小説 | ナノ


▼ 10.神沼 直

『ごめん。今日はおじさんのところでご飯食べて下さい』

「母さん、残業か…」

年度末から年度初めはどこも繁忙期だ。仕方ないかとメール画面を閉じて、直は坂を下りた先の分岐を右へ曲がった。

「またお菓子の味見、させらんないといいけど…」

叔母の作る食事はいいとして、和菓子職人である叔父の試作品を幾度となく食べてきた身としては、そろそろあんこの存在にも嫌気が差しそうだ。
夕日がすっかり落ちた道路は、ぽつぽつと帰宅途中の蓮華生の姿が見えるばかり。ここまで帰りが遅くなるつもりではなかったのだが。

「結局、どこもちゃんと見られなかったなぁ」

一段と眩しい、コンビニの店内から漏れる明かりをくぐって、交差点を突き進む。ついため息を落としてしまうのは、あまりにも消極的な己を今更客観視しているから。
新入生をどうにか獲得しようと、どの部活も意気込みに溢れている。そんな熱意に応えられる気概もなく、体育館の隙間からこっそりバレー部を覗いてみたりしたのだが、やっぱり自分は特にバレーが好きというわけではなかった。中学の頃は単に選択肢がなくて、憧れの先輩がたまたまバレー部だったというだけ。今では大したしがらみもない。

「こんばんはー」

和菓子本舗『名月堂』はまだ暖簾が上がっていた。そろそろ店仕舞いだろうと正面から硝子戸を引き開けると、叔父がショーケースの陰からひょいと顔を覗かせた。

「おお、直!しばらくだな、ゆっくりしていけよ」

「うん、叔父さんも久しぶり。お世話になります」

店の表側に回ってきた叔父はさっそく丸盆を腕に乗せている。う、と直は思わず後ずさったが、逃げ切れなかった。

「いいじゃねえか。おら、ひと口ひと口」

「う、うん……」

桜あんを求肥で包んだ、季節物の大福だ。売る時には、塩漬けの桜の葉を菓子の下へ敷くのだという。ご丁寧に刺された黒文字を掴んで、直は恐る恐る口へ運ぶ。含んだ瞬間に、ふわりと桜の香りが鼻に抜けた。

「うん、おいしい…」

もっちりとした求肥に、こってりした桜あんが絶妙に合う。普通の大福よりもやや小ぶりだが、満足度は高そうだ。

「おう、本当か?もっとこう、あんこを甘くしたらいいんじゃねえか?あいつがうるさくてよ」

「おれはこれでもいいと思うけど…」

と、その時。店の硝子戸がカラカラと軽快な音を立てた。

「へい、らっしゃい!おっ、水川さんとこの!」

聞いたことのある名字だ、と大福から顔を上げた直は、店に入ってきた客と、不意に視線がかち合った。

「あー!直じゃん、久しぶりだな!」

「零先輩!」

後ろ手に戸を閉めながら、零がわしゃわしゃと猫っ毛を掻き回してきた。バレー部を引退した零が中学を卒業して以来、せいぜい一年ぶりだというのに、何だか懐かしくて泣きそうになる。

「こんなタイミングで会えると思わなかったなー。って!その制服、お前蓮華入ったのか!」

「は、はい、頑張りました。家も近いし、零先輩も合格したって聞いて」

「そっかー、よくやったな。あれからどうしてたかと思ってたけど、元気そうでよかった。あっ大将、豆大福二つとドラ焼三つで!あと俺、水川家じゃないっすよ!」

お、そうだったか?などと直の叔父は首を捻りつつ、竹編みの籠に菓子を取り分けていく。

「まぁ確かに、これから水川家行くんだけどな。手土産持って」

「あ、ああ!水川薫先輩、ですね」

中学の頃から零は幼馴染の薫を溺愛していたし、周囲も、いや周囲でなくとも、認知していたと思う。直自身は薫が苦手だったが。

「そうそう。これから薫んちで会議すんの。部員をもっと集めるために、楽しそうな実験とか調べてさ」

「部員……?」

「直はびっくりするかもしれないけどな、俺、今化学部なんだぜ」

へへ、とどこか照れくさそうに笑った零に、直は信じられないような眼差しを向ける。

「え、えっ?先輩が…ですか?運動大好きで、バレー部がない日は東階段を三十往復したり、警備の人から怒られるまで体育館で自主練してた、あの先輩が…」

「なー、びっくりだよな。でもいいんだ、俺幸せだし」

はぁ、といまいち納得しきれていない直は曖昧に頷くが、そこへ大将がカウンターからほいと紙袋を差し出した。

「新作の桜大福もおまけで入れてあるからよ、水川さんとこで食ってくれよ」

「マジすか、薫も小夜さんも絶対喜びますよ。あざーす!」

どう見ても百均の小銭入れからいくらか金を取り出して、零は嬉しそうに紙袋を浚っていく。と、戸の前できゅっと止まり、直、と自分の携帯を引っ張りながら呼び止めた。

「連絡先、教えてくれよ。せっかく会ったんだし、たまには遊ぼうぜ」

「あ、はい!」

先日買ったばかりの携帯の背を合わせ、赤外線でプロフィールを飛ばす。後でメールするからな!と零は元気よく店を出ていった。

「化学部、か…」

運動一筋の零がまさかそんなものに目覚めるとは、零が蓮華に合格した時よりも意外――とは言い過ぎだが、どこかに頭でも打ったのかと心配してしまう。
恐らくは彼の愛してやまない幼馴染がどこかで関係しているのだろうと、薄々わかってはいた直だが。

◆◇◆

「たっだいまー!へへ、なんちって」

幼い頃から何度となく通った、勝手知ったる水川家だ。玄関の三和土で大声を張り上げれば、割烹着の裾で手を拭きながら、薫の祖母が台所から姿を現した。

「お帰りなさいな、零くん。お夕飯もうすぐできますからね」

「小夜さんこんばんは!お邪魔しまーす!」

スニーカーを脱いでいると、手前の茶の間から猫を抱えた薫が部屋着姿で出迎えに来た。猫はおとなしく抱かれていたものの、縦長の瞳孔で零を捉えると、腕をすり抜けて一目散に駆け出していく。

「おー、ひーちゃんも久々ー!」

ぴょんと玄関マットを蹴って、零のワイシャツに遠慮なく爪を立てて肩に乗る。フニャフニャと何やら鳴き声が聞こえるが、こいつまた来やがって、と言っているに違いない。ひーちゃんはすんすんと、物好きにも零の匂いを嗅ぎまくっていた。

「はい薫、お土産ー」

紙袋の『名月堂』のロゴを見るなり、ぱっと目を輝かせるのがかわいい。すぐさま中身を開けようとするので、こらこら、とひーちゃんを乗せたままの零は薫の手から早くも紙袋を没収する。

「先にご飯だろ。これはあーとで!」

「桜大福…」

薫は恨みがましそうに零を睨むが、このかわいらしい顔に負けて甘やかしていては幼馴染などつとまらない。

「そ、おまけでもらったの。それもあーとで!はいはい、小夜さんのお手伝いしようなー」

台所からは、シュワシュワと肉を揚げる香ばしい音が聞こえていた。



prev / next

[ back to top ]



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -