「姉上ー!ただいま帰りました!」

元気な少年の声が、二人の女の耳に届いた。

「あら、そーちゃんが帰って来たみたい」
「本当だ、そーちゃんお帰り!」
「名前さん!来てたんですね!」

そーちゃんと呼ばれた少年は2人の顔を見て顔を明るくさせた。その様子を見て、同じように女たちも笑顔を見せた。

「そーちゃん傷だらけだ。道場、今日も大変だったんだねぇ」
「手を洗ってきなさいな、そのあとに絆創膏貼りましょう」
「はい!」

少年はぱたぱたと走っていった。彼の身や顔には擦り傷がたくさんあったが、その元気は未だ潰えることはなかったらしい。ぱたりと本を閉じる音が部屋に響いた。外を見れば夕焼けが綺麗に見えた。目を細めても感じるその景色に、名前と呼ばれた少女は穏やかな笑みを浮かべた。




都会と田舎の夏は違うのだと感じた。
名字名前の地元の武州は、この発展し尽くしている江戸に比べれば言い訳のしようなくなく田舎だ。その上名前の実家が農業を営んでいたこともあり、身近に広大な自然があった。暑さはもちろんあったが、通る風は澄んでいたし、水辺にいけば涼やかさを味わえた。しかし今いる江戸はどうだろう。立ち並ぶ高層ビルの間に流れる空気は篭り、蒸し暑さが循環している。むわっとする、と表現できる江戸の夏に、上京してきたばかりの名前は慣れることができなかった。

叔母の経営する古本屋の手伝いに江戸に行ってほしい、と両親から頼まれたのはまだ太陽が優しい春の頃だった。名字の叔母は一人で本屋を営んでいた。嫁に行くことなく江戸で一人住まいをする姿に父親は苦言を呈していたが、名前からすれば自分の好きなものに囲まれている生活は憧れだった。叔母から送られてくる本に幼い名前はいつも心を躍らせていた。そんな叔母が、仕事中に本棚の下敷きになり助骨を数本折ってしまったらしい。全治は三週間ほどで、命にも別状はなかったが、若いとは言えない状態で一人で生活するのは厳しいものがあった。そこで白羽の矢がたったのが、実家の手伝いをしている名前だった。本好きで叔母との関係も良好、江戸に行くのも経験だ、と両親は言った。20を過ぎる年齢の娘の人生を地元に留まらせ続けるのは、前々からいかがなものかと考えていたらしい。そのまま江戸にいてもいいし、戻ってきてもいい。両親の思いやりによる自由な選択肢に、ありがとうとお礼を言ったが、正直江戸に行くことはためらわれた。

江戸には、名前の会いたくない人間が住んでいたからである。向こうはこちらのことなど覚えていないかもしれない。すれ違ったとこで、目線も合わないかもしれない。けれど名前にとっては、その人間の顔を見るだけでも避けたかったのだ。陰鬱な気分を抑えながら江戸に行くことを了承した。自分が行かねば叔母が困ってしまう、という一心だった。


あつい、あつい。
じんわりとにじむ汗は、今さっきのものではない。ずいぶん前、というか、今から考えれば仮住まいの叔母の家から出た瞬間に溢れていたものではないかと考えた。汗を拭こう。そう思って手提げ袋からハンカチを取り出した。そして額に向けて手を動かす。

しかし、その手が額に届くことはなかった。ハンカチが地面に落ちるのが視界の端に見えた。腕を掴まれた、と理解したのはそのときだった。

「…名前さん、ですよね」

確信を持った言い方だった。名前にとって聞き慣れた声ではなかったが、話しかけて来た男が誰なのかはすぐにわかった。わかってしまって、振り向けなかった。雑踏も蝉の鳴き声も、夏の暑さもどこかに行ってしまったようだった。寒気すら感じた。何も喋らない名前を見て、男は腕を話した。落ちたハンカチを拾って「すいやせん」と謝った。そこでようやく、名前は振り向いた。男の顔を見て、とうとう世界から切り離されたのではと思うくらい、自分と男しか認識できなかった。

「覚えてやすか?昔…武州で、姉上と俺と名前さんでよく遊びましたよね。総悟です、沖田総悟。名前さん、江戸に来ていたんですね、教えてくれれば「ひ、人違いじゃないでしょうか」

沖田総悟と名乗った男の言葉を遮る。差し出されたハンカチを乱暴に受け取って、名前はその場から走った。この暑い中、外聞もなく走る女など、通行人からすれば奇異なものであろうが、今の彼女にそんなことを考える余裕はなかった。足が止まったときには、汗が止まらなかった。地面に水滴が落ちる様を、黙って見た。
名前は沖田の顔を思い出そうとした。だが、考えてはいけない、あの顔を思い出すなという思いが邪魔をする。あの顔は、本当に似ていた。あの大きな目も髪色も。一目見れば、わかってしまう。間違いなく、あの女と兄妹だと感じた。

沖田ミツバ。
沖田総悟にとっては姉であり、名前にとっては親友だった。
しかし彼女の姿は江戸にはない。それどころか、この世にもいない。彼女は肺を患い、既に他界しているのだ。

嫌な気分だった。亡霊を見てしまったと、そう思った。




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