小説 | ナノ


▼ 9.幸せ

日が高く昇った、午後一時を過ぎる頃。
教師たちに温かく見守られながら、最後のグループがブルーシートから腰を上げて復路についた。頑張れよ、との声援に手を振り、複数の女子生徒が果敢に下山へ挑んでいく。
一方、火野と薫は亜子から渡されたリタイアリストを手に、受付の生徒名簿でラインが引かれていない名前を照らし合わせていく。
リタイアリストには、往路のうちに体調不良や怪我等でやむなく強歩を中止した生徒の名が連ねてある。救出に向かった教師たちから届いた連絡を学校本部でまとめて作成したものだ。今のところは計七名。やはり一年生が多いが、復路ではもっと増えるだろうと亜子は言う。

「意外と、学校まであと数キロの距離で気が抜けて怪我をする奴が多い。下りだからと油断して、走って膝を壊したりな。…どうだ、一致したか?」

こくり、と薫は頷いて二枚の名簿を渡す。亜子も確認のために目を通し、番号札の数字も併せて、二学年の主任へ提出に向かう。
往路の役目を終えたため、観音堂からは撤収するということで、薫も長机や椅子を畳む作業に加わった。テントは勝手がわからないので設営した教師たちに任せて、重みによろけながら車へ椅子を積んだ。はぁはぁと息が切れそうになる。力仕事はやはり苦手だ。
粗方済んだところで、薫や亜子に帰校の許可が出る。早ければそろそろ学校に着く生徒も現れるので、そちらで救護を続けてほしい、という。既に到着している零や陸上部はイレギュラーな存在なので、その他の上位の生徒たちだ。

「よし、帰るか」

残っている教師に軽く挨拶をして回り、亜子は白衣のポケットから車の鍵を取り出して二人を促す。自分の荷物にプラスして、薫は簡易的な救急セットを火野と共に車のトランクまで運んだ。
後部座席に乗り込んで、ふう、と薫はひと息つく。車は間もなく発進し、木立の中で鬱蒼とした観音堂が徐々に遠ざかっていく。
まだ昼過ぎだというのに仕事をすっかり終えた気分で、車の揺れに合わせてうとうと、睡魔が忍び寄ってきた。ゆらりと傾いだ頭が、ちょうどいい位置にあった火野の肩へもたれる。彼の小さく笑う声に気づき、薫は緩慢に上体を起こそうとした。が、眠気で思うように力が入らない。

「寝ていいよ。疲れたんだろう?」

大きな手で優しく促され、ぽんと肩に頭を戻される。赤ん坊を宥めるようなペースで髪をゆったりと撫でられて、薫は素直に瞼を下ろした。心地よい振動と、落ち着く気配。身を委ねるには十分すぎる。
できたらゆっくり走って下さい、と火野が運転席へ掛けた声を最後に、意識を闇へ溶かしていく。

◆◇◆

揺れに身を任せ、背中の温もりと安堵を目一杯に感じていた薫は、不意に瞳を開いた。夕焼け色の川が視界をゆらゆらと漂う。
頭上を舞うカラスがやや間抜けな鳴き声を落とし、触角、視覚、そして聴覚から、意識の覚醒を脳で感じ取った。

『ん……?』

不思議そうな薫の呟きに気づいたのか、今より三段ほどキーの高い幼馴染の声がすぐ横から響いてきた。

『かおる! 起きたか?』

どうやら彼に運ばれながら微睡んでいたらしい。零は黒光りするランドセルを体の正面に回し、代わりに薫を背中でおぶってくれていた。薫は覚束ない記憶を探り始める。橋の上からは半分埋まりかけた毒々しい程の夕日が見えた。

『うちに帰る、のか…?』

『そだよ、腹減ったろ? もー、かおるったら疲れてるのに掃除頑張りすぎてふらふら倒れちゃうんだから。金曜日でよかったけどさ、無理しちゃだめだぞ!』

ぷん、と唇を尖らせて零はまくしたて、でも頑張り屋さんなのはいいことだよ、と優しいフォローも忘れない。

『今週は早退なしだったもんな、さよさんも喜んでくれるよ。今日は、かおるの好きなちらし寿司と豆腐ハンバーグって言ってたし。へへ、おれも来ていいんだってさ。だから一緒に帰ろ』

立花家の両親が多忙であるのは昔から変わらない。が、この時分には零の幼い弟妹、一樹とふたばはまだ生まれていないので、子供の零は小夜から夕飯に呼ばれる機会が多かった。がつがつと料理を吸い込まんばかりの旺盛な零に触発され、食の細い薫も普段より箸の進みが良くなるのだ。
懐旧の念が高まると同時に、幼少期から染み付いていた自分への不甲斐なさが溢れそうになる。薫は零の後頭部にそっと頬を当て、きつく目をつむった。

