小説 | ナノ


▼ 3.地衣良 由姫

「生物実験室ってどこにあるんですか?」

「南校舎の端っこ。俺も行くのは初めてなんだ。薫は?」

こくり、と前方の薄茶の頭が縦に揺れる。
蓮華高校では二学年の進級で文理を分けており、文系は化学か生物を選択、理系は化学を必修とした上で生物か物理を選択することになっている。
零は二学年の選択科目を生物にしているが、授業はまだ座学ばかりで実験室を訪れたことはなかった。薫は物理選択なので縁もゆかりもない。

部活総会を終えた零と薫が化学実験室へ戻ってきたので、こちらの実験室は施錠し、各自荷物を携えて生物部の部室へと移動していた。
生物部部長・火野からの連絡によると、生物部は生物実験室を部活に使用しているが、今回は顔合わせということもあり、居室である生物準備室へ来てほしいとのこと。蓮華高校の特別教室は、本体である実験室等の『〜室』と、物置や非常勤講師の居室に使われる『準備室』がセットになっている。化学準備室は前者、つまり物置だが、生物準備室は珍しく部室の括りであるらしい。珍しくというか、少なくとも薫は前例を知らなかった。

「どっちも一階だけど、行き来するには、いったん二階に上がって、渡り廊下から南に、行かなきゃいけないんですね」

階段を上りながら、彩音が読点の合間に息を継ぐ。
化学実験室は北校舎一階の東端。対して、生物実験室は南校舎一階の東端にある。外から行くなら一直線だが、内部に用があるのだから内部から行くしかない。そうすると彩音の言う通り、東階段をひとつ上がって、二階の渡り廊下から南校舎へ行き、また階段を下りて一階に着くという結論になる。少々面倒だが、敷地の広さを考えればまだ近いと感じる。

「ここが実験室か…」

南校舎の方が日当たりは良いはずなのだが、一階の端、しかも外には大きな杉がいくつか植わっているせいか、実験室の周辺は夕日が遮断されている気がする。零がそっと教室の引き戸を滑らせるが、実験室は静まり返っていた。放課後の化学実験室だって、化学部がいなければ似たようなものだが。
内部も化学実験室と同様に、細長い実験台が黒板に対し垂直に置かれている。器具や備品が少ないのか、こちらの方が部屋は狭い。薫が想像していた、怪しいカプセルやコールドスリープは見当たらない。薫は人知れずほっとした。

「お邪魔しまーす」

一応とばかりに零が小さく呟き、一行はぞろぞろと室内に踏み入る。準備室へ続くドアは教室の後方、窓側にあった。零はコンコンと小さくノックするが、返事はない。ノブを捻って、押し開けてみる。

「…ん?あ、そっちが部屋なのか」

ドアは右方向に弧を描いた。すると正面に備品類の棚が見え、右側、ドアの裏は大きな窓が嵌まっていた。
すぐ左側の壁にもうひとつのドアがある。こちらが本物の準備室、生物部の居室らしい。

「なんか張り紙あるぞ?えーと…」

『用無き者の立ち入りを禁ず 生徒会』

零はぽりぽりと頭を掻く。

「え、生徒会?うんまぁ、確かに火野先輩って生徒会と仲良しってか、知り合いいるけど。まぁいいや、俺たちはちゃんと用あるし入ろ」

何事も深くは突き詰めない零である。新入生はちょっと不安げだが、薫も頷いたので零は改めてノックをした。

「すみませーん。化学部です」

『はい。今出ますわ』

しとやかな女子生徒の声がしたので、零もやや瞠目する。ギィ、とドアが重い音を起こして開いた。

「お待ちしておりました、化学部の皆様。生物部へようこそお越し下さいました」

準備室から姿を見せたのは、艶のある黒髪ストレートをハーフアップにまとめた少女だ。制服のリボンは赤色、一年生だとわかる。が、その言葉遣いはとても少女とは思えぬほどこなれたものだ。
綺麗な角度でさっと会釈されたもので、化学部の面々も慌てて頭を下げる。少女はドアを開いたまま押さえ、手のひらを内部へ向けた。

