小説 | ナノ


▼ 2.『好み』と『好き』

「印刷室……は、ここかぁ」

翌日の夕方。
ホームルームを終え、担任教師から日直の仕事を請け負った彩音は、室名のプレートを頼りに西側の渡り廊下を進み、半ば辺りで立ち止まった。
蓮華高校には南北の校舎を繋ぐ渡り廊下が二階の西と東で二本あるが、ただの通路ではない。通常の廊下と同じく、片側にはいくつかの教室を備えている。といってもクラス用のサイズは有しておらず、物置や非常勤講師の居室としての小部屋がちまちまと並んでいる程度だ。

その並びのひとつである『印刷室』の引き戸を、彩音はゆっくりとスライドさせた。
普段から締め切ってあるのか、入室と同時にやや湿気を感じる。彩音はひとまず、ドアを開けたままにしておいた。
六畳もない狭い部屋は、入口のそばにコピー機が鎮座し、他は壁を含めて本棚がみっしりと入り込んでいる。棚と棚の間は、人ひとりがようやく通れる幅だけ空いていた。各列の奥に、申し訳程度の吸湿剤が設置してある。

「『蓮華高校の歴史』……あれかな?」

端の本棚からひとつずつ確認していくと、目的の書籍を見つけた。確認といっても、ここにある本のほとんどは大学入試の過去問集、所謂赤本だ。この部屋自体が上級生からは『赤本部屋』と呼ばれている。探し当てるのは容易だった。問題は、それが本棚の最上段にあるという点だ。

「う……うう……」

中段の棚に左手を乗せて、彩音は思いきり右手を伸ばす。が、あと数センチのところで手は震えている。日本人女性の平均身長は158センチ。それならたぶん届いたはずだ。凛が羨ましい。

「はぁ…もうちょっとなのに」

本を二冊ほど床に置いて踏み台にでもすれば届くだろうが、誰も見ていないとはいえそれは憚られる。
ふんぬ、と彩音は今一度腕を突っ張った。担任め、何故こんな本をコピーして来いと命じた。頼むなら次は男子に、どうか男子に、

「これかな?」

「へ?」

にゅっと横から伸びてきた長い腕は、今し方熱望していた『男子』のものだ。彩音の手を易々と越え、大きな手は『蓮華高校の歴史』の背表紙をあっさりと掴んだ。

「はい、どうぞ」

やや埃を被った分厚い本を片手で差し出され、彩音は賞状のようにしっかりと両手で受け取る。

「あ、ありがとうございます!助かり…まし…た………」

礼を言うべく顔を上げて驚いた。徐々に辿々しくなる言葉。震える唇。

「どう致しまして」

にっこりと微笑んだ彼は、黒の細いフレーム越しに彩音の心臓をがっつりと射抜いた。

◆◇◆

「凛っちゃあああん!」

重そうな胸がニットベストを揺らす様に軽くカチンときつつも、実験室へ駆け込んできた彩音のただならぬ様子に、凛は天秤を心配側へ傾けた。

「何、どしたのよ。あんた汗かきすぎ」

「ど、どうしたの?大丈夫?」

実験台で課題を進めていた直も駆け寄り、ぜえぜえと息を切らす彩音に呼び掛ける。凛がシールを捲って汗拭きシートを差し出すと、ありがと、と彩音はシートを一枚引き抜いて顔周りを拭った。

「あ、あのね、すごい人いたの」

「すごい?」

「めっちゃくちゃ美形」

彩音の瞳に剣呑な光が灯ったのを皮切りに、ちょっとあんた詳しく話しなさいよ、と凛が自らの午後ティーを紙コップに注ぐ。直は寒くもないのにぶるりと震え出した。

「さっきわたし、先生に本のコピー頼まれて印刷室行ったの。知ってる?渡り廊下にある小さい部屋。で、本が高いところにあって届かなくて、あっ、凛ちゃんなら余裕だけど、わたし届かなくて、ぐいぐいやってたら、これかな?って取ってくれたの!」

午後ティーを一気飲みした彩音は、ひと息でここまでを淀みなく喋り切った。ちょっとぉ、と凛が口角をつり上げる。

「あんたそれ少女漫画じゃん。で?どんな人?」

「眼鏡かけてて、すごい優しそうな人!いや優しかったんだけど!わたしがまたわたわたやってたら、コピー機の使い方までちゃんと教えてくれたし!ちょっと低い声だけど、低すぎはしないかな。それで、たぶんわたしより30センチは背高い!」

