▼ 9.志を共に
「でーきた!」
ふりふりと手の中でサンプル瓶を振ると、彩り豊かな粒がふよふよと踊る。赤、黒、緑、白。彩音は満足げだ。凛も赤と黄色、青のビビッドカラーに染まったカプセルを見つめている。
「もらっちゃっていいなんて、ありがとうございます。机に飾ります」
「いいよいいよ、せっかく来てもらったんだし。あっそうだ、薫先生から解説!どうぞ」
んん、と薫は軽く咳払いをしてチョークを持った。
『・アルギン酸ナトリウム水溶液
└アルギン酸…海藻類のぬめりの元
・塩化カルシウム水溶液
└塩化カルシウム…融雪剤』
早速化学らしい単語がお目見えし、二人の興奮も高まる。
「アルギン酸は、わかめとか海藻類のぬるぬるの成分のこと。塩化カルシウムは水を吸収する力があって、雪深い土地では道路の凍結防止のために散布される。雪の水分を吸うから」
「あー、アルギン酸っていうんだあれ。あたし、あのぬめりが苦手で海藻嫌いなんだよね」
「え、そうなの?」
「うん、わかめは何とか食べれるけど」
薫は文字で式を書きながら、説明を続ける。
『アルギン酸ナトリウム+塩化カルシウム→アルギン酸カルシウム(不溶性)+塩化ナトリウム』
「アルギン酸ナトリウムと塩化カルシウムが反応すると、ナトリウムとカルシウムが入れ換わる。その時にできるアルギン酸カルシウムは不溶性の物質で…水溶液に溶けないよう、落ちた雫は表面に不溶性の膜を作る」
雫に見立てた円をくるりと描き、それより一回り大きい円を外側に描く。この内外円の間が不溶性のゲル膜だ。
「さっき触ってわかったと思うけど、この膜はゲルになってる。ゲルは、正確に言うと繊維同士が絡み合ってる状態。軟らかい」
とん、とチョークを置いて、わかった?とやや心配そうに、薫は小首を傾げる。かわいいよぉ!と絡み付いてきた零を蹴とばして、手際よく器具類の洗浄を始める。
「んーと…水に溶けない物質が、溶けないぞ!って表面をゲルにするから、こうして丸くなるってこと?」
「うん、そんな解釈でいいんじゃないかな。丸くなるのは、抵抗を抑えるために表面積を最小にしてるって聞いたことあるけど」
ふわあ、と彩音は握った両手を上に突き上げて背伸びをする。
「すごい勉強した気分。ああ、お腹すいたぁ」
「もー、あんたねぇ。あっ、立花先輩。あたしたちもこの機にいろいろ部活見てみたいので、明日ってわけにはいかないんですけど…また来てもいいですか?」
もちろんだよ、と零はにっこりと笑う。
「俺たちもそりゃ、入部は大歓迎だけど、すぐにってわけにはいかないだろうし。薫にはまた違う実験用意してもらうからさ、いつでも来てよ」
部活見学の期間はあと二週間ある。それまでならいつでも入部届を出せるが、その時点から入部と見なされるため、見学するのであればできるだけ後に提出した方がいい。
片付けを終えた零は付け加える。
「あと、俺は『零』でいいよ。名前の方が慣れてるんだ」
「わかりました、零先輩。水川先輩も、今日はありがとうございました。失礼します」
「ありがとうございました!」
二人揃ってぺこりとお辞儀すれば、薫は胸の前で小さく手を振った。じゃあね、と零も入口まで後をついてくれる。
「そろそろ暗くなるから、気を付けてなー」
見送りの挨拶を背中に受け、はーい、と二人は今一度腕を振ってその場を離れた。
「どう?」
「うーむ、わたしは正直…もう決めちゃってもいいかなって思った」
夕闇に紛れた正門を出てから、二人は下り坂をのんびりと歩いていく。あの場で言えなかった、率直な感想をぶつけ合うために。
「水川先輩は口数少ないけど、優しいし、何よりかわいいし。零先輩も親切だし、一途っていうのがわかって安心したかな。凛ちゃんは?」
「うん、異論なし。あたしも、他によっぽど心惹かれる部活がなければここにするかな。今日はお試しってことで、いちゃつきっぷりもサンプルって感じだったけど、フルで見てみてそれで良ければ入るわ」
「でもぉ、初対面のわたしたちの前であれだけいちゃいちゃするなら、二人きりだとすごいのかも…俺たち結婚するんだし、いいよね…?みたいな…」
「ひー、やめてよ、寝らんなくなるわ!」
「えっへっへ。明日はどうする?」
「んー、あたしは気になってるとこ行ってみる。陸上も一応見るし、運動系ぐるっと見て、写真部と演劇部も覗くかな」
「わたしも美術部と合唱部行くから、明日は別行動だね」
坂を下って道が平地になると、駅の北口はすぐそばだ。凛はいつも駅構内を抜け、南口のバスターミナルからバスに乗って帰っている。駅の裏に自宅がある彩音とはここで別れるのだ。
「うん。あ、彩音。そういえばあんた、ホムペ持ってんの?」
「ふぇっ」
別れ際、唐突な一言に思わぬ声が洩れてしまった。ははーん、と凛はにんまりしながら肘で胸を小突く。
「あるんじゃん、教えてよ」
「ひい。っていうか胸はやめてよぉ、セクハラー!」
「ほらぁ、早く教えないと公然セクハラになるわよー」
「もー!…でも、まだ作ったばっかりなんだよ。わたし、携帯買ってもらったのほんのちょっと前だし」
今ではガラパゴス携帯と呼ばれるそれも、スマートフォンの普及があったからこその呼び名だ。この頃、ガラケーはまさしく携帯電話であり、多くの家庭は高校生、早ければ中学生からそれらを買い与えていたと思う。
現在、廃れつつある個人及びコミュニティの携帯ホームページも、全盛期はオタク活動に励む者が一度は通った道と言ってよかった。
彩音はスライド式の携帯を手に、ディスプレイを凛の眼前に持ってくる。『Pretty World』というサイト名と、お馴染みの『info』『memo』といった典型的な項目が並ぶ。
「かわいい世界?」
「まだ仮だもん。かわいい受っこがいる、かわいいBLの世界観を目指してます、っていう……ああ!笑ってるー!」
「ご、ごめんごめん。でもいいんじゃない、あんたっぽい」
「凛ちゃんは?作ってないの?」
凛も自分の折り畳み携帯――ぷよウサギはまだぶら下がっている――をぱかっと開き、どうしようかな、と呟いた。
「あたしも作りたいなと思っててさ、参考にしたかったの。ほら、いろいろあるじゃん。フォレストとかリゼとかエムペとか。うーん…ね、嫌だったらいいけど、それ一緒に運営しない?」
「えっ。いい、よ?」
彩音が驚きつつも凛の提案を受け入れると、疑わしげな凛に念を押される。
「ほんと?」
「う、うん。えへへ…あっでも、かわいいの、だからね!」
「りょーかい、コンセプトは壊さないようにするから。あたし、彩音みたいに絵描けないけど、文字なら何とかするし」
同志と共同でホムペを運営する、というのも、コンテンツをサイト上で披露してきた者ならば一度は経験したことだ。
「じゃあ、後で共同運営者に登録しとくね」
「ありがと。あたしはタグの勉強しとくわ、デザイン凝りたいし」
確かに凛ならサイトデザインにはこだわりを持ちそうだ。もちろん、元は彩音のサイトなのだから、遠慮せずに意見は推していくつもりだが。
「かわいくしてね。プリティだよ!」
「はーいはい。じゃね!」
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