▼ 9.協力
「もしもし? 親父、今家? うん、薫と一緒。学校の近くで木が倒れたらしくて、まだ帰れないんだって。冷凍の餃子あるから、一樹が騒いだら焼いてやって。え、大丈夫だって、水も油もいらねーから。んで、飯は炊けてるだろ? 冷蔵庫に、母さんが朝作ってたポテサラとひじき煮あるから。うん、よろしくー」
いったん切って、もう一度耳へ宛がう。携帯を持っていない薫のために、今度は水川家の固定電話へ掛けた。
「もしもし、零です!今薫と学校にいるんすけど、雨で木がやられて倒れて、危ないから帰るなって足止めされてるんすよ。はい、部室にいるんで全然大丈夫っすけど。薫に代わりますね!」
はい、と手渡された携帯を、薫は恐る恐る耳に当てる。借りることはままあるが、いつもどの部分に耳を当てるべきか、どこに声を発するかで迷ってしまう。
「もしもし……うん。そっちは…うん、ひーちゃん……大丈夫。零と帰るから。先に食べてて。……うん、また電話する」
通話終了ボタンを押して、零に携帯を返す。みなが各々の家庭と連絡を取る様を、火野が楽しそうに観察していた。
ほとんどが一分程度で済む中、凛の通話はなかなか終わらない。がしがしとウェーブの髪を掻きながら、いかにも面倒くさそうに電話の奥へ苛立ちをぶつけている。
「だから、来れないんだって、迎えも。だって通行止めだもん。駅までしか来れないし、駅もたぶん、ここからの水が流れて大変だってば。だからね、おとなしく――あーもー、いいって。あんたはとにかく家出ないでよ、わかった?……はいはい、またね」
はー、と深くため息をつく凛に、弟くん?と彩音が尋ねる。
「そう。心配でここまで来るって言うし、来れないんだって何回も言ってんのに。ほんっとアホなんだから」
姉を想う故とあっても、山の上で孤立している学校には何人たりとも近づけまい。弟は今しばらくの辛抱を強いられそうだ。
「そうだ、そもそもバス動いてんのかな? てんこ先輩、電車はどうですか?」
端末を手にしたまま運行状況を検索し始めた凛は、同じく交通情報を調べているであろう天子に声をかける。
「遅延。安全確認した上で、速度を落として走ってるってところだな。前の電車で四十分遅れてるらしい」
「一応動いてはいるんだな。確かに、風の音はしないみたいだけど」と、零。
雨粒が猛烈な勢いで窓ガラスに叩きつけられる音、そして時折ゴロゴロと不機嫌そうに雨雲が唸る音。ここに風が加われば、地盤の弱った木々が煽られる恐れもある。
時刻は六時半を回った。普段であれば、化学部もお開きになる頃合いだ。
ぐうう、と。場の空気にそぐわぬ、呑気な胃袋の悲鳴が聞こえた。彩音はぱっと両手で赤らんだ顔を覆い、すみません、と消え入りそうな声で謝る。
「いつも、七時前にご飯なので…つい」
「あんた、ゆっきーのお菓子食べまくってたじゃん」
「それは…おいしかったけど、お菓子だし。うう、お腹すいた…」
「まあ。もっと、腹持ちのよいものであればよかったのですわね」
「そういう問題じゃねーよ」
「俺も腹減ったなー。薫は? 大丈夫?」
「…少し」
「だよな、直も減ったろ?」
「はい。さすがに、この時間になるとちょっと」
「一晩ここに籠城になるかもしれないからね」
「部長。縁起でもないことを仰らないで下さいな」
「ごめんごめん。僕は常に最悪の想定をしておくだけだよ。もちろん、対策だって考えてるけど」
火野はようやく自分の携帯をポケットから覗かせた。黒一色の折り畳み式。どこに電話を掛けるのかと、みなは訝しげに見守る。
「水川、お願いがあるんだ」
アドレス帳をスクロールしつつ、火野は言う。
「ご飯作ってくれない? お鍋がいいかな、寒いし、みんないることだし」
「…お鍋?」
薫はきょとんとする。零も頭上にハテナを浮かべたままだ。
「いや先輩、鍋ってそんな、材料どっから――」
「あ、もしもし。僕だよ、僕、火野だけど。この前の審査会、君たち予算通ったんだってね、よかったねぇ。ん? 僕のおかげ? うーん、どうかなぁ。……うん、まぁ君たちがそれでいいなら、全然構わないよ。そうだな、野菜がいいなぁ。ほら、この雨でみんな籠城中でしょ? お腹減るでしょ、お鍋がいいんだ。わかった? わかったよね?……はいはい、ありがとう」
