小説 | ナノ


▼ 12.脳内物質

「僕にあげられるものなら何でもいいよ。約束したからね」

高校生からは到底滲み得ぬ程の余裕を湛え、火野は優しく問い掛ける。彼の場合は事を引っ掻き回すのが趣味でもあるので多少面白がっていないこともないが、天子の動揺を煽るには十分であった。
わなわなと唇を震わせ、思考停止に追いやられそうな頭を必死に巡らせて最適解を見つけようとする。言い出したのは自分で、もちろん昼からずっと期待はしていたのだが、直接尋ねられるとは思ってもみなかった。しかも『何でもいい』なんて。

「せ…」

「ん?」

絞り出した声は予想以上に掠れてしまい、一度咳払いをしてから、造形の整い過ぎた顔をゆっくりと見上げる。当然だが周りの状況など考えてはいない。
常に自分(と火野)が中心の天子は普段から周囲で何が起こっても我関せずを貫き、また自らが何をしでかしてもギャラリーの反応を窺うことすらしなかったが、今は完全に二人の世界である。外界の腐女子が騒ぎ立てようと幼馴染たちがおやつを頬張ろうと知ったことではない。たかが己の羞恥心でこの機を逸したら一生後悔するだろう。

「せ…先輩が、欲しいです」

声までがうるうると熱を帯びている。彩音が盛大に噎せ返り、録画の妨げだとばかりに凛から背中を叩かれた。くす、と火野が小さく笑う。

「ダメだよ。僕は僕のものだからあげられない」

「うぐ…」

言葉に詰まった天子の頭をぽんぽんと撫で、でも、と彼は眼鏡の奥から壁時計を一瞥する。

「せっかくの誕生日だからね。うん、レンタルならいいよ。十分ね?」

「みじかっ」

思わず凛も携帯に向けて口を滑らせるが、レンタルとはどういうことか。彩音が代わりに高々と挙手をする。

「借りていいってことですか?」

「そう、十分間だけ貸してあげる。制限時間以外に、条件がひとつだけあるけど」

予想の範疇と心のキャパシティをとうに越えた天子は、続々と注がれる火野からの言葉をどうにか噛み砕いて呑み込んだのち、何ですか、と細い声で尋ねる。柔らかな笑みを浮かべた表情ですら、胸の内を乱暴にノックしていく。

「触っていいのは、首から下。それだけ」

「へ」

「あとは何してもいいよ。それでよければどうぞ」

ふおぉ、と彩音の瞳がこれ以上ない程に輝く。

「り、凛ちゃん、これはやばいよね? ねぇ!」

「落ち着け! 一応ほら、ここ部室だから!」

火照った場所をつんとつついたらどこかから出血してもおかしくないような天子は、興奮やら緊張やらでふるふると揺れる体の距離を恐る恐る詰めていく。

「え、と……じゃ、じゃあ…」

両腕をおずおずと広げ、火野の胸辺りに顔を埋めるようにしてしっかりと抱き着いた。火野はくすくすと笑いながら時刻を確認して、震える髪の先を梳くように弄ぶ。
先程から状況を全く意に介さなかった零だが、彼らに触発されたのか、あー俺も!と叫ぶなりいちご牛乳を啜っていた薫を抱き締めた。その相乗効果に二人は歓喜し、直はいつも通り、黙々と軽食を口にして耐え忍ぶことを選ぶ。自分の我慢など大したことではない。彩音はあんなにも嬉しそうなのだから。

「あれ、てんこ先輩死ぬんじゃない?」

「もう死んでもいいって思ってるよ、きっと」

凛の疑問に彩音はもっともな答えを返して静止画を収める。携帯を逸らし、薫にすりすりと頬擦りする零も撮っていると、恍惚を通り越して陶酔状態の天子を観察しながら凛が口を開く。もはや動画に声が入ることを気にしなくなったのか、何か話していないと手が震えるのか。

「絶対あれ出てるよね。なんだっけ、脳内物質?みたいな」

「えっと、ドーパミンとか?」

まともな話題にありつけそうだと、横から直も参加する。そうそう、と凛が受け合うと、俺も知ってる、と薫に殴られた零が頬をさすりつつ述べた。

「今日みたいにずっと走ってると、だんだん楽になってくるやつだろ?」

「それはランナーズハイだから、エンドルフィンの作用だ」と薫。

各人の発言で支離滅裂になりかけた話題を修正すべく、文字通り借りてきた猫の如くおとなしい天子の背を撫でて火野が説明する。

「脳内物質には主なものが何種類かあってね。どういう時にどういう効果を発揮するかで役割が違うんだよ。まずドーパミンは幸福感を司っていて、目的を決めた時と、それを達成した時に出るもの。今日の立花で言うと、青井岳まで走るぞって決意した時のやる気と、無事に着いて水川に会えた時の達成感だね」

ほうほう、とわかりやすい例えに皆も頷きながら耳を傾ける。

「代表的な物質は六つか七つかな。アドレナリンは知ってる?」

「名前はよく聞きますよね。頑張るぞ、って時に出るやつ…あっでも、それだとドーパミンなのかな」と凛。

「やる気が出るっていう点では似てるよ。アドレナリンはここぞという場面で力を出し切ろうとするもので、所謂火事場の馬鹿力だね。水川がふらりと倒れた時は、立花も普段以上の力を出して助けようとするでしょ。叫んだり声を張ったりしても出るけど、あまり多く分泌されると心臓に負担がかかってしまうから水川は注意しようね」

こく、と薫が静かに頷く。

「聞き慣れないのはノルアドレナリンかな。名前は似てるけど、これは焦った時に出るもの。ドーパミンがポジティブなアクセルとすれば、こっちはネガティブなアクセルだね。時間がない時に出るから、往復三時間で走ろうと決めていた立花が、リミットが近づくにつれて切羽詰まってきた時に最後の力を出して学校まで駆け込む感じかな。身近な例えだとテスト勉強とか」

「うわーどうしようってなった時に、やらなきゃ!って必死になれる力ですか」

わかるう、と彩音も神妙な顔で首肯する。原稿締切直前の己を顧みてのことか。

「単純に幸せな時に出るものもあって、代表はセロトニンだね」

「日光を浴びると出るやつ…?」

そう、と薫の呟きに火野が頷く。

「リラックスした時に出やすい。セロトニンは安眠作用のあるメラトニンの原料になっているから、朝きちんと日光を浴びないとメラトニンが作られにくくなる。うつ病の人が運動や日光浴を勧められるのはこのためだよ」

「確かに俺も、薫んちの縁側で薫とひーちゃんとごろごろする時ちょーリラックスしてるかも」と零。

「え、ひーちゃんってどなたですか?」

零と薫の間に割って入れる者が存在するのかと凛が目を瞠れば、水川家の飼い猫だと説明されてほっとする。

「先輩、じゃあ俺のランナーズハイは…なんだっけ、薫が言ってたやつ?」

「そう、エンドルフィン。これは凄いよ。何せ脳内麻薬とまで称されるから、今挙げた中では最強かもしれない。エンドルフィンが出るのは、とても苦しい時かとても気持ちいい時の二択だね」

「ランナーズハイは苦しい時、ですか?」と直。

「そうだね。エンドルフィンには強力な鎮静、鎮痛作用があるから、苦しさが極限に達した時にそれを緩和しようと出されるんだ。しかも多幸感までプラスされる。鎮痛作用はモルヒネの六倍以上らしいよ。ね、てんこ」

ぽんぽんと軽く頭を撫でられ、ふぇ、と逆上せ切った弱々しい声が返ってくる。くったりと恍惚の沼に嵌まり込んだ表情は誰にもお見せできないだろうが、火野は胸元に埋まった顔を好奇心でちょいと上向かせた。潤んだ瞳に、ぽってりと熱を持った頬と唇。たとえ天子が三十九度まで発熱してもこんな表情にはなるまい。
求愛の情に満ちた彼を優しく胸に戻して、火野は囁くように問い掛ける。

「さっき、足腰痛いって言ってたでしょ? 今はどう? 痛い?」

ニットベストに顔を擦り付けるように、天子はゆっくりとかぶりを振った。心なしか、ぎゅ、と火野にしがみつく力が強まる。
痛みを凌駕する程の多幸感。ああ、と額を押さえて凛が納得する。

「そっか。とっても気持ちいい時にも出るんだっけ」

「恍惚カンガルーの脳内は幸せで溢れてるんだね。わたしもいい萌えに巡り会えた時はたぶん出てるもん、エンドルフィン」

ふへへ、と人知れずだらしない笑みを浮かべる彩音をよそに、理解が及んだ零も薫を再度抱き締めようとする。

「てい! どう、薫! 幸せ? なあなあ」

「うる、さい!」

薫はぽすぽすと特有の擬音で怒りを露わに、のし掛かってくる零を押しのける。アドレナリンといいセロトニンといい、先程から何度となく引き合いに出されて恥ずかしいことこの上ない。そっぽを向いた薫はいちご牛乳をちゅうと吸い上げた。


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