小説 | ナノ


▼ 6.教育

「立花は今日も達者だな」

零の後を追ってきた陸上部の面々が、今頃になってぞろぞろと鳥居をくぐってくる。順位の紙をせっせと配る薫を尻目に、風のように訪れ、風のように去っていった零を思い返して亜子が呟いた。そうですね、と火野も名簿にチェックを入れつつ頷く。

「ああいう彼を見ていると、僕はいつも穏やかでない気持ちになります。どうやったらあんなに陰のない人間が出来上がるのかと、興味もありますけど」

応対に必死な薫には聞こえていないだろう。亜子はやや眉をひそめ、こちらも薫の耳に入れないようにと、小声で彼をたしなめた。

「火野。お前、ちゃんと家には帰っているのか? この前の三者面談も蹴ったんだろう」

「ご存知でしたか。でも蹴ったのは僕ではありませんよ。蹴られた立場なので、帰る義理もないですし」

まぁいいんですけど、と笑みを貼り付けた仮面の下、せり上がってくるどす黒い気持ちをゆっくりとなだめる。横でちまちまと動く薫の仕草が可愛らしくて、そのオブラートに包んで無理やり呑み込むといくらか楽になった。

「先生にはご心配をお掛けしますが、僕は僕で何とかしていますから。すみません」

「心配するなと言われてもするだろう。まぁ…他人の家庭事情にはあまり首を突っ込むべきではないんだが、少なくとも学校にいる間はお前は子供で、私の教え子なんだ。何かあったら頼るんだぞ。いいな?」

はは、と火野は少々困った様子で笑った。自分を案じてくれる物好きな大人など、学校のどこを探しても彼女くらいしかいないだろう。その優しさをお節介と疎ましく感じることはあれど、一線を引いて付き合ってくれる彼女は貴重な存在だった。

「子供、ですか。わかりました、引き続き甘えさせて頂きます」

「何を戯けたことを。毎度言ってるが、保健室はサボる場所じゃないぞ」

「落ち着いて寝られる数少ないベッドなんです。明日も三限に体育があるので伺いますね」

「お前な…」

はぁ、とため息をついた亜子は、回れ右をして救護のスペースに引き返していった。火野も名簿を横にスライドさせ、差し出される陸上部員たちの手帳に蓮華スタンプを押印する。ふと、探りを入れてみたくなって適当な生徒に声をかけた。

「……ねぇ。ちょっといい?」

「? はい…」

緑色のラインが入った半袖を揺らして、手帳を手に去りかけた男子生徒が火野の呼び止めにぴたりと足を止める。陸上部の受付は彼で最後らしく、残りの面々は続々とブルーシートに上がり込んでいた。
ひと仕事を終えた薫も、不思議そうな表情で二人のやり取りを見守っている。

「――今の陸上部って、平和なの?」

びくり、と震えた彼の向こうで、陽気に弁当を広げ出す男子の集団。そちらを彼の肩越しに見つめながら、楽しそうだね、と火野は少しだけ表情を和らげた。

「ちょっと前まで大変だったって聞いたから。大丈夫?」

「は、はい」

唐突な質問に冷や汗を滲ませていた彼も、背中に伝わる部員の雰囲気で緊張が緩和されたのか、唇を湿らせてからゆっくりと話し出した。

「今は…新入生も結構いますし、その…誰も暴れたりとか、しないし…そういう人がそもそも、いなくなったので…はい、楽しいです」

「そう。どうもありがとう」

ぺこりと一礼をして、彼は小走りで仲間の元へ帰っていく。手持ちぶさたの薫は蓮華スタンプをいじりながら、そっと火野へ尋ねた。

「大変、だったんですか」

「うんうん、もう大変だったんだよ」

いくらか大袈裟に頷いてみせた火野は普段通りの笑みで続けた。

「手のつけられない乱暴者がいてね。今は退学というか自主退学でどこかに行ったんだけど、それまではいろいろ問題になってたから心配だったんだ」

ふうん、と薫があまり興味なさそうに首を揺すれば、火野は零が置いていった菓子を袋から摘まみ上げる。

「さ、立花に頼まれたからには水川を甘やかしてあげないとね」

あーん、と口許に差し出されたチョコレート菓子を遠慮なくかじりながら、薫はそっと火野の顔色を窺った。いつでも穏やかな彼が、先刻の彼に少しばかり腹を立てていたように見えたのは気のせいだろうか。
思い返しつつも、サクサクと食感の良いビスケットを咀嚼しているうちにどうでもよくなり、火野もすっかり機嫌を直したようだった。

