かまっ子倶楽部という場所に行くのは、私にとってそう緊張することではない。既に数回訪れているし、キャストの皆さんも私によくしてくれている。常連、とまでは行かないだろうけど、入学式の日に校門をくぐるようなドキドキ感というものはない。
しかし、いやしかし。
私の胸の鼓動はとても速く、身体が火照っているような感覚がある。ふぅ、と気を落ち着かせるために息を吐くものの、気休めにしかならない。私は手鏡で自分の姿を今一度確認して、乱れていた前髪を直す。自分の服装はおかしくないか、どこか崩れているところはないだろうかと、過剰なまでに確認をする。
「ど、どうしよう。リップ塗り直そうかな…」
「何やってんの?」
「ッヒ………!!!!」
手鏡を凝視する私に、頭上から声がかけられる。その声に、思わず身体が固まる。
と、同時に唾液が気管に入り込んだ感覚。
「ぐ、っけほ、ごほ!ん、んん、っげほ!」
「オイオイ何?!大丈夫かよ、ほらヒッヒッフー」
「なんでラマーズ法?…けほ、だ、大丈夫です。むせちゃっただけなので」
私は今一度こほん、と呼吸を整えて。
声をかけてくれた人物を見る。ふわふわの銀髪を2つに結び、ピンクのアイシャドウにリップ、そしてピンクの着物を着こなしているその人物は、ここ数ヶ月、私が会いたかったと焦がれていた人物で間違いない。
「ありがとうございます、パー子さん」
「ハイハイ、どーもォ」
とりあえず入んぞ、とパー子さんは私に入店を促す。私はそのまま彼女についていき、店に入れば、2人で入店する私を見てアズ美さんがウィンクをしてくれた。よく見れば親指を立てている。「やったわね」という声が聞こえそうなその仕草に、私も手を振ることで応える。
座卓に座ったパー子さんに続いて私も座る。真横に、パー子さんがいる。別に仕切りがある個室というわけでもないのに、何故だか2人きりの空間のようにすら感じる。未だにドキドキとする気持ちを押さえつけながら、私はパー子さんに話しかける。
「な、に飲みますかパー子さん」
少し上ずってしまった声に恥ずかしさを感じるが、パー子さんはさして気にしていないようだった。彼女は相変わらず気だるそうに「まァ生とかでいいんじゃない、最初だし」と言った。
「わかりましたドンペリですね!すいませんアズ美さんドンペリで!」
「いやわかってないわかってないよね?!いつドンペリつった?何でキャバクラの洗礼を逆の立場で受けてんの俺?!」
こちらを見ていたアズ美さんに腕を上げれば、横からがしりと掴まれる。「ちょっと待て」とパー子さんは私の腕を無理やり下げる。
「何で急にドンペリなんつー話になったんだよ。俺ァ別にぼったくり酒飲ませに出勤したわけじゃねぇぞ」
「いや、気持ちというか…。私パー子さんには本当に感謝の気持ちでいっぱいなんです。だから少しでも恩返しをしたくて!」
「恩返しィ?なんの。そもそも何でお前俺のこと探してたワケ?飲み潰れた記憶くらいしか−」
「受け取ってやんなさいよ」
どん、と目の前にドンペリとグラスが置かれる。そのまま視線を上げれば店主である西郷さんがいた。
「この子ずっとアンタに会いたい会いたいってねぇ、ここにもよく顔出しに来んのよ」
「マジかオイ。お前ベリーハードなのはゲームの中だけにしとけってあれほど言っただろ。現実でハマっちゃうと中々抜け出せない゛ッッ!!」
「ベリーハードにされたいならそう言いなさいよォ、パー子」
「ベリーハードにされるって何!?」
西郷さんがパー子さんの頭を片手で掴んでいる。みしみしという音が聞こえそうなほどの力に、パー子さんは顔を歪める。その様子に私は戸惑うことしかできない。西郷さんの力が尋常でないことは私も知っている。お客さんを投げ飛ばすところを何度も見たし、思えば初めてパー子さんに会った時に彼女に酒瓶を投げつけたのも西郷さんなのかもしれない。