およそ三十秒ほどで一方的に通話を終えると、携帯をしまい込んだ火野は薄く笑った。
「立花。てんこも、空腹のところ悪いけど。もう一回、搬入作業やってくれる?」
◆◇◆
「すみませーん!火野先輩のお使いで来ました、立花です!」
雨粒が打ち寄せる、屋内渡り廊下の一角。『家庭室』の古びたプレートの下で、零は呼び掛けと共にドアをノックする。二秒も経たないうちにドアが勢いよく開いたので、隣にいた天子も僅かに後ずさった。
「こ、こんばんは! あの、これですこれ!あと、これも!じゃ!よろしくお願いしますね!」
早口で捲し立てた男子生徒は、段ボール二箱を手早く廊下へ押し出し、即行でまたドアを閉めた。その態度に、ちっと天子が舌を打つ。
「喧嘩売ってんのかよ」
『園芸部』と書かれた段ボールを思わず蹴りつける。よいしょ、と言いながら、零は一箱をあっさりと抱えた。
「そーかぁ?なんか、あの人だけ怖がってるように見えたけど」
開けたドアの奥には園芸部らしき数人がカーペットに座り込んで、楽しそうにトランプに興じていた。青い顔をしていたのは彼だけだ。
天子も箱を持ち上げるが、すぐに床へ下ろす羽目になった。
「う……ぐっ、おっも! 何入ってんだよこれ」
「ん? ほんとだ、こっち重いな! 俺そっち持つから、てんここっちにしろよ。はい」
「は? あ、ああ……」
重いと言いつつも、零はひょいと空き箱さながらに持ち上げ、廊下を闊歩していく。だいぶ軽いもう片方を抱え、天子も後を追った。ちょっとばかり負けた気がする。
「お前、どんだけ馬鹿力なんだよ」
「弟とか妹とか、腕に吊って遊んだりしてるからな。あと薫もお姫様だっこしたり。へへ、嫌がられるけど」
「そこは別に聞きたくねえ」
後半の惚気をげんなりした顔で流し、階段をゆっくりと下っていく。なぁ、と今度は零が質問を返してきた。
「てんこはなんで火野先輩が好きなんだ?」
「はあ!? てめ、今そんなん訊いてる場合じゃねーだろ」
危うく動揺して箱を足に落とすところだった。火野のお使いなのだから、ミッションを完遂するまで会話はお預けにしておこう。階段を過ぎれば実験室は目前だ。
「お帰り、重かったでしょ。ありがとうね」
入ってすぐ、疲れが吹き飛ぶ程の笑顔で労られ、胸がいっぱいに満たされた天子は、実験台のひとつにそっと箱を下ろしていく。零もどさりと遠慮なく箱を置いてから、開けていっすか?と火野に尋ねた。どうぞ、との許可を得て、ガムテープの封をびりりと豪快に破る。
「おお! すげー!」
水分をたっぷりと含んだ、葉の大きい白菜がまるまる二個。芯の太い長ネギ、しゃきっと新鮮な水菜に春菊、籠に入ったミニトマトとごろごろのじゃがいも。そして、恐ろしい重量の元凶たる底の米袋。まさか米まであるとは、零も目を丸くしている。
「そっかー、こいつのせいでやたら重かったんだな。てんこの方は?」
「玉ねぎ、人参、大根、トマト、いちご…か。あいつら、これ全部自分たちで作ってやがんのか」
「へええー、すげーな! 薫ー、食材持ってきたよー!」
後から聞いた話によると、伝統ある園芸部は数年前から近所の農業試験場で一緒に作物を植えさせてもらっているのだという。蓮華の敷地にはせいぜい数坪の畑しかないのだ。
薫は生物準備室の方から、由姫と共に調味料らしきものを抱えてやってきた。準備室の奥にはミニサイズの冷蔵庫もあるので、その辺りのものかと思いきや、いやに種類が豊富だ。
「うちでいろいろ引出物とかもらうんだけど、使わないから持って来てたんだよ。冷蔵庫自体がもともと生徒会室にあったものだから、その残りもあるけどね」
火野が説明すると、外から化学部の一年生たちがぱたぱたと駆け込んできた。大きな鍋やカセットコンロなど、化学準備室の備品――実験で使ったことはほとんどないが――を運んできたらしい。
それじゃ、と火野はひらひらと手を振って部屋を出ていく。
「準備はできたね。水川、頼んだよ。僕は生徒会の方を見てくるから」
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