春夏秋冬の名を冠して存在している偉大なる航路の島々の中で、名前は春島が一番好きだった。四種の中で一番穏やかな気候であり、何か特別な装いの準備をする必要もない。太陽の光が暖かに船の甲板を照らし、日向ぼっこをするには最適な穏やかな風が流れている。堂々とあぐらをかいて昼寝をしている剣士も、いつもより眉間のしわが薄いように感じられた。

「ぽかぽかだなぁ」
「そうだね」

チョッパーの言葉に、名前も頷く。目尻を垂れさせ、幸せを体現したような表情に思わず一緒に笑って、その小さな体躯を抱き上げた。チョッパーは一瞬だけ目を丸くしたものの、この船の女性たちが彼を抱き上げるのはそう少なくないことであった。すぐに彼の興味の矛先は、高くなった視線の先にある島に変わり、「見ろ名前、島だぁ!」はしゃいだ声をあげる。

その声に名前はまた同じように相槌を返したが、その声は先ほどのものよりもくぐもったものであった。

「う゛ん。そうだね゛チョッパー…。あー、おひさまの匂いがする。最高」
「うわ゛っ!何すんだー!くすぐったいぞ!」

チョッパーの体を顔面の先に持ってきた名前は、そのまま顔をチョッパーの背中に押し付け大きく息を吸う。人間の滑らかな肌とは大局的な獣の体毛が鼻腔をくすぐって、えも言われぬ匂いを感じる。チョッパーの体に隠れているものの、今の名前の表情は先ほどのチョッパーのように目尻が垂れ下がっただらしない表情になっていることだろう。暴れる小さな体を押さえつけて、すうはあと息を荒げる様は、相手が相手なら訴えられてもおかしくない状況だった。

「名前ちゃん!俺もきっとお日様の匂いがするよ!」

そんな一匹と一人の攻防に割り込む男が現れる。普段はかっちりと留められているボタンを外して、目の前の女性を迎え入れるように胸元を広げているのは、この船のコックであり、無類の女好きである。

「俺の胸の準備ならいつでも出来てるのさ、レディ…」
「間に合ってる」
「う、ツレねぇ名前ちゃんも素敵だ…」
「サンジー!!」

すげなく断られたサンジは膝をつき、目に涙を浮かべながら外したボタンを留める。その様を見てさらに泣きそうになるチョッパー。しかしやめない名前。目を覚ましたゾロから「何してんだお前ら」と突っ込みを入れられるまで、その光景は続いた。



ログの溜まる日数、街の情勢、周辺の海域についてなど、島にたどり着いた海賊たちにとって必要な情報は多い。情報収拾のために酒場に入るのは定石であったし、酒が入っている人間たちの口の軽さはどこも同じだった。名前とサンジは街の散策すがら、目についた酒場に入る。春の日差しが差し込む街は、表通りは確かに穏やかなものであったが、その日差しも届かないような場所はその限りではない。自らの筋肉を誇示するかのように薄着の男、反対に装飾品を見せびらかすかのように身につける男。様々な男の目線が店に足を踏み入れた二人に向く。サンジは自分より一歩手前にいる名前を守ろうと警戒を強める。しかし、そんなサンジの思いも知らず名前はずんずんと店の中を進み、カウンターにいるマスターに話しかける。その姿を見て、強気な女性もイイ…!と恍惚と一瞬我を忘れるが、自分の役割を思い出してすぐに名前の元に向かう。

「お嬢ちゃん、酒飲みに来たのかい?」
「いや…」

しかし、それより先に、カウンターに座っている男が名前の腕を無遠慮に掴む方が早かった。名前よりもサンジよりも随分年上の男だった。のこのこと乗り込んで来たカモを逃さない、とでも言うように力は強く、見上げられているにも関わらず立場は逆に感じられた。「まぁ座って」目線の高さを無理やり合わせられ、男との距離が近づ……いたのは一瞬のことだった。

