▼ 7.春の嵐
玄関から台車と人力で搬入した段ボールは、生物実験室の端に積み重ねられた。とりあえずここまで持ってきてしまえば、後は火野が自分で荷解きをするらしい。もともと生物実験室自体の使用頻度が少ないようで、段ボールがいくつかあったとしても怒られはしない、と火野は言う。
「割れ物だけは部室に置いておくよ、一個だけだし。てんこ、よろしくね」
「はい」
三十センチ四方の小さな段ボールを、天子が抱えて部室に運ぶ。が、ぴたりと閉じた部室のドアの前で小さく舌を打った。
「おい由姫、開けろ」
ガン、と上履き――蓮華高校ではスリッパだが、足先でドアを蹴れば、内側から由姫がしかめ面で道を作った。
「何も、蹴ることはありませんでしょう」
「うるせえ」
小言を流し、デスクの前にゆっくりと件の箱を置く。ワレモノ注意、の赤枠シールが上面にも側面にも貼られている。
「そういやみんな、傘持ってるか?」
由姫が開けたままにしていたドアからひょこっと零が顔を覗かせる。薫はふるふると首を振った。
「だよなぁ、俺も。さっき玄関に行ったら、ちょうど雨降り出してきてさ」
「えー、ほんとですか。持ってないなぁ」
「あたしは折り畳みならあるけど」
「私もですわ。……あら? この音…」
由姫が首を傾げると、皆も窓に目をやって耳を澄ませる。さーっと穏やかに降り注いでいた雨は、数秒ごとに険しさを増していく。
しまいには、ザーッとコンクリートを強かに弾く大きな雨音が響いてきた。うわぁ、と凛は嫌そうに顔をしかめる。
「これは折り畳みじゃ無理ね。止むかなぁ…」
「天気予報では突然の雷雨に注意、とのことでしたけど」
「んなもん最近ずっと言ってんだろ」
「そういやそうだな、夕立も時々あるし」
「春の嵐、かな。春先は北からの寒気と南からの暖気で低気圧が発達しやすいからね」
そうこうしているうちにも、窓の外でピカッと不気味な閃光が走る。ひ、と直がワンステップで零に寄ったのを薫は見逃がさなかった。
数秒後、訪れるは雷鳴の轟音。山の木々がいくつか裂かれたのではと思う。
「おやおや」
火野はイルミネーションでも眺めるかのような他愛なさで笑う。直が震えながら、我先にと部室のドアをくぐっていく。
「これは外出られないわねー」
窓は曇りガラスなので雨粒が打ち付けられる様しか見えないが、外の具合はわざわざ見なくても耳でわかる。凛がふうとため息をつき、由姫も頷く。
「そうですわね。もうじき暗くなるでしょうし、早く止むといいのですが、今のところはじっとしていた方がよさそうですわ」
部室には窓がないので、様子がわかるようにと、一応はドアを開けたままでみな部室に戻っていく。一階でこの雨音と雷鳴ならば、最上階はなかなかのものだろう。
「嵐ってことは、ここに風が出てきたら大変だよな」
「ん。何か飛ばされたり、交通機関にも影響が出る」
零と薫の会話に、うへえ、とてんこがカウチに伸びながら眉を寄せた。
「ここらの電車はマジで上下線すぐ止まるからな」
「先輩、電車通学なんですか?」
凛が尋ねると、バッグから数Uの教科書を取り出した天子が頷く。
「ああ。蓮華から三つ南」
「蓮華、塩本、花村……高浪ですか?」
「ん。そっから家まではチャリだな」
彩音が駅名を指折り数えていく。
蓮華高校では学区の制限は特にないが、始発に乗って駅を九つほど通過してくる猛者もいるらしい。天子が三つならば、そこまでの早起きをする必要はないだろう。
「そういえば、みんなおうちはどの辺なの?」
外の嵐を気にしてか、火野の問いに彩音と凛が顔を見合わせて答える。
「わたしは蓮華駅のすぐ裏です」
「あたしは国高台の方なんで、駅からバスで二十分くらいですね」
「え、凛ちゃんニュータウンだったの? お金持ちじゃん」
「何言ってんのよ、賃貸に決まってんでしょ」
国高台といえば四半世紀ほど前に山を切り開いて開発された、新興住宅が立ち並ぶ町だ。通称は国高ニュータウン。一軒家はどれも大きな庭付きの家構えで、経済的に余裕のある人間が住んでいる印象だ。賃貸といえども地価は現在も高騰中で、マンションもそれなりの値段なのだが。
「私は車で十五分ほどですわ」
「あの辺りも山が多いから、土砂崩れが心配だね」
