小説 | ナノ


▼ 5.心配

「りーん!」

またもや後方からかけられた声に、凛はひと息で表情を直してから振り返った。なんだか今日は呼び捨てで呼ばれてばかりだ。めったにないのでちょっと嬉しい。

「直、あんたよく追い付いて来れたわね」

美桜の丘まではあと一キロもない。時間的にはいいペースで進んでいたので直に会うにはまだかかると見ていたが、読みが甘かったのか、天子との話でスピードを緩めていたからか。
ぜぇ、と直は汗か涙かわからぬ滴をぐいぐいとスポーツタオルで拭って、凛、と実に萎れた声で言った。

「飲み物かお金…貸して…」

「は?」

「最初の一本は持ってきたんだけど…もう飲んじゃって、工業団地の自販機で買おうと思ったら」

ぐすっ、と情けなく鼻をすする。

「お金、忘れてきた…」

「あんた、まさか財布教室に置きっぱなの?」

「いや、小銭入れだけ持っていこうと思って分けてたのに、それを通学用のリュックに忘れて…財布はちゃんと、庶務の先生に預けたから」

貴重品は基本的に各自が手持ちする決まりだが、今回はなるべく荷物を少なくして臨む必要があるため、最低限の金だけを持って歩く生徒も多い。その際は学校待機の教師が貴重品を預り、職員室にひとまとめにして見張っておくことになっている。
凛はひとまず自分の悩みを置いて、ただただ呆れた。呆れたが、この辺りの要領及び運の悪さが直の直たる所以と思えなくもない。
荷物から二口ほど減ったスポーツドリンクを差し出す。

「ほら、とりあえずこれ飲んで。ていうかあげるわ。美桜の丘に自販機あるし、あたしはまた買うから。もうちょっと前だったら口付けてなかったんだけど」

「ありがと……ごめん」

幼い頃は回し飲みも大して気にならなかった間柄だ。さすがにこの年でまた経験するとは思わなかったが、他の異性に比べれば互いに抵抗は薄かった。
遠慮なくペットボトルを煽り、はあぁ、と直は安堵の表情を浮かべてキャップを締める。中身はまだたっぷりとあった。

「助かったぁ! もう、三キロくらい何も飲まなくて…」

「あんたねぇ。ほんとに危なくなったら、誰でもいいから助け求めなさいよ。死んだら夢見悪いし、行事が廃止になるくらいしかメリットないじゃない」

「言い方ひどくない?」

凛がジョギング程度にゆっくりと走り出せば、直も平行して足を進めてくる。日差しは森に遮られており、平地より多少は気温が低いのか、そよそよとした風が涼しい。汗が飛ばされるすっきりとした気持ちで凛は笑った。

「冗談だって」

「ほんとかよ…」

胡乱な目で恩人を睨む直に、ねえ、と凛が遠くの林を見つめたまま尋ねる。

「ここまで抜かしてきたんだから、あたし以外にも会ってるでしょ? 彩音とゆっきー、どうだった?」

「うん。零先輩と陸上部が物凄い勢いでみんなを抜いていって、おれも抜かれて、その後しばらくして会ったかな。彩音ちゃんはお腹すいたってタッパーから何か食べてたけど」

「彩音のアホ。往路から体重くしてどうすんのよ」

「由姫ちゃんも元気そうだったな。レモンの砂糖漬けだっけ、作ってきたみたいで。おれも一切れもらった」

「あー、クエン酸か。あたしは最初しか会ってないからなぁ。帰りにまた会うかもしれないけど…でも、なんか」

自分からちょうだいって言うのは、違う気がする。
直はきょとんとしていた。

「え? 凛、そんな遠慮する性格だった…?」

「うっさい」

「酸っぱいもの好きだろ?」

「好きだけど…」

いいのかな、あたしなんかがお願いしても。

「あんた、こんなゆっくりでいいの? 零先輩そろそろ観音堂着いてるだろうし、てんこ先輩も先に行ったわよ」

「おれはいいよ。疲れたし、気晴らししたい。それに…」

「それに?」

凛が心配だし、とは口に出さず、直は曖昧に笑いかける。彼女はいつだって気丈でポジティブで行動力があって、自分とは真逆の性質だと思い知らされてきたのだけれど。
瞳の奥に宿った微かな迷いに触れられはせずとも、隣で見守ることくらいは自分にもできる。助けられてばかりでは、いられない。

