▼ 11.大人と子供
夕食後。
小夜の作った唐揚げをほとんどひとりで平らげた零は、デザートのドラ焼きを頬張りながら、薫の部屋でひーちゃんと戯れていた。ねずみのおもちゃは昔から好きだったはずなのだが、今は見向きもしない。猫じゃらしで運動したいようだ。
「ほれほれー」
「フニャ!ニャッ」
長い四肢を器用に操って、揺れる獲物をしっかりと羽交い締めに。と思ったら三分後にはやはり見向きもせず、机の上で毛繕いに励んでいたりする。実に気まぐれな生き物だ。
「かーおーるー」
遊んでもらいたかったのは零の方だったらしい。
ひーちゃんが構ってくれないので、真剣な顔で資料集を見つめる幼馴染の背中に抱きついた。無慈悲にも振り下ろされる厚めの本。ぐえ、と零は僅かに凹んだかもしれない頭を押さえる。
「いーだろ、ちょっとくらい。学校ではダメって言うじゃん」
「当たり前、だ」
資料集をいったん脇に置いて、桜大福をもちりとかじる。ふわふわの噛み心地と、口いっぱいに広がる芳醇な香り、そして塩気の混ざった極上の甘味。薫は瞬時に怒りを忘れた。
うんうん、と零も幼馴染のうっとりとした表情を満足そうに見守る。薫が幸せなら、零も幸せだ。
「ちゅーしたい」
唇に付着した、薄雪のような大福の粉を、ぺろりと小さな舌で舐め取る薫に。愚直にも、零は飾り気のない言葉をぶつけた。薫は目を瞠る。
「……だめ」
「えっ」
「…だめ」
「なんで!ええ!ちゅーとか、いつもさせてくれたじゃん!」
断られる可能性を微塵も考えていなかった零は、薫の両肩をがしりと掴んだ。肉が薄くて、骨も細くて、ちょっと力を込めたら簡単に折れてしまいそうな肩だ。それでも男、されど男。でも、だから、何だというのだろう。
「……子供みたいなこと、言うな」
む、と尖らせた唇はつやつや、ぷるぷるで。零が送る熱視線を受け、今にも溶け出してしまいそうだ。その唇に、頬に、自分の口を押し付けたことなんて一度や二度ではない。出会った頃からの累計なら、百でも怪しいかもしれない。
「子供じゃないもん。俺も、薫も、もう大人だから!大人だからしたいの!」
「そういうのが、子供って言ってる」
「うう。薫が変だよ、ねえひーちゃん!」
毛繕いに夢中な猫は、尻尾を揺らすばかりでこちらに構いもしない。はぁ、と零は畳に吐息をこぼした。
「なんでぇ?嫌いになっちゃったの?昔はちゅーするって言うとさ、れいだいすきーって」
「いけ、ひーちゃん」
「うえぇ!?」
猫は机からぽんと畳に乗り、座布団を踏み台代わりに、零の顔面にのし掛かった。爪を出していないところは評価するが、うっかり口を半開きにしていたので毛が混入しそうになる。
「ちょ、うおお、ひゃめて……っ」
猫の腹は撫でていて心地いいものだが、腹を押し付けられると呼吸も危うい。鼻をくすぐられている感覚も耐え難い。どうにかおもちゃを振って気を逸らし、零は畳に両手をついて咳き込んだ。
「もう、帰れ」
「やだ!ちゅーさせてくれるまで帰んないっ」
叫びながら背後を取って抱き締めると、
「大声、出すな!」
小夜さんに聞こえるだろ、と薫の赤色ゲージがまた溜まる。薫はどうしてか、小夜をおばあちゃんとは呼ばないのである。
「……一回だけ」
「ん?」
「一回だけ、許すから…帰れ」
でも口はだめ、と小声で付け足した背中はほんのりあったかくて、耳は真っ赤だった。こく、と零の喉が鳴る。
「うん…」
正面に回ろうとすると、顔を見られたくないのか薫はすすすと反対に回転してしまうので、後ろから首を伸ばして、桜大福みたいな柔らかい頬に唇をくっつけた。
「じゃ、また明日な」
零は笑っているようだった。嬉しいのか、おかしいのか、そんな顔で薫の髪をぽんぽんと叩いて、部屋を出ていく。零が襖を開けると、ひーちゃんが隙間から見送りに出ていってしまった。
体操座りのまま、薫は膝の上で組んだ腕に、熱くなった額をぽすっと乗せる。
「子供のくせに」