火野の言葉に、ええ、と由姫は整った眉を下げる。
「邸宅には問題ないのですけど、道が塞がれてはかないませんわ」
続いて零が薫を含めて返答する。
「俺と薫は一中の近く。ここから下るなら十分かな、上りはもっとかかるけど」
「零先輩と水川先輩のおうちって近いんですか?」
もっともな問いを投げ掛けた彩音に、あはは、と火野が笑いかける。
「窓を開けて、それなりの声を出せば会話できる距離だよ」
「ええ、そんなに!ちかっ!」
へへー、と零が何故か照れた顔で頭を掻いた。
「隣の隣なんだ。間の家が平屋だから、二階からなら見えるよ。っていっても薫の部屋は一階だし、電話するくらいなら会いに行っちゃうけど」
「いちいち、来るな」
ぽすぽす、と特有の擬音で――別に文字が見えるわけではないが、表現するとそうなる――機嫌を損ねた薫を物ともせず、零は特攻隊よろしく抱きついていく。
「幼馴染ってやっぱ強いよねぇ」
「強い」
彩音と凛がうっとりと薫の抵抗を眺める中、直くんは?と直が火野に話を振られる。
「おれは梅が丘公園の方です。あっでも、叔父さんがやってる和菓子屋が零先輩たちの家の近くで、お母さんが忙しい時はそこに泊まったりしてます」
「ああ、名月堂だね。ここからならそっちが近いし、今日もそうした方がいいかもね」
「まぁ、あのお店の甥っ子さんでしたのね。私、おはぎが好きなのでよく買っておりますわ」
「あ、ありがとう。今は桜の新作に力を入れてて、今度桜おはぎも作るって言ってたよ」
楽しみにしています、と微笑む由姫に、数Uから不意に天子が顔を上げる。
「あんなもんの何がいいんだよ。あんこに飯突っ込んでるだけじゃねーか」
「あれはご飯ではありませんわ」
「いや飯だろ」
「もち米とうるち米です」
「結局米かよ」
「何ですって」
ほら二人とも、と火野が穏やかに仲裁すれば、ぷいと両者はそっぽを向いてしまう。
「火野先輩は、おうちってどの辺りなんですか?」
「すぐ近く、だったような。どこら辺かはわかんないですけど」
凛の尋ねに、零が薫の頬からフィナンシェの欠片を払って応答する。そうそう、と火野も頷いた。
「朝はぎりぎりまで寝ていたいでしょ? 学校から近い方が何かと便利だし」
「あら、部長でもそのようなことを仰るのですわね。寝覚めのよろしい方だと思っておりましたけど」
そんなことないよと微笑む火野に、直が部屋の南側を指差す。
「あっちの、病院の方かと思ってました」
「うーん、ほんとはそっちなんだけどね。お手伝いの人とかあまり干渉されたくないし、ひとりの方が気楽だよ」
「えっ、ひとり暮らしなんですか!すごーい」
ていうかお手伝いさんいるんだ、と後から彩音は心の中で反芻した。ひとり暮らしよりむしろそちらの方が貴重ではないか。
そうだ。彩音は数Uを読んでいるようで、実はちゃんと聞き耳を立てていたに違いないカンガルー、もとい天子に笑顔で向き直る。
「てんこ先輩、電車止まったら火野先輩のおうちに泊まらせてもらえばいいじゃないですか」
「は!? あ……ぁあ!? ふざけんなよてめぇ!」
一拍遅れてから、物凄い勢いで高まる怒号と頬の赤み。凄まれても全く恐くない。ぷ、と由姫が小さく吹き出すと、これまた空気の読めない零が不思議そうに口を出してきた。
「?てんこ、なんで怒ってんだ? いいじゃん別に」
「うるせぇ! 黙ってろ!!」
はーっはーっと肩で荒く息をする天子の髪に、優しい手がぽんと乗せられる。
「そんなに怒ったら血管が切れちゃうよ。落ち着こうね、よしよし」
「あ……は、はい……うぅ………」
落ち着くどころか逆に動悸が加速する。が、当の天子はカウチの上で膝を抱え、その腕に額を乗せて嬉しそうに呻いている。髪の間から覗く耳は真っ赤だ。本日初見の直は、隣でひどく困惑した。
「凛ちゃん、恍惚再び」
「うーん、忠僕って感じ」
起爆剤こと彩音はしみじみとカンガルーを観察する。凛も満更でもなさそうである。
「薫ぅ。もしかしてあいつさ、火野先輩好きなの?」
今更気づいたのかとばかりに、薫は鈍感な幼馴染の頬をぺちりと軽く叩いた。
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