(おれはまた…倒れたのか)

学校へ通い始めてから、何度となくその身で味わった敗北感に、薫はそっと落胆の息をつく。
白一色の病床から解放されても尚、体が思い通りに動かず悩むことはままあった。休憩時間に仮眠を取っても、体育を軒並み見学しても、蝕まんばかりの疲労が小さな体躯へひたひたと歩み寄ってくる。平日は何とか気力で耐えているが、週末が近づくにつれて文字通り息切れしていく。
あー!と髪の先に触れた吐息に気づいた零が大袈裟に叫んだ。鈍感なくせに、こんな時ばかり気の回る奴だ。

『そーやってため息つくのなし! 幸せ逃げちゃうってかーちゃんが言ってた!』

『だって…』

だって。でも。なんで。ずるい。つらい。
床へ臥せていた間に封じた単語の数々は、零に向けてのみ、無意識で発することを己に許していた。

『れい、放課後…みっちゃんたちと、サッカーするって言ってたのに。ごめん…』

『ごめんじゃないだろ! ありがとうだよ、おれ何回も言ってるもん。サッカーなんかいつでもできんじゃん』

『でも…』

木々の向こうの公園でキャッチボールに興じる同世代の子供たちを見据えながら、薫は二つめの禁句を絞り出す。笑い合う彼らにさえ聞こえてしまうような、子供特有の張り上げた声が零から放たれた。

『おれはサッカーより、かおるとちらし寿司食べたいんだって! だっておれたち、けっこんするんだから。けっこんするひとは、いちばん大事にしなきゃいけないんだぞ。かおるの体が弱くても、おれが強いなら助けられるじゃん! おれがばかでも、かおるは頭いいじゃん! だから、かおるはおれに迷惑なんかかけてないの! おれはかおると一緒にいたいの!』

薫ならば発作が出てもおかしくないような台詞をひと息で終え、零はたったっと早足で帰路を進んでいく。近づいてくる住宅街からは、優しい家庭の匂いが風に乗って運ばれてくる。これカレーだ!と早くもちらし寿司から翻りそうな零が喜びの声を上げた。

『……あり、がと』

――さよさん。帰ったら、我が侭言ってもいいかな。
ちらし寿司とハンバーグと、あと、できたらでいいから、カレーも作ってあげて。りんごが入ってて、野菜がごろごろしてる甘口の、れいの好きなカレー。おれも、がんばって食べるから。
へへ、と満足げに笑った零の気配を五感で覚える。

『れいは、幸せが逃げるって言うけど…逃げないから、大丈夫だよ』

『へ? なに?』

貧弱な己とは比べ物にならない強靭な骨格と、その内側に秘められた温かな心に。元気が湧いたことを伝えるべく、ぎゅっとしがみつく四肢の力を強める。

逃げはしない。
いつだって、確かな幸せはここにある。

◆◇◆

「――川。水川、着いたよ」

思い出の中の零よりずっと低いトーンが鼓膜を揺らした。薫はゆっくりと夢の深海を抜け出す。フロントガラス越しに、陽光を浴びる南校舎がそびえ立っているのが見えた。
シートベルトを外した亜子が振り返る。

「まだ眠そうな顔をしてるな。保健室でプリントの仕分けがあるから手伝ってくれるか。具合が悪いなら寝ててもいいが」

「本当ですか。じゃあ僕も一緒に寝ます」

「お前には言ってない。どうだ、大丈夫そうか?」

薫はこくりと了承し、火野に小さく礼を述べてから車のドアを開けて外へ出た。流れ込んできた五月の清々しい空気が眠気を浚っていく。何度か瞬きしていると、次いで車を出た火野に二度ほど頭を撫でられた。こてんと首を傾げるも、薫は急く足を一歩前へ出していた。

「ちょっと悲しそうだったので、途中で起こそうかと思ったんですが」

自分でも驚くほどしっかりとした足取りで、薫はずんずんと駐車場を横切っていく。亜子がやや目を瞠り、火野も安心したように微笑んだ。

「元気になったみたいですね、よかった。先生、保健室は少し後で伺ってもいいですか」

「…まぁ、いいぞ。今頃体育館を走り回ってるだろう、早く会いに行ってやれ」

亜子の許可にぴょんとその場で跳ねた薫は、逸る気持ちのままに二人を置いて校舎を回り込んでいく。

走ることは昔から叶わない。それでも、幾分か丈夫になった体で今を一歩一歩踏み締めて、幸せの在処を目指すのだ。



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