「てことは180越えてんじゃん」

ひっ、と直が漏らした泣き声は、彩音のマシンガントークに掻き消される。

「そう!間違いないの!ネクタイ青だったから三年生だと思う!でね、『ここは踏み台を置くべきだね。後で生徒会に言っておくよ』って!ああ!もっかい会いたい!見たい!で、つまり、一言で今の心境を言うとね!」

「うんうん」

「あ、彩音ちゃん…」

半べそをかいた直が、耳を覆うようにそっと両手で栓をしているが、アドレナリン全開の彩音の声は無論貫通する。

「『あんな攻めなら最高!』以上です!」

「あー、やっぱりね」

「……え?」

攻め?と直はきょとんとするも、想定していた最悪の事態は避けられたようだ。その眼鏡の美形とやらに、彩音が本気で惚れたら勝ち目などないではないか。
とはいえ、彩音の心を一瞬でも鷲掴んでいった彼だ。現在進行形で好感触ならば、今後彼女がどんな印象を抱いても不思議ではない。

「いーなー、そんな美形ならあたしも見たかったわ〜」

「またあの辺にいれば会えるかなぁ?ふ…ふふ…」

「あ、あの、彩音ちゃん」

怪しい笑みを浮かべた彩音に、直は恐る恐る声を掛ける。ん?と振り返った彼女は普段と変わらず、あどけなくも可愛らしい。

「彩音ちゃんってその、凛と同じで、男同士の恋…」

「BL!直くん、それはBL!」

「あ、う、うん、BL…が好きなんだよね?」

「もちろん。食べることの次に好き!」

「そっか…」

直がやや複雑そうに目線を下げれば、舞い上がっていた彩音もちょっと気まずそうに謝罪を口にする。

「あ……ごめんね、直くん。引いちゃったよね。わたしもいつもは、周りに聞こえないように気を付けてるんだけど」

「え、え?」

「ほら、そういうのって嫌いな人はほんとに嫌いだし、あんまり声を大きくしちゃいけないって、わかってたんだけどね。ごめん…」

数分前と打って変わって、しゅん、と頭を垂れた彩音の姿に、直は慌てて首を振りたくった。

「ち、違うよ!引いてないから!おれ、好きなことは好きなままでいいと思うし、彩音ちゃんのこと嫌いになるわけじゃないよ!そのままで大丈夫、だから…」

「…ほんと?」

「うん」

彼女が他の男の話を楽しげにするのは、正直胸が痛まないでもないが。こんなふうに意気消沈した顔を見せるくらいなら、それがなんだと言うのか。
しっかりと目を見て、頷いて。彼女はみるみるうちに笑みを深くしていく。ああ、よかった。絶対にこっちのほうが可愛い。黙ってやり取りを見守っていた凛もほっとした様子だ。

「よかった。じゃあ、凛ちゃんと話してても、大丈夫だよね?」

「う、うん」

「ありがと。えっと、早速なんだけど」

「ん、うん?」

「今度、零先輩に抱きついてくれないかな!」

「……んんっ?」

彼女がさっきのテンションを取り戻しつつあることを、その先の危険を、直は直感的に悟った。が、全てがもう遅い。

「もちろん本妻は水川先輩だけど!スポーツマンで頼れるイケメン先輩に憧れるフツメン後輩!うーん、侮れない」

「ふ、ふつめん…」

この辺りで、堪えきれなくなった凛が顔を背けて吹き出した。おい凛、味方じゃなかったのか。

「そして怒れる本妻、水川先輩の嫉妬…!あー直くんおいしいよ、うん決定」

「決定!?いっ嫌だよ、水川先輩めちゃくちゃ怒るし零先輩にも迷惑じゃん!」

「大丈夫大丈夫、スキンシップの一環としてさ」

「無理だって!凛も止めろよ!」

「ああなったらそれこそ無理でしょ。てかあんたもさ、彩音に言いたいことはっきり言っとけばよかったのに」

夢見心地でA5スケッチブックと鉛筆を取り出す横顔さえ可愛いと思ってしまっては、直はやはり何も言えずに深くため息をつくばかりだった。



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