◆◇◆

時刻が昼時に近くなるほど、樹木の間から垣間見える蓮華生の姿が増えてきた。みな一様に疲れてはいるようだが、折り返し地点ということでほっとした顔も多く、薫も安堵する。
今のところ、男女比は三対二。女が先にスタートを切っても、半分の道のりでかなりの男に抜かされていく。これが昼時になれば男がさらに多くなり、ピークを抜けると女が大半、となるだろう。昼にはまだ早い今のうちにここへ来ているならば、全校でも上位の内に入るはずだ。薫もせっせと順位を記入していく。
不意に、救護の辺りから聞こえる喧騒に気づき、薫はそちらへ目を向けた。

「お前は本っ当に怪我の絶えない奴だな」

「ってぇ! 何すんだ染みるじゃねえかババァ!」

「誰がババァだ! しばくぞお前!」

「あぁ? やってみろよ体罰で訴えんぞ!」

「お前こそやれるものならやってみろ! ったく…さっさと済ませてやったぞ、ほら行け」

聞き覚えのある声だと思ってはいたが、ワイドタイプの絆創膏を片手に怒鳴りつける亜子と、ふくらはぎにそれらを貼られた天子が反抗期の親子喧嘩を模していた。
隣で楽しそうに観戦している火野の腕をちょいと叩けば、わかってるよ、と鷹揚に頷かれた。すくっと立ち上がった彼に全てを任せ、薫は耳だけ傾けながら受付仕事に従事する。

「てんこ、先生にそんなこと言っちゃダメだよ」

「うっ」

途端に言葉に詰まった天子の反応に首を捻りつつ、亜子は火野へ向き直る。

「火野。お前、自分のところの部員ならきちんと教育してくれないか」

「はい先生、大変失礼しました。先生が今仰ったことはうちの地衣良嬢からもかねがね注意されておりますが、僕に生徒を教育する権限はありませんし、ご無礼とは存じますが何卒お許」

「あーもういい! 私だって本気で言ってるわけじゃないからな」

「ありがとうございます。ですが先生のお心遣いを邪険にしてしまったことは事実ですから、」

黙ってむくれている天子の頭に、火野は笑顔を崩さずにぽんと手を置いた。普段より、いくらかの圧を込めて。

「ごめんなさいは?」

「う…………」

「先生はね、生徒の怪我が放っておけない優しい方なんだよ。処置してもらうのが気恥ずかしいからって、暴言はダメでしょ?」

「………ごめん、なさい…」

石畳のさらに向こう、玉砂利の辺りを斜め下に見るように目を逸らして、天子は喉の奥からどうにか謝罪の言葉を絞り出した。頬の赤みは羞恥故か、それとも。
恐ろしくしおらしい彼の態度に、亜子は絆創膏を取り落としたことにも気づかず、驚愕の目を瞠る。悪気がないにしろ、天子には今までにも相当手を焼かされてきたのだろう。

「あの天子が…ごめんなさいだと…」

「はーい、いい子にできたね。さ、水川とご飯食べておいで」

再度ぽんぽんと頭を撫でてから解放してやると、天子はちらりと一瞬だけ亜子を振り返り、長机で仕切られたスペースの内側へ闊歩していく。まだ少し耳が赤い。

「…確かに私は教育しろと言ったが、お前、もう既にしてるじゃないか。というか、どうやったんだ? 弱味でも握ってるのか?」

ひどく訝しげに、亜子は腕を組むようにして二の腕辺りを両手で擦り合わせながら尋ねてきた。対する火野は、揃って弁当を開く二人を微笑ましげに観察している。

「そうですね、ある意味」

「末恐ろしい奴だ…」



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