小説 | ナノ


▼ 10.信頼

午後三時半。
このリミットまでに全員が青井岳から帰還することはできなかったが、九割近くの生徒は校庭で時宮に相見えることとなった。
みなを労る彼の演説の途中で彩音と由姫も足を引きずりながら裏門に辿り着き、一年生の列の後方に回り込んで腰を下ろす。

「ふぅ……何とか間に合ったね」

達成感に浸る彩音の小声に、ふくらはぎの辺りを揉みながら由姫も嬉しそうに応えた。

「ええ。少々遅れてしまいましたが、当初の予想より早く到着できましたね。ありがとうございました、彩音ちゃん」

「ううん、こちらこそ。一緒に歩いてくれてありがと」

お疲れ様、と時宮がスピーチを締め括ったところで会は解散となった。この後はいつも通り各クラスでホームルームを行うことになっている。彩音も由姫も都度メールは確認していたので、放課後は生物部の部室へ向かう予定だ。
がやがやと全校生徒が連れ立って校舎へ進む。一様に疲労を滲ませているものの、どことなくハイになっている学生も少なくない。彩音ですら、あとニキロくらいならさっくり歩けてしまいそうだ、とすら感じた。同時に、布団に突き飛ばされれば五分で眠りにつける自信もあったが。

「では、私はこちらで。後ほどお会いしましょう」

「うん、先輩たちには遅れるって言っておくね。また後で」

三組の前で由姫と別れ、彩音は二階へ赴くべく西階段を目指す。彼女は明日の授業の準備で古典教師に尋ねたいことがあるため、その用事を済ませてから部室へ顔を出すという。
火野への言付けを自ら買って出た彩音はホームルームが済むと、東階段の自販機でピルクルを購入して南校舎へ向かっていく。赤茶のウェーブが前方の渡り廊下で揺れるのが見え、彩音は鈍い足を速めた。

「凛ちゃーん!」

振り返った凛は目を僅かに見開いた。

「お疲れ! よかった、間に合ったのね。まだ帰ってこない人もいる、って聞いたから」

「時宮先輩が話してる間に着いたんだ、由姫ちゃんも」

「ゆっきーも? そう…」

凛は複雑そうな表情で少々間を空けたものの、安堵したのか肩の力をすうっと抜いて頷いた。

「うん、由姫ちゃんは部活に遅れて来るって」

彩音も凛の反応をやや訝しむが、不思議そうな顔をしただけで追及することはない。
三年生の教室を横目に、南校舎の東階段を下る。生物実験室の後方から続く生物準備室のドアを抜け、すぐに現れたもうひとつのドアをノックすれば、どうぞ、と落ち着いた火野の声が届いた。

「失礼しまーす」

「お疲れ様です」

他の面々はホームルームが長引いているのか、もしくはひまわり商店で軽食を調達しているのか、室内には火野だけだった。デスクでノートパソコンと向き合っていた彼は顔を上げ、彼女たちに笑いかける。

「やあ、二人ともお疲れ様。大変だったね」

「もう足とかぱんぱんですよ、痛くて。えっと、由姫ちゃんは古典の先生に用事があるから遅れるそうです」

「そう。こんな日なのに姫君は真面目だねぇ」

彩音はソファに腰を下ろしてピルクルの紙パックを開封しにかかるが、火野も黙ったままの凛には気づいているのだろう。穏やかな口調で会話を続けた。

「彩音ちゃん。今日は姫と一緒にいてくれてありがとう」

「えっ?」

ちゅー、と乳酸菌飲料をひと口含んだ彩音は、火野の言葉に少しばかり首を捻る。隣の凛が、膝の上できつく拳を握り締めた。

「今日のこと、楽しみにしていたみたいだったから」

「ええ! たくさん歩くのに、ですか?」

「それ自体は確かに大変だけど、誰かと一緒っていうのが心強かったんじゃないかな。僕はあの子を、ずいぶん昔から知っているんだ。なかなか友達っていうものに恵まれなくてね、いつも寂しそうな顔をしていたよ。あの家柄と容姿じゃ、遠巻きにされるのも仕方ないかもしれないけど。…でも、高校生になってからは笑顔を見る機会が増えたよ。それはひとえに、君たちがあの子を気にかけてくれてるからだと思う」

だからね、と火野は手のひらを上に向けて二人を見据える。

「二人がいてくれて、僕もほっとしてるよ。僕はできるだけ彼女には居心地良くいてほしいと思うし、絶対に認めなさそうだけど、てんこもきっとそう思ってる。それでも、僕らに言いにくいことや言えないことはたくさんあるだろうからね。性別でどうこう言いたくはないけど、やっぱり同性の友達がいるかどうかは大事だよ。少なくとも、彼女にとっては」