「どうぞ、中へお入り下さい。部長は生徒会の方に用事がありまして、少々遅れると聞いております。申し訳ありませんが、お寛ぎになってお待ち下さい」

「丁寧にありがと。そっか、火野先輩まだ来てないんだ。じゃあ、失礼します」

「失礼し…うわわわわ!?」

入ってすぐ横の飾り棚を何気なく見た直が悲鳴を上げて飛びのく。高さおよそ二十センチ、直径十センチの円筒形の褐色瓶は、こぽりこぽりと時折泡を立てながら、液体を纏う何かを不気味に蠢かせている。気泡が消えた最中、ヒトの子のような塊が見えたのは幻と思いたい。ひい、と彩音も即座に目をつむる。薫は予想が当たってしまったことを少し悔いた。

「ご安心下さいな、オブジェですわ」

「お、オブジェ?インテリアってこと?」

楚々とした彼女が明るく告げるのを、凛さえもが吃りながら尋ね返す。ええ、と彼女は相変わらず笑顔だ。

「胎内回帰をモチーフに、国内の高名な芸術家によって造られたと聞きます。ただ、これらは生物部の発足以前からあったものですので、詳しくは存じ上げません」

そのオブジェとやらは、部屋の両脇にずらりと配置されている。下手に処分などしたら呪われそうだが、それでも部室にこんなものを置いておく精神は化学部の誰にも理解できなかった。この場にひとりで居られる彼女はいったい何者なのだろう。

「さ、どうぞお掛けになって下さい」

準備室――生物部の部室は、手前に応接セットがどんと居座り、奥にダークブラウンのデスクと本棚が設置してある。応接セットはいくつかのソファと座面の広いカウチがローテーブルを囲んでおり、十人程でもゆったりと座れそうだ。奥のスペースは完全に一人用なので、恐らくそこが火野の場所なのだろう。
化学部員たちは、手前の大きなソファに一年生が、テーブル横の二人掛けソファに零と薫が、それぞれ腰を落ち着けた。彼女は飾り棚の一角に来客用のカップを並べている。

「コーヒーとお紅茶、緑茶がありますけれど、如何なさいます?お菓子は焼き菓子になりますわ」

「えーと、俺と薫は緑茶かな」

「お気遣いありがと。あたしは紅茶。彩音も?」

「うん、わたしも」

「おれも、緑茶でお願いします」

はい、と澄み渡った泉の如く清潔な声で、彼女はグロテスクなオブジェに見守られながら急須とポットを操っていた。ややあって、トレイから湯気の立てるカップと湯飲みが配られる。

「こちらもどうぞ」

ペーパーを敷いたバスケットには、ココアやイチゴ、抹茶味と思しき焼き菓子が盛られている。頂きまーす、とちょうど小腹が空いていた彩音は嬉しそうに手を伸ばした。他の面々も、茶を啜りつつクッキーやフィナンシェをつまむ。甘いもの好きの薫など、零が止めないのをいいことに、両手それぞれに菓子を持って食べ始めた。

「んー、おいしい」

「ほんと。これ、ご贈答用のお菓子とかじゃないの?」

手土産でも持ってくればよかった、というニュアンスを含んだ凛の言葉に、彼女はふふっと笑って、切り揃えられた黒髪を横に揺すった。

「お招きしたのはこちらですし、お気になさらないで下さい。光栄ですわ、お口に合ったみたいで。次はマフィンに挑戦致しますね」

「え!これ、作ったのっ?」

零が驚きの声を上げれば、薫もぴたりと口を止めて彼女と菓子とを交互に見比べる。すごーい、と彩音も目を丸くしてフィナンシェにかじりついた。

「ええ、趣味なんです。ですが部長も天子先輩も甘いものは召し上がられないので、こうしてどなたかに振る舞うのは初めてですの」

「もったいなー!化学部ならあっという間になくなるわよ、彩音もあたしも水川先輩もいるし」

「ほんとだよ。ね、いつでも持ってきてね!」

「あんた、それはなんか違うでしょうよ」

率直な感想がよほど嬉しかったのか、彼女はやや照れた様子ではいと頷いた。テーブル奥側のひとり掛けソファに腰を下ろしてから、彼女はゆっくりと口を開く。

「自己紹介が遅れてしまいましたわ。私は地衣良由姫と申します。皆様、どうぞよろしくお願い致します」



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