◆◇◆

パソコンのディスプレイを食い入るように眺めていた薫は、ぴくりと耳を震わせて顔を上げた。木々の奥から、聞き慣れた声が微かに届いたような気がする。

「来たかな」

火野の言葉に確信を強め、頷いた薫は動画の停止ボタンを押して名簿とスタンプを手元に寄せる。その数秒後。

「かーおーるううう! ついたぞーーー!」

「言わなくてもわかるけど『ついた』ってわざわざ言うところが立花だよね」

観音堂入口の鳥居をくぐって駆け込んできた零の姿に、ああ、と教師たちが納得の声色を出す。時間は去年よりさらに早かった。
薫を捉えると、すぐさま零は受付めがけて吹っ飛んでくる。薫や火野の隣にある長テーブルにたん、と片手をついて勢いよく飛び越え、零が内側から回り込んできた。

「薫うう!」

椅子に座ったままの薫をぎゅうう、と抱き締めれば、ぽすぽすと怒りを露に、薫はスタンプの柄でぐりりと眉間辺りを小突いてやる。痛いよぉ、とそれさえ嬉しそうに、爽快な汗を首元のタオルで拭って零は笑った。

「すごいねぇ、立花。まだ誰も来てないよ」

「へっへー! 薫に会いたくて頑張ったっす」

火野がぽんぽんと両手を叩いて称賛すると、零は得意げに胸を張り、小型のバッグからチョコ菓子を取り出した。

「お菓子持ってきたから食べよ。冷たいペットボトルに貼り付かせてたし、溶けてないと思う」

ダイジェスティブビスケットにチョココーティングで帆船が描かれた、青と白のパッケージ。個包装をひとつ破り、あーん、と零は幼馴染の口に入れてやる。自分もひとつ放り込んで、スポーツドリンクをごくり。
パシャリ、との間近なシャッター音に驚いた二人へ、火野はごめんねと微笑みながら携帯を逸らす。

「ちょっとね、活力を送ってあげようと思って」

「活力?」

「君たちのそういうところに励まされる子もいるってことだよ」

「あー、確かに! こいつもう観音堂にいるじゃん、負けるもんか!ってことですね」

「うん、それでいいや」

百度はズレている零の言葉を適当に流し、火野は今し方撮った写真を三人の後輩女子へ送信した。
ぽりぽりと菓子を摘まんでいた薫はようやく本来の責務を思い出したようで、生徒手帳出せ、と零のバッグをぐいぐい引っ張る。

「はいはい、手帳な。ほい」

薫は裏表紙から数ページめくり、罫線もない白紙のページに、蓮華の花をかたどったスタンプをぽんと押し込む。花びらの端っこがちょっと歪んでしまったが、ありがと、と零は特に気に留めないまましまい込み、『1』と書かれた緑色の紙も受け取った。
零たち二年生は緑色、一年生は赤色、三年生は青色。この学年カラーは制服のネクタイまたはリボンを始めとして、指定の上下履きや体操着など、学内のあらゆるものに適用されていた。

「もう行くのかい?」

菓子の袋を押しやって、薫の髪を名残惜しげに撫でる零。火野の問いかけに力強く頷き、意志の通った瞳をしっかりと彼に向けた。

「今年はマジで頑張りたいんで。先輩、薫のことよろしくお願いします」

「もちろん。ちゃんと見てるよ」

相も変わらずどこまでもお人好しだと心の中で火野は苦笑するが、隣のちょっと寂しげな幼馴染が惹かれるだけの男だ。度を越えてまっすぐなくらいでなければ、秘めに秘められた薫の心をこんなにも射抜くことはできまい。
眩しいほどの光と相対する立場の自分では、決して成り得ない。目に入れても痛くないほど可愛がっている弟を、文句のつけようもない男に取られてしまうのは些か悔しいというか、ほっとしているというか。何にせよ複雑だ。後に出会ったのは自分の方だと言うのに。

「応援するけど、無理をしてはダメだよ。君に何かあると水川が悲しむから」

ちょっとした嫉妬か、一言だけ余計なお世話を働いてみた。薫は火野相手に怒ることもできず、そんなことない、と零に唇を尖らせ、精一杯の憤慨をして見せる始末。薄茶の柔らかいくせ毛が、赤らんだ耳元をふんわりと覆っている。
零もやや驚いた様子で、薫と火野へ交互に視線を移し、えへ、と照れたように年相応の笑みをぶつけてきた。

「はーいっ。薫、心配いらないからな! 行ってきまーす!」

旋風を巻き起こさんばかりにぐるんとUターンして、零は固い土と石畳を踏み締める。細い腕を机に伸ばしたまま、鳥居を飛び出していくその背中に、薫は小さく手を振った。



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