「さ、西郷さんっ。その辺で…」
「あらァ、そう?アンタも優しいわね。パー子なんてミロでも飲ませときゃいいのよ」
「ふざけんな。せめて年代物か生まれ年のミロにしろ。あの茶色のダマひとつ許さねえからな」
年代物のミロってどういうことだろう。というか生まれ年って、パー子さんは果たしておいくつなのだろうか。そう気になったが、年齢を聞くのは失礼にあたる。私はおとなしく口を閉じた。
「とにかく気持ちは受け取ってやりなさいよ。それと…もう少しお上品に話しなさいな、パー子」
「………ハーイママ。わかってる、わかってるわよー…」
一度緩んだ力が頭にまた戻ってきたのか、パー子さんは顔を青くしながら西郷さんに返事をする。それを聞いて満足したのか、「それじゃァね」と西郷さんはこの場から去っていった。
「そういえば、」
「いっつつ……ナニ? 」
「あの人もいつもいらっしゃらないんですよね、私をここに連れてきた人」
「あー…ヅラ子ね」
「ツートップってお聞きしました」
「いやもう別れたわ。方向性が違うのよ。ビアンカかフローラかって話のときにデボラはないでしょ」
「はぁ」
グラスにドンペリを注ぎながら言うパー子さんに、私は曖昧に頷く。
ヅラ子さん。あの日客引きとしてこの店に私を連れてきたあの人にも、お礼が言いたいと思っていた。確かにちょっと変な人ではあったけれど、彼女が無理矢理にでも私を店に連れ込まなければ、パー子さんとの邂逅もなかっただろう。しかし、どうやらヅラ子さんもパー子さんと同じく出勤は極たまに、あるかないかといった具合らしい。確かにかまっ子倶楽部にいるにしては美丈夫すぎるというか、周囲と毛色が違うのは感じていた。本業は別にあって、たまのバイト感覚で働いていたのかもしれない。
「残念です。ヅラ子さんにもお礼を言いたかったんですけど」
「お礼お礼って、さっきから何のこと?私覚えないんだけどー。しこたま飲んでママに翌朝蹴り飛ばされた記憶しかないんだけど」
「…パー子さんが仕事をやめるって選択肢をくれなきゃ、今の生活はなかったと思いますから」
そう私が言うと、ようやく合点がいったのか、彼女はあぁ、とひとつ頷いた。私はパー子さんにいかに感謝をしているかを伝えるべく、身振り手振り説明する。
「パー子さんは軽く言っただけかもしれませんけど、私はすごく助かったというか、すごく感謝していてですね、」
「まぁでも、違ぇだろ」
私の言葉は、すっ、と差し出されたシャンパングラスによって遮られる。色味がかった透明の液体が中で小さくしゅわしゅわと泡立っている。私は驚いてしまい、言葉が喉に詰まった。大げさに振るっていた身体を縮こませ、おずおずとグラスを受け取れば、パー子さんは意地悪そうな笑みを浮かべた。
「私はあの日、ただ酒かっ喰らってたら辛気臭い顔が見えたモンだから愚痴溢しただけよ」
結局選んだのは、アンタでしょ。
かん、と軽い音が聞こえた。私のグラスとパー子さんのグラスが合わさった音だ。カンパーイ、と抑揚のない声で号令をすれば、パー子さんはぐびぐびとお酒を飲んだ。
「ま、今夜もただ酒はありがたく頂くけどよ」
「は、はいッ…!」
私も一口。グラスに口をつける。ちらりとパー子さんを見れば「安酒のがいいかも」と呟いていて、私の感想と全く同じで思わず笑ってしまう。パー子さんはビールや日本酒が好きなのかもしれない。あの日横取りしてしまったおちょこの中も日本酒だった。
アズ美さん、すいません。
私はまた注文をするために腕を上げた。
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