸っていたのも束の間、芋けんぴをばりりと奥歯で噛み砕いた薫に鬼の形相で睨み付けられ、ナイフの如き視線を諸に食らった直がぴょいと一瞬腰を浮かせる。いつもながら、薫は何故自分にだけ敵意を剥き出しにしてくるのか。気に入らないなら零に直接言えばいいのに、事あるごとにこちらを威圧してくるので直も困惑するばかりだ。
まぁまぁ、と凛がわざとらしくなだめてきたが、よく見るとやっぱりにやけている。嫉妬に燃える薫がよほどお気に召したらしい。むっと口を結んだままの薫に火野が視線を移す。

「やきもちっていうのは、自分の幸せが失われるかもしれないから攻撃性が高まるんだよね。ということは、嫉妬する前の段階では幸せを感じているわけだ。話の補足になるけど、この『幸せ』の時に分泌されているのがオキシトシンっていう物質だよ」

「オキシトシンって、お母さんが赤ちゃんに母乳あげる時に出るって聞いた気がするんですけど…」と凛。

「そう。愛情ホルモンって呼ばれていてね、母子の場合は相互で大量に分泌されるから絆が深まるの。だから母性のイメージが強いんだけど、オキシトシン自体はそこまで限られた場面でなくとも分泌は可能なんだよ。エンドルフィン同様、好きな人とぎゅってするだけでもオキシトシンは平均50%増加する」

「1.5倍…!?」

直が驚愕の表情を零に向け、そういえばと恐る恐る天子の様子をも窺う。くったりと火野に身を預けているその脳内では、幸福で満ち足りるためのホルモンが断続的に分泌されているのだろう。なんだかあまり考えたくない。

「その『幸せ』を壊すものに対しての攻撃性が副作用なんだけど、母親が子供を守るためって考えると当然なのかもしれないね」

「へええ。じゃ、俺が薫を守らなきゃって思うのもそんな感じなんすかね?」

「違うって言いたいけど、確かに立花が水川を想う気持ちは無償の愛だよね。見返りを求めてないのが偉いと思う」

「? えっ、俺褒められてる! 先輩に褒められるのとかすげー久しぶりかも!」

「そんなことないよ、今日だって観音堂で褒めたでしょ。…十分経ったね。はーい、終わりだよてんこ」

ぽんと軽く後頭部を叩かれ、んん、と天子は寝起きのような覚束ない声を漏らす。緩慢に体を起こそうとしても尚、未練がましく火野の袖を握ったままだ。ほら、と優しく促され、きゅうと唇を引き結んで上体を離す。が、ふらふらとその横に倒れ伏してしまい、近くの彩音がそっとしゃがんで声を掛けた。

「てーんこ先輩。大丈夫ですか?」

絶対大丈夫ではないだろうと思いつつも、そんなふうに尋ねるしかない。返答に耳を澄ませると、ぼそぼそと小声で何か呟いたが、聞き取れないのでさらに近づく。歓喜か緊張か、もしくは安堵故か、過度に震えた声がどうにか届いた。

「もう……しんでもいい…」

「誕生日になんてこと言ってるんですか」

呆れて肩を竦めた彩音は、火野からパスされたブランケットをばさりと広げて天子に掛けてやる。

「姫がいない時でよかったね。また怒られちゃう」

「怒られてるんですか…」

精神的なキャパシティを越えた天子を横目に、直は由姫の気苦労を思って目を細めた。零と薫のあれこれも相当だが、こんなものを毎日見せられては気が触れそうだ。

「そう、不純同性交遊はいけませんわ、って。ずるいよね、立花のことは怒らないのに」

へへー、と何故か照れる零をよそに、彩音と凛が神妙な顔を突き合わせた。

「それは…なんか、ねぇ?」

「零先輩はどうあっても健全だもんね」

◆◇◆

ふつふつと煮える鍋の隣で、包丁を扱う軽い音が響く。彼が動く度に、ふわふわの癖毛と、腰の位置で結ばれたエプロンの紐がゆらゆらと揺れる。ニャッ、と悪戯に紐へ前脚を伸ばしてくる猫を声だけでたしなめた薫は、ゆっくりと振り向いて不思議そうに視線を合わせてきた。

「なんで、ずっと見てるんだ」

「お嫁さんみたいだなーって」

ポケット部分に肉球がプリントされた茶色のエプロンは薫のお気に入りだ。それを着けて調理に勤しむ姿を後ろから眺めているのが零は好きだった。
ちょこちょことキッチンを動き回る華奢な体に、捲った袖から突き出される細い手首。お玉でそっと味を確認する仕草。できた、とこちらを振り返って見せるほっとした表情。どこを切り取っても、彼に対する愛おしさが溢れてくる。

「…ばか」

薫がほんのりと頬を照らせてシンクへ向き直ってしまうと、零は畳から腰を上げて木の床へ踏み込んでいく。青磁の食器に豆腐サラダを盛り付ける妨げにならないよう、ウエストに腕を巻きつけて背中に寄り添う。
邪魔だ、と即座に返されて苦笑するも、腕は離さない。遊んでくれと言うように猫が足元へ体を擦り付けてくるが、後でね、と零が笑うと拗ねてどこかへ去ってしまう。

「ね、味見は? 肉じゃがの味見」

ついついと零が隣の鍋を指し示すものの、薫はぷんと頭を軽く揺する。

「さっきした」

「もっかいしようよ」

「零に食べさせるとなくなるから、だめ」

「えー?」

それを見越して、鍋いっぱいに作ってあるのを零は知っている。薫の作る肉じゃがとすき焼きは一番の好物だ。食器棚の隣で水蒸気を立ち上らせている炊飯器も、普段の何倍もの量の米を炊いているに違いない。

「そういや魚焼いてたっけ。何の魚?」

コンロ下のグリルがぱちぱちと弾ける音を拾い、零がそちらに目を向ける。祖母も孫も揃って食の細い水川家では一汁一菜が基本だが、今夜は薫が腕を振るって何品もこしらえているようだ。

「アジの、みりん干し。近所の岩五郎さんからもらって、小夜さんが冷凍してたやつ」

「うまそう。ふたばはいいんだけど、一樹が魚嫌いなんだよな。肉ばっか食うなって言っても聞かないしさ。薫が作ったって言えば食べそう――いや、だめだ。俺が食べたい」

大人げない、と呟きつつも薫は嬉しそうだった。グリルを開けて二尾のアジをそれぞれ皿に横たえると、香ばしい匂いが空腹を刺激する。鍋の肉じゃがもたっぷりと深皿に取って手渡された。

「持って行って」

「はーい!」

大皿を両手に持ち、零はるんるんと茶の間へ引き返す。食事の匂いにつられてか、舞い戻ってきた猫もニャアンと甘えるような鳴き声で近寄ってきた。薫が茹でておいた鶏肉をほぐしてやっているので、あれが彼の夕飯らしい。

「よしよし、食べたらひーちゃんと遊んでやるからな。俺も腹ぺこだし、早く食べよ」

小夜は町内会の集まりが長引いているのだという。公民館からはまだ帰れないので先に食べていてと、薫に連絡があったようだ。

「頂きます!」

茶碗と汁椀を二組ずつ盆で運んできた薫が畳に座り込むと同時に、ぱんと零が両手を合わせた。二人と一匹で囲む食事の始まりだ。



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