小説 | ナノ


▼ 14.春の夜

「じゃ、気を付けてなー!」

「はい! お疲れ様でした」

暖簾の下りた和菓子屋『名月堂』の前で直と別れ、零と薫はすっかり小雨に落ち着いた道を進んでいく。もう傘は必要ないだろうと、零は借り物のそれをたたむ。そして同じくたたもうとした薫の手を止めて傘を奪うと、ひょいと傘下に身を滑らせた。

「へへ、相合傘ー! いてっ」

「出てけ」

ぽかぽかと肩や腕を叩かれるが、零は柄を反対の手にパスして、内側の手で薫の手を握った。む、と薫が照れをごまかそうと口をへの字に曲げる。

「もー、そんな顔してもかわいいだけなんだからな! 今日は火野先輩も薫のこと抱っこするわチョコ食べさせるわで、俺ほんと怒ったんだから」

怒ったんだから、と言いつつ、つんと唇を尖らせる零は笑っている。火野に対して腹が立ったのは事実かもしれないが、それ以上に今日の交流会が楽しかったのだろう。

「先輩は相変わらずだしてんこは不良だけど、由姫ちゃんいい子だしお菓子もうまかったし、また遊びたいな。合同でなんかやれるといいよな」

「うん」

他愛ないことを喋っているうちに、薫の家の屋根が見えてくる。ひょい、と門の内側から顔を出した猫は夜目で飼い主と友人を捉えるなり、体が濡れるのも厭わずにこちらへダッシュしてきた。零が腰を屈めると、ぽんと膝に乗って前脚を肩へ引っ掛け、ニャアニャアと鳴き出す。妙に寂しげな、心許ない子供の声だ。

「よしよし、いつもの時間に帰ってこなかったから心配かけちゃったんだな。ただいまひーちゃん。ほら、薫も元気だよー」

「ひーちゃん、ただいま」

薫が額から後頭部までをぐりぐり撫でてやると、猫は安心したように手のひらに擦り寄って、今度は薫の腕の中へ収まった。
じゃあ、と言いかけて、零はきょろきょろと辺りを見回す。街灯にぽつんと照らされた二人と一匹。薄雲に覆われた雨の夜に、路地へ出る者はいない。

「薫、お休み」

ちゅ、と頬に唇を押し付けて、零は殴られないうちにと早々に走り出した。ぱしゃぱしゃとスニーカーが水の層を踏み鳴らす。

「……ばか」

猫を抱えたまま、薫もぱしゃんと水を蹴って飛沫を散らした。ニャア?と猫は不思議そうに肉球を桃色の頬に押し当てる。仄かな温かさが心地よいのか、ぺろりと舐めようとした舌は飼い主によってそっと留められた。

◆◇◆

とある一軒家の裏手。
室外機の陰に差し込まれた梯子を引きずり出して組み立てる。慣れたものだ。立て掛けても二階の窓までは少し遠いが、そこは長い手足の成せる技。あっさりと窓を開けて、火野は脱いだ靴を手に部屋へと侵入を果たした。

「相変わらず汚いな」

物が多く雑然とした部屋を見渡してため息をつく。テレビ台の下に詰め込まれた雑誌と如何わしいDVDの数々。床にも本が開かれたまま放置され、コンポ周辺もアイドルCDと漫画が散らかっている。学習デスクは教材が堆く積まれており、最低限のワークスペースだけがかろうじて確保されていた。寝床であるベッドの掛布団は足元の方にくしゃくしゃと丸められ、枕の横にはリモコンが二種類とこれまた漫画本が数冊。

「まぁいいか。後にしよ」

ベッドに鞄を置いて、火野が中から取り出したのは私服の上下だ。躊躇なく制服を脱ぎ捨てて、手早くセーターとパンツに着替える。クローゼットに空きのハンガーを見つけたので、制服は一式きちんと吊るしておいた。
財布と携帯だけを手に、内部の階段を下りていく。人の気配は全くない。もちろん承知の上だ。
玄関の小物入れから予備の鍵を拝借して、外に出てから施錠する。鍵もポケットへしまい込み、火野は最寄りのコンビニへと歩き出した。

傘がいらない程度になったからか、国道を走る車は多い。週末の夜とあっては、まだ時刻も宵の口だ。これから駅前に繰り出す大人もたくさんいることだろう。その『大人』に今し方カウントされてきた火野は、コンビニのビニール袋を揺らし、今度はしっかり玄関から入室を果たした。

