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▼ 2.立花 零

一方、校舎では在校生も鐘に合わせて昼休みを迎えていた。
入学式の間は教室待機ということで各自自習――などと言われても遊び呆けてしまうのが高校生の性である。その辺りを満遍なく考慮して、先生らはきちんと課題を用意していた。
とはいえ午後は昼休みの延長のようなイベントが待っており、春期休暇明けの学生たちも課題プリントごときで駄々はこねない。特に、新二年生は文理選択の関係でクラス替えがあり、周りのメンバーがごろっと替わったとあって気分もかなり高揚していた。知らない面子と恐る恐る、ちょっと嬉しそうに、みな昼食を持ち寄って話に花を咲かせている。

だが。所変わって一階の化学実験室では、閉ざされた引き戸の隙間から男子学生の恨み言がたびたび漏れ聞こえていた。

「くっそぉ……」

男らしく拳サイズの握り飯にかぶりつきながら、悔しげな呟きが黒色の実験台へ吸い込まれる。がぶり、とやたらでかいひと口でおにぎりを押し込み、一リットルの紙パック烏龍茶をストローも使わずぐいと煽った。たん、と紙パックを置いた表情はまだ暗い。こんな時でも食欲は落ちないのだなと、差し向かいで弁当を食べながら水川薫は思った。祖母手製のぬか漬はもちろん、だし巻きは冷めてもうまい。

「そりゃな、俺は理系なんか無理だよ無理。分かりきってんだよ、去年、蓮華に入れたのだってなんかの間違いだと思ったしさ。数学全滅化学壊滅。国語そこそこ体育満点。でも、だからってさぁ!さすがに遠くない!?俺が一組で薫は八組!端と端だろ何なんだよロミジュリかよ!…いや、ロミジュリも結構いいかも…?」

もぐもぐ、もぐもぐ。
薫は無言のまま咀嚼を続ける。
窓の外は穏やかな風に桜が舞っている。申し分ない春の陽気。新入生たちもさぞやいい気分で入学を迎えられたに違いない。昼寝も捗るだろうな、うん。食べたら少し眠ろう。

「聞いてる!?」

ついに腰を上げ、だん、と実験台に両手をついて食らいついてきた幼馴染を、ようやく箸を止めて薫は見上げる。
肩の辺りから立ち上る湯気。怒ってるんだろうか。
少し悲しげに下がった目元。悲しんでいるのか。
きゅっと尖らせた唇。子供が拗ねているみたいだ。
ああ、『やるせない』のか。こんな自分と、クラスが離れてしまったことが。

「零」

れい、と。薫の瞳がまっすぐに零を射抜く。名を呼ばれた幼馴染ははっと目を瞠った。

「……別々になったのは、仕方ない」

薫がゆっくりと言葉を紡げば、零も唇を引っ込め、緩慢に体を椅子へ戻していく。

「今までにも、あった。でも、離れた気はしなかった。いつもお前が、こっちに来る、から」

「そんなの当たり前じゃん、薫といたいから…」

「これからも、そうすればいい。ここで」

ここで、と薫は実験台を手のひらで撫でる。

「毎日、昼休みを過ごすのは、変わらない」

自らにも言い聞かせるように、薫はこくんと細い首を頷かせた。その仕草に胸をわし掴まれた立花零は、ぐっと弱音を呑み込んで自らも力強く首肯する。

「わかった。薫の気持ち、すっっごいわかった。俺もうなんにも言わない、幸せ。そうだよな、会いに来ようと思えばいつでも行けるし、行くし。寂しいし心配だけど、我慢する。朝と、昼と、放課後で耐える!」

それだけ一緒にいれば十分だと早々弁当を再開した薫は思うが、また喚かれては面倒なので口は咀嚼に活用する。零は喉を鳴らして烏龍茶を飲み干し、とある決意を露わに、紙パックをぐしゃりと手の中で潰した。

「薫が放課後を満喫できるように、俺、頑張って部員集めるから!絶対絶対、廃部になんかしないから!」

「零、それは…」

お前が無茶をやってまで、叶えることじゃないんだ。
薫が発しかけた言葉は、スピーカーからの校内放送によって中断される。

『新二年生、新三年生の皆さんにお知らせします。午後から始業式及びオリエンテーションを実施しますので、一時になりましたら第一体育館への移動をお願いします。繰り返します。…』

白峰女史の落ち着き払った放送を聞いた零は、紙パックとおにぎりのアルミホイルを手近なゴミ箱に投げ捨てて立ち上がる。

「ついに来たな。壇上じゃ派手なことはできないけど、名前はしっかり売ってくる。俺に任せといて」

◆◇◆

ふわふわの、てんしがいる。
当時六歳だった零少年の瞳には、小さな翼を持った純白の天使が舞い降りているように映った。そこは病院のベッドで、着ているのはパジャマで、天使は男だったけれど。
看護師の母親は天使の背を撫でながら薬を飲ませたり、脈を取ったり、熱を測ったりと忙しない。天使はその間、ぼうっと宙を見上げていたが、不意にこちらの視線に気づいて首を傾げた。

『?』

『ああ、うちの息子。零っていうの、よろしくね薫くん』

母親の言葉にもこくりと頷くだけで、天使は何も言わない。ただ、同年代の子供が気になるのかちらちらと盗み見ている。零は思わず駆け出した。ベッド横のパイプ椅子をガシャンと揺らして跳び乗り、驚く天使の手を取る。
すべすべで、やわらかい手。零の傷だらけの手とは何もかもが違う。でも、冷たくて、透けて見える血管があまりにも細くて、少し怖くなった。

『たちばな、れい!かおるっていうの?かおるっていうてんしなの?』

『こーら、うるさくしないの。薫くんびっくりしたでしょ、ごめんね』

薫は交互に二人を見てから、静かに頷いた。熱を移そうと、手をにぎにぎする零をじっと見つめる。

『零、もうすぐ帰れるからおとなしくしててね。いたずらしないでよ、お母さん着替えてくるから』

母は早歩きでナースステーションに戻っていく。今日は幼稚園が休みだったので、午後からずっと病院の外の公園で遊んでいた。そろそろお母さんと待ち合わせの時間だ、と病院を探検していて見つけた天使、薫。
ふわりと癖のついた茶髪に、つるつるで真っ白な肌。白のパジャマはよく見ると猫柄で、そうかやっぱり人間なんだー、とちょっと安心する。

『にゅういんしてるの?』

好奇心を湛えた大きな瞳がくりっと動いた。薫はその目を珍しそうに眺めて、小さく頷く。

『どっかわるいの?』

こくり。

『いたいの?』

こくり。

『なおるの?』

薫は頷かなかった。
でも、首を横に振ることもなかった。零はぐっと身を乗り出す。

『また、きていい?』

しばらく考えて、薫は再び頷いた。へへ、と零が笑う。

『やくそく』

白磁の指に小指を絡めて、零は歌い出す。薫は不思議そうな顔で、音の外れたメロディーを見守る。

『零ー、帰るよ』

私服に着替えた母がひょこりと病室に顔を出す。零はぴょんとパイプ椅子から床に着地して、しっかりと手を振った。

『またな、かおる』

薫が手を振り返してくれるようになったのは、病室に通い始めてから最初の秋だった。



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