大人みたいなこと、するからだ。
廊下の電話がジリリンと鳴る。小夜が出ていく音もしたが、いくらもしないうちに彼女が襖から顔を覗かせた。
「薫、お電話よ」
薫はごしごしと意味もなく額を擦って、襖をくぐって長い廊下に出る。小夜がちょっと不思議そうに首を傾げていた。
周囲が続々と携帯電話を買ってもらう中、別に必要ないからと、薫はそのまま家の固定電話を使っている。そもそも電話をかけてくるような知り合いなどろくにいないので、薫宛はまず二択だった。一択は先程帰っていったので、ほとんど確信に近い。敬語で電話に出たのもそのためだ。
「水川です」
『やあ、こんばんは。もうご飯は食べたの?』
少し低めの、優しい大人の声が受話器から伝わってくる。ちょろい女の子なら、耳元で囁かれればあっという間に脳髄までとろかしてしまいそうなくらい。
ちょろくも女でもない薫は、聞き慣れたその声にこくっと頷いた。電話だけど。
「うちで、零と食べました」
『立花?いるの?』
「さっき帰りました」
『そう。相変わらず仲良しだねぇ』
いつもながら、彼の声の背後はひどく静かだった。薫は壁時計を見上げて尋ねる。
「先輩は、今どこに…」
『ん?部室だよ』
時刻は八時を大きく回っていた。
薫の不安を読み取ったのか、大丈夫、と彼は先んじて明るい声を放つ。無理をしている様子ではなかったので、薫もほっとした。
『今日は遊びに行く予定だから、寂しくないよ。部活の方はどう?』
本題は薫が予想していた通りだった。彼なりにその辺りは心配してくれているのだろう。
「見学に来ました。女の子が、ふたり」
『よかったねぇ。立花や水川のファンじゃないの?』
「ファン…?たぶん、大丈夫、です」
彩音も凛も、零に気があるようには見えなかった。そこも薫にとっては安心材料のひとつだ。自分は問題ない。ファンなどいない。少なくとも薫は本気でそう思っている。
『また来てくれるといいね。僕が言うのも何だけど、頑張って』
「はい」
『…水川、もしかして怒ってる?』
薫は慌てた。やたらと大きい受話器を、手から取り落としそうになった。
「怒って、ないです」
『立花が何かしたの?』
彼は教師たちからも一目置かれるほどに、学力はおろか、洞察力もずば抜けていた。隠し事などできるはずもないし、薫はする気もない。誰かに聞いてほしいとさえ思った。
「…あいつが、自分のこと、大人だって…言ってて。子供なのに」
ふは、と彼は受話器の奥で小さく吹き出した。感情豊かな彼もちょっと珍しい。『遊びに行く』から浮かれているのかもしれない。
『それは子供だねぇ。本当の大人は、ずっと子供でいたいと思うものさ』
「調子、乗ってる…」
『おや、水川もそんな喋り方するんだ。うん、きっと大人になりたいお年頃なんだよ。大好きな幼馴染に、かっこいいとこ見せたいと思っちゃうんだろうね』
何だそれ、と薫はむくれる。こっちは対等でいたいのだ。床に伏していた頃ならいざ知らず、リードされたいなんて、今は思っていないのに。
『大人な水川が、上手に焦らしてあげることだね』
「えっ」
『ん?』
時々、彼は本当に見透かしているのではと思うことがある。薫は思わず、きょろきょろと周りを窺ってしまった。
『見てないよ』
びくっとする。
ふふ、と楽しそうに彼は笑って、また電話するよと優しく告げた。
『うちも部員が集まるかわからないけど、もし出揃ったら顔合わせをしようね。じゃあ、お休み』
「お休みなさい」
リン、と受話器を置いて、薫は先程から足元に絡んでいた猫を抱き上げた。
「ひーちゃん、寂しい?」
ニャア、と鳴いた猫は、薫の肩に小さな顎を乗せ、玄関の方をちらちらと目で追っている。
突き放さずに、そこまで見送りに出てもよかったかな、と薫は同じ方向を見つめながら思った。やっぱり、自分もまだ子供のようだ。
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