▼ 2.汗
「いちゃ悪いのかよ」
強炭酸のペットボトルをトンと実験台に置いて、天子は彩音と薫の間に椅子を引き寄せて割り込んだ。しかめ面のまま、視線はプリントに注がれている。
「まためんどくせぇことしやがって」
「先輩たちは去年経験してるんですよね? どんな感じでした?」
凛が年上の四人を見回して尋ねれば、零はどんと自らの胸を叩いて瞳を輝かせた。
「すっげー楽しかった! たーっと走って学校帰ってからは体育館でずっとバレーしててさ! へへ、一日勉強しないっていいよな」
「二十四キロ走ってから…バレー…?」
何か別の星の生き物を見るかのような視線を投げかけた彩音に、火野と薫がゆっくりと首を横に振った。
「それは運動能力において特に秀でた人の意見だからね、決して参考にしてはいけないよ」
「えっ、参考にならないっすか」
「なるわけない」と呆れる薫。
「俺も歩くのはたりーから走ってたな。つっても、そっちの人間やめてる奴と違って、帰ってからはひたすら寝てたけど」と天子。
「九時半に出発して十五時半に閉会式があるということは、お昼を抜いても時速四キロで歩かなければならないのでしょう? 坂道でそれはあんまりですわ」
由姫のもっともな意見に、運動が苦手な彩音はうむむと唸る。そもそも二十四キロどころか、たった十キロでさえ自分の足で歩いたことがないのだ。時間内に帰校できる自信が全くない。
「大丈夫。閉会式始まってから帰ってくる人も結構いるし、怒られるわけじゃないよ」
零が優しくフォローを入れる。とはいえ、それでもせいぜい猶予は三十分程度。きついことに変わりはない。
「どうしよう、凛ちゃあん」
「今からでもちょっとずつ歩いて慣れるしかないんじゃない。あたしは走るわ」
「ええ! だ、大丈夫?」
「中学の頃、部活で十キロくらいなら走ったことあるからそこまでは大丈夫。疲れたら歩けばいいし。直、あんたもそうするんでしょ?」
直は中学の部活を引退して以降、零の教えに倣い、体力を落とさないようにと夜に町内を走ることを習慣としている。
凛ももちろん知っているので、控えめに頷いたところ、零からありがたいお誘いを受ける。
「そっか? じゃ、俺と走るか?」
憧れの先輩からの嬉しい提言に浮かれる直だが、横から入った天子の一言ではっと我に返った。
「やめとけ。こいつについてったら死ぬぞお前」
「は、はい…。すみません零先輩、ゆっくり追いかけます」
ここ一月ほどで、零の驚異の身体能力は化学部、生物部の両部が嫌でも知るところとなった。
先日も体育の千五百メートル走で現役の陸上部をおさえてトップになり、顧問の先生から直々にオファーを受けたそうだ。彼が入学して一年余り、そのオファーの数たるや、バレー部、水泳部、駅伝部、サッカー部等々、挙げ出したらキリがない。事実、時々は助っ人として大会にも出場していたりする。
というわけで、二十四キロ踏破など彼にとっては朝飯、いや昼飯前であった。昼食を観音堂で食べるところを、去年は昼前に学校へ着いたからと校庭で食らっていたらしい。今年はついに、飲み物オンリーで出発すると言い出した。
「本当に、運動に秀でておられますのね」
「もう伝説化してますよね、先輩」
零へ尊敬の眼差しを向ける由姫をちらっと見て、彩音は愛用のスケブで持ち物リストを作り始める。
観音堂はテーブルや椅子がなく、学校側で用意したブルーシートに座って昼食をつまむらしい。食べやすいものの方がいい、との薫の言葉に従い、おにぎり、お茶、とまずは書いていく。
「火野先輩は去年どうでした?」
凛の質問に、火野はマドレーヌを食む薫の髪を撫でながら苦笑して答える。
「実は、僕も参加できないんだ」
え!と一年生側から驚きの声が漏れる。唇をきゅっと噛んでから、天子がそっと口を開いた。
「病気、なんですか」
