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▼ 8.笑顔

昼を過ぎ、観音堂に集まる生徒も女子の割合が増えてきた頃。可愛らしい柄のフェイスタオルで首元を拭いながら、お下げを揺らして彩音が現れた。薫が手を振ると、隣にいた由姫が気づいて会釈で応える。

「あ、先輩! お疲れ様です!」

「お疲れ様。疲れた?」

彩音と由姫の手帳を引き寄せ、蓮華スタンプを片手に尋ねる。ふう、と息をついた二人はやや疲労の色を滲ませて頷いた。

「結構ばててます」

「私もですわ。あと半分あるのかと思うと…」

彼女たちも今日に備えて多少は足腰を訓練したようだが、上り坂とあっては十ニキロの道のりも伊達ではない。
頑張って、と薫は応援しかできないことを不甲斐なく思いつつも、持参した菓子をひとつずつ、ぎゅっと手を握って渡した。渡してから、あ、これはセクハラに入るのかも、とひやっとしたが、彼女たちは礼を述べてパイの実と手帳を受け取ってくれた。薫の懸念をよそに、二人はそもそも薫に対して男性という意識を抱いていないのであった。
亜子と話し込んでいた火野が彩音たちの存在に気づき、労りの眼差しを向ける。

「姫も彩音ちゃんも大丈夫かい? 下りは幾分か楽だろうし、ここまで来た時間よりは早く戻れると思うから。ゆっくり休んでいくんだよ」

「はあい! あっ、メールありがとうございました、えへへ」

「そうですわね。後半に備えて、しっかり食べて足を休めましょう」

わーいご飯!と早くも元気を取り戻した彩音が由姫と揃ってブルーシートに向かう後ろ姿を眺めていると、行列の後方で何やら楽しげな声が聞こえてきた。どこかで聞いたな、と薫は記憶の中で声紋を照合してみるも、さしたる興味もなく受付業務を続ける。

「お、二年二組の愛海ちゃんに美紗ちゃん! 疲れただろ、足痛めてないか?」

「わぁ、会長! 大丈夫です、ありがとうございまーす」

「会長ってかっこいいよね、みんなに声かけてくれるし」

「そうそう、優しいし」

時宮に手を振って再び前を向いた彼女らは嬉しそうに言い合っていたが、順番が回ってくると今度は火野にも秋波を送り始める。せっせと押印する薫の隣で椅子に腰掛けた火野は、熱視線を物ともせず、わざとらしくため息をついてひとりごちた。

「やれやれ。遅いと思ったらそういうわけか」

「ん? おお、水川くん。お疲れ様」

お疲れ様です、と薫はぺこっと頭を落として、三年生の名簿から時宮の名前を探す。八組だよ、と本人からの助言を元に、ぴっとラインを引いてスタンプに手を伸ばしかけた、その時。

「貸して」

笑顔の火野にひょいとスタンプを奪われ、薫は拍子抜けする。蓋を外した彼は、ごそごそと荷物から手帳をまさぐっていた時宮の額に、ごく当たり前のようにぽんと押し当てた。流れるような、そしてあまりにもな先輩の仕打ちに、薫はぽかんと口を開ける。

「へ………?」

してやったりという火野の表情と、彼が手にしたスタンプと、額の違和感と。顔を上げた時宮は数秒でそれらを合算し、額に手をやって叫んだ。

「おい、まさかお前…まさか!? はぁ!? 馬鹿じゃねえのなんてことしてんだよおお! 」

「生徒会長らしく、蓮華を背負ってる感じが出ていいかなと思ったんだけど。それだと背中の方がよかったかな」

「そういう問題か!?」

「うるさいな、さっさと手帳出さないからだよ。いいじゃない、水で落ちるんだから」

ほら、と手水舎を指差して促す火野に、泣きたいのか怒りたいのか、それさえも疲れた表情で時宮は手帳を放り出す。

「なんでお前はいつもいつもそうなんだか…」

「輝が腹立つ顔してるからだよ」

「してねぇよ!」

手帳を火野から、番号札を薫からもらって、ぐったりとした時宮が列を抜けていく。目で追った先には、やたら大きなおにぎりにかぶりつく彩音と、ペットボトルから茶を飲む由姫の姿が。何となく彩音が気にかかった薫は、先程の天子との話を思い出し、あっ、と声をこぼして立ち上がる。