「え、えっと……はい。わたしも、由姫ちゃんに何かしてあげられるってわけじゃないけど…」

やや困惑した様子で返答を試みる彩音に、軽く笑って火野は首を振る。

「いいんだよ、お菓子を食べておいしいって言ってくれるだけでも。彩音ちゃんがたくさん食べてくれるとあの子も嬉しそうだから」

「そ、そうですか…? というか、先輩は由姫ちゃんのこと、入学する前から知ってたんですね…」

「パーティーで見かけることが多くてね。ああいうのは大人ばかりで同世代は珍しいから、何度か会ううちに少しずつ話すようになったんだ。…凛ちゃん、どうかしたかな?」

凛ははっとしたように頭を上げ、少しの間を置いてゆっくりとソファから立ち上がった。彩音が心配そうに見守る中、垂れた手でぐっとスカートを握って呟く。

「…ごめんなさい。あたし…ちゃんと、ゆっきーと友達になれてませんでした」

「凛、ちゃん……?」

「っ……あたしは、あたし、は…ゆっきーのこと、かわいそうって思ってただけだった。友達になるんじゃなくて、『なってあげてる』つもりでいたの。だから…ごめん、なさい…。でも、ほんとはちゃんと、友達になりたい。絶対、ゆっきーに何かあったら、あたしが必ず…助けるから」

涙混じりの声をぽつぽつと漏らし、凛は眼鏡を乱暴にずらし、ぐいとブラウスの袖口で目元を拭う。突然の事態に、彩音は開きかけた口をどう扱っていいかわからず戸惑う。こんなにも弱気な凛を見たのは初めてだった。

「凛ちゃんは、姫のことが本当に好きなんだね」

火野は普段通りの微笑を浮かべ、濡れた瞳と視線をかち合わせた。

「だからそんなふうに泣いてまで、あの子とどうしたら仲良くなれるか、一生懸命考えてくれてるんだよね。ありがとう。その気持ちをそのまま、あの子に伝えてくれたらそれで十分だよ」

内面的な事情など一切知らないはずだが、火野は的確に意思を汲み取ったようだ。優しく諭され、凛はぐすっと鼻を啜って頷いた。
彩音がそっと差し出したハンカチを、ありがと、と覚束ない声で受け取って、ぐしぐしと目を擦る。

「あたしも、走ってる間ずっと考えて、そう思いました。ちゃんと、ゆっきーと話さなきゃって。どう思われるか、わからないけど…このままじゃ嫌だから」

「大丈夫だよ! えっと、わたしまだ話についていけてないけど…由姫ちゃん、凛ちゃんのことすごく好きなんだよ! お菓子作り教えてほしいとか、一緒に買い物行こうとか、誘ってくれたのは凛ちゃんが初めてだって…喜んでたんだよ、だから…」

凛のベストを掴んで必死に言葉を募る彩音に、ふ、と凛は充血した目を細めて笑った。

「馬鹿、あんたまでそんな顔しなくていいってば。…でも、そっか。そうよね。あーあ…ほんと、ゆっきーは人を疑うってことを知らなさそうなんだもん。心配になるのよ、あたしがすることじゃないのに。しっかりしてるとは思うけど、誰かにすぐ騙されちゃいそうで、精神的にぶきっちょでさ。だから…あたしは隣にいたくなるんだ」

「凛ちゃん……」

花が綻ばんばかりに手を叩いて喜ぶ彩音の額を小突き、すみませんでした、と凛は火野に向き直る。

「ろくに事情も話さないで、みっともないところお見せしちゃって」

「そんなことないよ。人間、愛されるのは強さじゃなくて弱さだからね。彩音ちゃんもちょっと安心したんじゃないかな」

え、と凛が横の彩音に目を向ける。えくぼを引っ込ませ、彩音は頬を膨らませた。

「そうだよ。凛ちゃん人のこと助け過ぎなのに、全然頼ってくれないんだもん。わたしや直くんが、頼りないせいもあるけど…」

「それはあるわね、確かに」

「えぇー!」

「冗談だって。わかってるわよ、あたしだって困ったら言うから。ただ、人は選ぶけどさ」

「むう。それ、やっぱりわたしじゃ不甲斐ないって言ってない?」

ぷは、と吹き出した凛は、宥めるように彩音の額を前髪越しに撫でた。

「内容によるんだってば。今回はてんこ先輩に聞いてもらったし、次は彩音ね。約束」

「はーい。って……えっ?」



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