「持病ってほどじゃないよ。心肺があまり強くないんだ。だから体育も基本的にはやらないし、去年は水川と一緒に係の仕事をしてたよ。ね?」
アーモンドスライスをぱりぱりしながら、薫が小動物よろしく頷く。そうそう、と零も続きを引き取った。
「観音堂でスタンプ押してましたよね。火野先輩のとこだけめっちゃ女の子で混んでたって薫から聞いたっす」
「誰に押されたって変わらないのにね。今年もそうなるだろうからみんな気を付けておいでよ。水川と待ってるから」
ここで、あの、と遠慮がちに由姫が彩音に声をかける。
「彩音ちゃん。よかったら、なんですけれども。私と一緒に歩きませんか?」
「え、いいの! いいよ、むしろお願いしたいよ!」
「本当ですか? 私、足腰に全く自信がないのですけど…」
「わたしだってそうだよ。はぁ、よかったぁ仲間がいて」
凛も直も頼れない中、由姫が仲間に加わってくれるなら心強い。彩音は嬉しそうに持ち物リストを由姫側へ寄せた。由姫も安堵した様子で会話に加わる。
「ね、何持ってく? 」
「乾いたハンカチも要りますけれど、私はおしぼりも欲しいですわ」
「手拭くのにもいるよね。濡れたタオルってぶんぶん振るとひんやりするし」
気化熱、と口数少なめな薫が珍しくはっきりと発音する。何だっけそれ、と零も尋ね、ひまわり商店で買った爆弾おにぎりにかぶりついた。
「液体が気体になるにはエネルギーが必要だから、熱を奪う作用がある。汗をかくと、汗が蒸発する時に体から熱が奪われる。だから体温が下がる」
「あーうん、それそれ。……」
半合ほどもあるおにぎりを大きなひと口で減らし、零はちらりと火野を横目で窺う。なぁに?と視線に気づいた彼が笑った。
「火野先輩って汗かくんすか」
「おや、変なこと訊くね。僕は人間だよ」
「俺は今んとこ見たことないっすけど。運動キライって言うし、薫みたいに体強くないみたいだし、汗かく暇なさそうだなって」
「そんなことないけど」
「えー。何してかくんですか」
「何して、って ……立花はピュアだから言えないなぁ?」
顔色ひとつ変えず、火野は薄く微笑んだまま小首をことんと傾げる。ぷはぁっ、と天子が炭酸を、ついでに彩音と凛も口許を覆って吹き出しそうになるのを慌てて堪えた。その他のピュアな面々は首を捻るばかりだ。
「ん? 風呂っすか?」
「あー…うん、近い」
「直、わかるか?」
「風呂で、惜しい?……サウナ?」
「岩盤浴でしょうか。水川先輩は…」
「……砂風呂?」
「遠くなったね。まぁまぁ、人間は一日にリットル単位で汗をかくわけだし、強歩の時も水分補給はちゃんとしようね」
真っ赤になってプルプルと震える天子を一瞥して、いち早く復活した凛がドンと彩音をどつく。
「びっくりした…」
「わたしだってしたよぉ!」
こんな真っ昼間から火野が恐ろしい――むしろ厭らしいことに言及するとは、露ほどにも思わなかった二人である。いや、もしかしたら本人は全く別のことを言っているのかもしれない、が。あの余裕の笑みは決して健全なものを示唆してはいないだろう。
「薫ー、俺、今年は一番に会いに行くからな! スタンプ用意して待ってて! ね!」
薫をすっぽりと抱き締めて、零は柔らかなくせ毛に頬擦りする。イヤイヤ、と薫は公衆の目を気にして零のシャツをぐしゃぐしゃに掴むが、本人は構いもしない。
「そうだ、お菓子持っていくか。で、観音堂で一緒に食べよ。うー、でも薫はずっと仕事だし、その時しかいられないのか。寂しいなぁ、学校戻りたくないかも」
「ちゃんと戻れ」
純度百パーセントの、曇りなき恋人同士のやり取り。端でそれらを見せつけられた彩音と凛はあまりの眩しさにぐっと顔を背けた。
「うっ、純愛が眩しい…!」
「汚れた心に突き刺さるわ…」
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