「何をふてくされてるの、そーちゃん」

名前の目の前には、畳にうずくまる沖田がいた。小さな体を丸めているその姿は、赤ん坊のようであった。

「…道場行きたくない、ムカつくヤツがいるから」
「あぁ、何だっけ。ミツバも何か言っていたなぁ…とうしろうさん?だっけ、なんだっけ…」

最近ミツバからよく聞く男の名前はとうしろうといった。どんな漢字を書くのかもわからなかったが、道場の新入りであること、沖田とは喧嘩をしてばかりなことなどを聞いていた。

「名前さんは…」
「ん?」
「名前さんは、道場に来ませんよね」

沖田は丸くなったまま、名前に質問をした。沖田は道場で稽古をする一員であり、ミツバはその姉である。2人は道場によく行っていた。だが名前は一度も道場に足を運んだことはなかった。沖田やミツバから話を聞くだけである。

「そりゃあ、私は関係者じゃないし、人見知りだもの。男の人たちと何を話せばいいかなんてわからないし」
「…うん」
「私は、…ミツバとそーちゃんがいたら楽しいよ」
「…うん」

そう言うと、沖田は立ち上がった。そしてそのまま名前の横を通り過ぎた。「稽古はじまるから」と、すれ違いざまに言った。名前はその横顔を見て、「がんばれ」と手を降った。



名前が江戸に来てから、気温は上がる一方だった。今日も真夏日だった。空には雲はなく、日差しがあたりを強靭に照らしている。名前は公園のベンチにうなだれるように座っていた。日用品の買い物の帰りだった。あまりにも暑いので、自販機で飲み物を買って一先ず座ろうと思っていた。ベンチの端は木陰になっていたため、そこに座ったが、正直#n名前#には暑さの違いなどそこまでわからなかった。買ったミネラルウォーターも買っただけで、蓋すら開けていない。

このまま溶けてしまいたいなぁ。
そう思った。この日差しが私の肌を溶かし、いずれ蒸発されて自分は天に登るのだと。そうすればミツバに会えるかもしれない、と。

名前にとって、沖田ミツバという女の存在は忘れたいものであった。かつての親友のことを思い出すたびに、もう彼女はいないという孤独感に襲われた。虚無感や絶望感と言ってもいいかもしれない。ミツバが亡くなったという知らせを受けたからというものの、武州の道を歩くたびにミツバを思い出した。ああこの道は彼女とよく歩いた、あそこでそーちゃんは転んだんだった。思い出は数え切れないほどあった。ひとり娘であった名前にとって、兄妹というものは憧れだった。ミツバと沖田と仲良くなってから、本当の家族のように日々を過ごした。おかげで他に友達という友達はできなかったが、両親も幸せそうな娘を見て何も言わなかった。それどころか、ミツバちゃんに、と野菜を持たせてくれるくらいだった。ミツバが名前の家に行くことはそうなかったが、名前は毎日のように沖田家に遊びに行った。あの武州の空の元にいた頃、確かに2人は親友だった。

そんな日々の中で、沖田を含む道場の皆が江戸に行く、という知らせは名前にとって喪失を感じさせるものであった。沖田から嬉しそうに「近藤さんたちと、江戸に行くんでさァ」と言われたときは、一瞬で身体を冷えるのを感じた。身体が固まった。沖田が江戸に行くということは、必然的にミツバも武州から去るということになるのではないか、とすぐに思考が辿りついたからである。両親をはやくになくした沖田家にとって、沖田ミツバは沖田総悟の親代わりといってもよい存在であった。

それになにより、ミツバの想いが名前ではない他の人間に向いていることに気づいていた。決して名前をないがしろにしているわけではない。それでも、友愛とは違う恋慕の感情を、「とうしろう」という男に抱いていることは、話を聞いていてすぐにわかった。

とうしろうさんはお蕎麦にマヨネーズをかけるのよ
ぶっきらぼうだけど、すごく優しい人よ
いつか名前ちゃんにも会ってみてほしいなぁ

そう言うミツバの顔は幸福感に溢れたものであった。しかし、彼女の言うように名前ととうしろうが邂逅することはついぞなかった。何かと理由をつけて道場に行くのを名前が避けていたからである。今自分の横にいるミツバが、自分といるよりも幸せそうな顔をして男と話しているのを見たくなかったからである。名前は激しい嫉妬を覚えていた。名前にとってミツバは親友であり、決して恋人になりたいなどとは思っていなかった。けれど、それでもずっと一緒にいたいと少女ながら思っていた。身体が弱いミツバを支えるのは自分だけで良いと思っていたし、彼女を看取るのも自分だけでよいとすら思っていた。だからこそ、突然現れミツバの心を奪ったとうしろうに対して、激しい怒りを感じていたし、ミツバに関しても少しの失望に近い気持ちを抱いてしまった。