「どうかした?」

「彩音ちゃんに、訊きたいことがあって…」

行列はまだまだ続いているが、行ってらっしゃい、と火野が快く送り出してくれたのでありがたく離席する。
ブルーシートの端までとことこ歩いていき、彩音ちゃん、と屈み込んで声をかけた。二人はちょっとびっくりしたように薫を見て、はい?とおにぎりを持ったまま彩音が応じる。遠目ではわからなかったが、彼女の握り拳二つ分ほどもあるおにぎりは、食べかけの他にアルミホイルでくるまれたものがもうひとつ膝上に待機していた。なるほど、冬眠前のリスである。

「てんこがさっき来た時、言ってたんだけど。なんで、てんこはカンガルーなの?」

ペットボトルを傾けようとしていた由姫が慌てて茶を戻し、口許を手で覆って肩を震わせる。ぶふ、と彩音もおにぎりで顔を隠すようにして吹き出した。薫はこてんと首を傾げる。

「や、やっぱりバレてましたか、ぶふ。実はですね…」

彩音は含み笑いをそのままに、天子のカンガルーたる由縁を語り始める。動物園で見たカンガルーがあまりにふてぶてしかったこと。餌につられ、飼育員の命令だけはきちんと聞くこと。ふむ、と薫は頷くが、零の次に鈍感な彼は全容まで理解が及ばない。

「飼育員、って?」

「あちらですわ」

どうにか復帰した由姫が、咳払いをして手のひらを受付に向ける。うっとりとした一年生の女子二人を相手に、押印や確認作業をさっと済ませて微笑み返す火野。
全てを悟った薫は、今度こそ深く首肯した。

「そういえば、彩音ちゃんのこと、リスって言ってた。てんこが」

「えー、わたしそんなにかわいいですかね」

『冬眠前の』という形容詞が抜け落ちたせいか、彩音は両頬を包んで大袈裟に喜んでみせる。零や時宮ではあるまいし、天子がそんなつもりで言うはずがないことは承知の上だが、悪い気分ではなかった。
小柄で可愛らしいからですわ、と由姫が自力で半分正解にたどり着いたので、薫も何だか満足して、役目は終わったとばかりに受付へ戻っていく。ツッコミ不在の今、曲解を矯正することは叶わない。
時宮はブルーシートの中央で同級生の男女とコンビニおにぎりを頬張っている。学内でのネームバリューはもちろん、気さくな性格なので友達も多いのだろう。額に咲いた花は跡形もなくなっており、薫もほっとした。
火野の暴挙には驚かされたが、時宮の言う通り、それはいつも彼だけに向けられているものだ。

(俺も、零にはうるさいとか、やめろとか、言うし。叩いたりもするし)

気の置けない関係。幼馴染とはそういうものだ。
特に火野は普段みなに優しく、気遣ってくれるところもあるので、その反動で時宮の前では年相応、いや子供らしく振る舞いたくなるのだろう。水鉄砲を浴びせたり、スタンプで悪戯を仕掛けたり。そういう彼は――少なくとも薫の目には、何をしている時より楽しそうに映るのだ。

「お帰り」

がたんと椅子に腰を下ろす。先程までの行列は捌け、受付を訪れる生徒もそろそろまばらになってきた。ブルーシートは満杯で、手元の名簿もほとんどが蛍光色に染まっている。
ただいま、と返して、薫はそっと火野を見上げた。

「先輩は」

「うん?」

「時宮先輩が、すごく、好きなんです、ね」

不意を突かれた火野はぱちりと目を瞬かせる。言葉の意味を噛み砕くのに時間を要したのか、少しの逡巡の後、ぽんぽんと薫の頭に手を乗せた。

「どうしたの、いきなり」

「えっ。えっと…」

心の中だけで勝手に話を進めた結果、おかしなことを口走ってしまったのか。薫は慌てるが、火野も怒ってはいないようだ。むしろ、珍しく笑い続けている。微笑みではなく、ちょっとツボに入ってしまったような、遠慮のない笑いで。
薫は興味深げに観察する。もしかすると時宮にとっては、こっちの彼が標準的なのだろうか。あーあ、とどうでもよさげに長い脚を放り出して、火野は横目で薫を窺った。

「…僕はね。大っ嫌いだよ、あんなの」

あんなの、とブルーシートを雑に指差して。
ふっと空を仰いでから、深く息を吐き出していつもの笑顔に戻る。

「さて、お客さんだね」

真正面から、最終グループの女子たちが鳥居をくぐってこちらへ向かってくる。お願いしまーす、と差し出された手帳へ判を押しながら、薫は思った。

(やっぱり、楽しそう)

ふ、と。安堵した薫も、密かに笑みを作った。



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