「てンめぇ!」

闘志に燃えるボディーガードが男を蹴れば、店中に大きな音が響く。男が床に打ち付けられる音、グラスが割れる音、人の悲鳴。

「…サンジくんってせっかちだよね」
「名前ちゃんが汚ェ野郎どもに触れられるのを見過ごすくらいなら、俺はせっかちでいい!」

名前は過剰に思えるサンジの防衛にため息を吐いたが、ドン!と堂々と立つサンジの姿を見て、すぐに何を言っても無駄だと理解する。

「わかったから。一回出よう。やっぱり酒場っていい匂いしないや。あのおじさんも、なんか臭かったし」
「なんだとあの野郎!やっぱ許せねえ!」

暴言を吐かれた男はすでに地に伏し、返事もできない状態なのだが、愛しの女の子が気分を害されたというだけでサンジにしては立派な敵対象のままである。名前に手を引かれ、店の出口を通るまで睨み続ける。その視線は憤怒が込もったものであったが、ふと、サンジの目にとあるものが止まってから、その熱は引いていった。それは男の足元に落ちている煙草の箱であり、恐らくは男の胸元から飛び出したものだろう。

中身が十分に詰まったそれは、サンジが吸っている銘柄と全く同じものであった。

「くさい、って…」
「?」

店の外を出てから、サンジは自分の袖の匂いを嗅いだ。自分では強く感じられないものの、確かにそこにはいつも吸っている煙草の匂いが染み付いていた。当然のことだった。

俺は別に嫌じゃない、けど名前ちゃんは……。そういやチョッパーをお日様の匂いといって気に入ってたし、もしかして煙草の匂いが嫌い?現にあのオッサンのことを臭いって、っつーことは同じ煙草吸ってる俺のことも…。
ひとりでに思考は進み、サンジは頭を抱える。

「サンジくん、どうしたの?」
「…悪ィ名前ちゃん、煙草買い足して来ていいかな…」

先ほどまでと打って変わって落ち込む姿に、名前は戸惑った。

「い、いいけど。スットクないの?」
「いや、あるにはあるんだが、せめて銘柄を変えようかと…」
「今のやつ、飽きちゃったの?」
「いや、飽きたってわけではないんだが…」
「じゃあなんで?いい匂いだったのに」
「いや…え?」

え?
サンジはきょとんとした名前の顔を見る。うん、今日も名前ちゃんは可愛い。違う。今はそうではない。よぎる思考を振り払う。

「で、でも、名前ちゃん、煙草の匂い、好きじゃないだろ?」
「っえ、別にそんなことないけど…」

名前はサンジの袖を掴んで、そのまま引き寄せる。くん、と鼻を鳴らして匂いを嗅ぐこと数回、「うん、別に」と。

「いいと思うよ、普通に。サンジくんの匂いって感じで」
「俺、さっきの男とおんなじ煙草吸ってたんだけど…」
「…ほんとに?」

個人の体臭があるものの、同じ煙草を吸っているということは、少なからず匂いは似通っているはずだ。なのに目の前の女の子は、自分の匂いをいい匂いとすら言う。サンジの顔に熱が集まり、瞳に愛が溢れるのがわかる。

「それってつまり…!名前ちゃんが俺のことが好きってことなんじゃねぇか…!!??」

あの男と俺の差、それは名前ちゃんからの愛!!!!!

急速な思考回路の果てに見出した答えを、サンジは名前を抱きしめる形で体現する。袖元にあった名前の顔の前にはいつの間にかサンジの胸板があり、先ほどよりもより強く、サンジの匂いを感じる。

「………っ!!サンジくん!こら!何すんの!」
「いてぇ!けど俺は身をもって感じている。名前ちゃんからのラヴを…!」
踵でサンジの足をぐりぐりと押せば、痛みに耐えかねてサンジは名前を腕から解放した。まったく、と名前はそっぽを向くが、その顔は赤く、春の緩やかな風ごときでは冷えるものではなかった。

「俺も名前ちゃんの匂いが好き、というか名前ちゃんが好きだ!!!」
「また調子のいいことを。絶対ロビンとかの方がいい匂いするし」
「ロビンちゃんの匂い!?詳しく教えてくれ!」
「きもちわるいよ、サンジくん」

構ってられないように早足で歩く名前にサンジがついていく。

後日、サンジの煙草の本数が増えたと噂されるも、ヘビースモーカーが今更では、と名前はサンジの思惑に気づくこともなく日を過ごした。




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