「そーちゃんと一緒に、私も江戸に行きたかったのだけれど…」

だが、最終的に、ミツバが江戸に行くことはなかった。想いを伝えたミツバはとうしろうによって拒絶されたらしい。名前は無理に笑うミツバを懸命に慰めた。大丈夫だよ、一生の別れなんかじゃないんだから。ミツバが去ると思った自分にこそ向けるべき言葉であったが、その頃の名前にはそんなことを思う器量はなかった。

「…きっと、私の身体を案じてくれたのね。あの人は、優しい人だから」
「…大丈夫だよ。たくさん手紙も出そう」
「…そうね」
「それより、今日は早く休んだほうがいい。肺に触ったらいけない」
「えぇ、ありがとう」

名前がミツバに布団をかける。それじゃあ、と声をかけて、そのまま部屋から出た。襖を閉めてから、拳を握った。ミツバは江戸に行くことなく、武州に残る。その事実に、嬉しいと感じてしまった。これでずっとミツバと2人でいられる。だが、ミツバは悲しんでいる。彼女はきっと、身体が壊れても一緒にいたかったのだろう。そう考えて、名前は自分が抱いている気持ちがただのエゴだと、ようやく気付いた。


道場の皆が江戸に向けて発ってからは、名前はより一層ミツバの身体を気にかけた。沖田が真選組に入隊してからは、仕送りがミツバの元に届いた。そのお金で、ミツバは肺の治療を続けた。しかし、その身体が健康に向かうことはなく、毎日を徐々に衰弱しながら過ぎていた。

「江戸に嫁ぎに行くわ」

名前が大きな喪失感に襲われたのは、二度目だった。江戸の商人と結婚する、と言ったミツバはやはり幸せそうな顔をしていた。そして名前を見て言った。

「名前ちゃんも…江戸に行く気はない?そーちゃんも、きっと喜ぶわ」

微笑むミツバに、名前はぎこちない笑みを返した。
名前は自分の気持ちの危うさに気付いていた。自分がこのまま江戸に行って、ミツバの側にいれば、彼女を縛ることになってしまうかもしれない。彼女は幸せになろうとしている。病気の身でありながら、結婚という女の幸せを感じようとしている。その気持ちを、自分のくだらない嫉妬心で壊すわけにはいかなかった。

「わた、しは…行けないよ」

そう言えば、ミツバは悲しそうに「そう」と言った。大丈夫、手紙とか、出すしさ。そう明るく名前は言った。

ミツバはそう長くない。ミツバと共に病院に行く名前は、そのことを知っていた。もしかしたら、ミツバは江戸に行って、そのまま死ぬかもしれない。手紙を出す、と言ったのは返信を貰うことで、ミツバが生きていることを鮮明に感じたかったからである。

名前が初めてミツバに手紙を書いたのは、ミツバが江戸に発つ前日であった。そしてそれを、見送りの際に渡した。

「まぁ、ありがとう」
「いや、今開けないでよ!?」

御礼を言いながら封を開けようとするミツバを止めた。

「江戸について、落ち着いたら読んでよ」
「わかった。必ず返すわ」

ミツバは手紙を顔の前に持ち上げて、ふんわりと笑った。君が憎いです、とまで書いた自分でも失礼な手紙だとは思っていた。しかし名前は、その手紙を読んだミツバがキョトンとした顔で「どういうこと?」と返信をくれるのを待っていたのだ。「私、何か名前ちゃんにしたかしら」と不安な顔をさせてしまっても良いとすら思っていた。とにかく、ミツバが生きてくれれば良いと思っていた。

しかし、ミツバからの返信はついぞ一度もなかった。

ミツバちゃんが亡くなったらしい、と名前が聞いたのは、丁度郵便箱に手をかけていたときだった。


「…おねぇさん、こんなあちぃ日に水も飲まずにいちゃ、熱中症になっちまいますよ。チューペットでも買って来ましょうか。昔はよく姉上と分けたんでさァ」

頭上から聞こえた声に、名前は顔を上げることはなかった。





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