「まずは片づけかな」

キッチンからゴミ袋を探し当て、該当の部屋の不要なペットボトルや菓子パンの袋、ゴミ箱の中身を分別する。ついさっきまで鍋の始末をしたばかりなのに、とひとりごちながら衣服やタオル類も拾ってランドリーバスケットへ投げ込んだ。今なら洗濯しても周囲の迷惑にはならない時間だ。本はどうしようもないのでデスクの山へさらに積み上げる。雑誌は古い順に並べて手近な段ボールへ。ようやく床が見えてきた。すかさずハンディクリーナーを床とベッドにかけ、一階の洗濯機を回してからやっと腰を下ろすことができた。

「ほんと、僕にこんな真似させるんだから罪な男だよねぇ」

吊るした制服と荷物は既に一階へ避難させてある。部屋のドアを閉め、火野はコンビニ袋から小さな箱を、懐からライターを取り出した。トントンと箱から一本だけ抜き出した先端に火をつけて、すう、と重たい煙を吸い込む。肺に染み渡る空気は、その濁りとは裏腹にひどく温かい。

「そういえば、新しいの手に入れたって言ってたけど」

煙草を指に挟んだまま、片したばかりのテレビ台をあさり始める。夜の診察室、囚われの未亡人、コスプレイヤーの末路。ずいぶん節操がないなと、呆れながらパッケージを改めていく。
バタン、と階下で物音がした。部屋の明かりは煌々と照っているので、家主には既に気づかれているだろう。が、構えることなどない。火野は素知らぬ顔で缶ビールのプルタブをぷしゅりと引き開けた。
数秒後。げんなりと疲れきった表情で、時宮輝は自室のドアを開け放った。

「おい、珪。おーまーえーな、不法侵入すんなってあれほど言ってんだろーが」

「おばさんと若菜さんはいつでも来てねって言ってくれたけど。ていうか感謝してほしいくらいだよ、掃除もまともにできないんだから」

しれっとした顔で火野は缶を煽り、携帯灰皿にとんとんと灰を落とす。
時宮の母は編集者だが、多忙で家に帰れないことも多く、一月のうちの十日ほどは時宮もひとり暮らしを余儀なくされている。姉も少し離れた場所に住んでいるので時々は様子を見に来るが、彼女――若菜もなかなか体の空かない職種である。
よって、火野はそれらを見計らっては遊びついでにこうして出入りを繰り返し、普段の優等生をかなぐり捨てた面を時宮にのみ披露しているのだった。

「掃除くらい、誰か来るってわかってたらやるだろ少しくらい! お前がいつもいつも無断でいきなり来るから」

「へーえ。じゃあ僕帰ろうかな、せっかく輝の好きなからあげチャンとピザまんとプレミアロールケーキと朝ごはん買ってきたのにな、仕方ないかー」

「っあーーー! うるせーなわかったよいろよ!!」

時宮の絶叫を待って、ピーッ、と洗濯機が終了の合図を鳴らす。煙草を灰皿にぐりぐりと押し付けて、火野は階下の洗面室に下りていった。はぁ、と時宮は深く息を落としつつ、それでもからあげチャンに罪はないのだから、とコンビニ袋をあさる。今すぐやるべきことは煙で充満した部屋の窓を開けることなのだが、それさえ面倒くさい。クローゼットの服は既に燻されているし、どうでもいい。
からあげチャンはご丁寧にプレーンとレッドの二種類を買ったらしい。どちらも好きなので遠慮なくもらって、新しい缶ビールを開ける。他のつまみも漏れなく購入済だ。火野のこういうところには実際何度か助けられているのだが、素直に感謝する気にはなれなかった。迷惑をかけられた数の方が間違いなく多い。

「つーかなんで酒買って補導されねーんだよ」

昔から妙に大人びた顔立ちをしていた。確かにああしていると成人に見えてしまうのだが、奴は必ずと言っていいほど女性がいるレジに並ぶし、警官には自分から挨拶までしてしまうし、いやいやみんな騙されちゃいけないだろ、と理不尽な気持ちになる。それでも舌と喉を焼く炭酸は心地良いから、許してやってるけど。

「はー、煙い煙い」

やっと窓を開け放つ。煙が雨上がりの夜空に吸い込まれ、時宮も新鮮な空気で深呼吸ができた。
火野も階下から戻り、DVDデッキの横からひょいと女体のパッケージを拾い上げる。

「ね、新しいのってこれ?」

「ぎゃー! やめろよ、おまっ、他人の趣味を覗くな!」

「今更でしょ。うーん…なんか微妙そう。僕こっちがいい」

「嫌だ! お前関係ないところですぐ文句言うじゃねーか、カメラワークが甘いだのストーリー性皆無だの!」

「僕はディテールにこだわりたいの」

「こだわんなくていいの! メインはそっちじゃねえ!」

「内容にこだわらないのは映像作品としてどうかと思うなぁ」

薄曇りの春の夜は、騒がしくも徐々に更けつつあった。



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