ラーメンが食べたかった。
だからラーメン屋の戸を開けたのだが、その先にいた人間の顔を見た瞬間に、自分の欲は失敗を招いたのだと思った。私がどうしようかと百面相しているように、向こうも多少は困惑しているらしい。食べていた蕎麦は啜られることなく、微動だに動かない。動きが止まっているその人物は、昔と変わらず端正な顔立ちだった。彼の黒髪は男では珍しい長髪だったけれど、そのサラサラな髪の毛は女の私でも羨ましいと思っている。
「入らないのかい?」
女店主が入り口で立ちすくむ私に声をかける。優しい声だった。思っていたより若い風貌の女店主に「ああ、すいません」と一言述べて、私は店に入った。
「っよ、桂くん、久しぶり、元気してた?」
「むぐッ…貴様、ズルル何故ズル江戸に」
「行儀悪すぎじゃん、それでも武士かよ」
蕎麦を食べている長髪の男、桂小太郎と一つ席を空けて、カウンターに座る。何も喋らず気まずい空気を流れるというのも、女店主が困ってしまうだろう。そう思い、私は、久々に出会った友人に挨拶をしたのたが、帰ってきたのは随分お粗末な挨拶だった。軽いツッコミを入れてから、私は「オススメのラーメンください」と笑顔で女店主に言う。彼女は一瞬驚いた顔をして、すぐに「りょーかい」と私達に背を向けた。
「高杉も江戸にいるのか」
「いないよ。地球にはいると思うけど」
蕎麦を啜り終わった桂くんが私に話しかけてくる。私は頬杖をつきながら彼と目線を合わせる。桂くんも私を真っ直ぐに見つめていた。
「私が個人的に、ラーメン食べたくてはるばる江戸まで来たんだよ」
「ふざけるなっ、幾松殿のラーメンにそこまでの価値はッアツ゛ゥイ!!!」
桂くんの言葉の途中で、彼に向かってそれはそれは熱そうなスープがぶっかけられる。女店主の名前は幾松さん、と言うらしい。桂くんは身を悶させており、その姿は彼がいつもいう武士や侍などとは程遠いのではないかと疑問に思ってしまう。
「マジだよ、超ラーメンが食べたかったんだよ」
「…名前、何故高杉と共にいる」
重みのある声だった。彼の表情もいつの間にか険しいものになっていて、おしぼりで全身を吹いている動きがなければ、私はその迫力に言葉を詰まらせていたかもしれない。ほんと昔からかっこつかないな、この男は。高杉くんは何をやってもかっこつくのに。
「お前に血は似合わん」
桂くんは言う。
「花とあやとりが好きだっただろう。それだけじゃない、俺たちのためだと医学を学んでくれた。高杉の傍は危険すぎる。…今からでも遅くはない。真っ当に医者を目指せ」
子供を叱るような、諭すような言い方だった。高杉くんと一緒にいちゃいけませんよ、と言っているのだ。彼は私の身を案じている。昔から人の身を真っ直ぐに心配できるような、優しくて出来た男の子だった。けれど私は、その思いに応えることは出来ない。きっとそれは、桂くんだってわかっている。わかっているけれど、私と顔を合わせてしまった以上、そう言わなければならないのだ。
「やーだよ、高杉くんと仲ヨピだもん」
「仲ヨピ?待て、仲ヨピとは何だ、仲良しとは違うのか。一線を超えているとでも言うのか、高杉とヨピヨピしてるとでも言うのか?!」
「あ、うん思った以上に拗れちゃった」
たかがラーメンを食べにきただけなのに、彼に気を遣わせてしまって申し訳ない気持ちになった。だからこそ、ここはひとつ冗談めかして場を収めようとしたのだが、彼はなかなかツッコミというものができないらしい。高杉くんはボケが出来ないけど。ごめんごめん、と軽く謝ったところで、ラーメンが出てきた。アツアツの醤油ラーメンだった。箸を手にとって、いただきますと手を合わせた。
△
「ヅラにでも会ったか」
私がただいまを言う前に、高杉くんはそう言った。え、こわ、エスパー?と疑問が湧いたが、彼はどうせ「匂いでわかる」とか一歩間違えたらフェチズムを疑うようなことを平気で言うのだ。考えることも面倒になり、私は大人しく頷いた。
「うん、ラーメン食べようとしたらなんかいた」
「…何か吹き込まれでもしたか」
「高杉くんの傍は危ないよ!真っ当に医者目指せ!…って言われた」
多少語気を強めに、オーバーめにふざけて伝えたのは、私が彼の言うことに従うつもりは毛頭ないことを示したかったからである。ここで深刻そうに言ってしまうと、きっと高杉くんだって、え?名前鬼兵隊抜けんの?マジで?と思ってしまうに違いない。いや、嘘だ。多分普通に斬られそう。
「ヅラの言うことは間違っちゃいねェさ。俺達と違ってお前は戦に生きた訳でもねェ、俺に着いてくるなんざ、ヅラも思ってもみなかっただろうよ」
私が悶々と馬鹿な考えを巡らせていると、高杉くんは煙管をふかしながらそう言った。そしてクク、と噛み殺すように笑って、片目で私を見た。
「それで?お前はどう答えた」
「普通にやだよー、って」
仲ヨピのくだりを高杉くんにする気は起きなかった。高杉くんに冗談を言ったところで、目つきがさらに悪くなるか、黙って煙が流れるのを見る羽目になるからだ。そう思って私は特別なことは言わなかった。彼はそこで興味を失ったのか、他所を向いて煙管を吸った。その横顔はとても優美で、芸術品ではないかと私なんかは疑ってしまう。彼は人間ではないのでは、と。
「高杉くんはさぁ」
思わず口を開く。そしてそのまま、ポロリと言葉が溢れた。
「死んじゃったんだよね」
勿論、今、私の目の前にいる男は高杉晋助その人である。半透明でないし足もある。影だってある。
「松陽先生が死んだときに、高杉くんも一緒に死んじゃったんだと思うよ。きっと、今の高杉くんは、たっくさん未練があってここにいる亡霊なんじゃないかな」
我ながら、失礼なことを口走っていると思った。怒られてもおかしくないことだったが、高杉くんは黙って私の言葉を聞いていた。「なら、」高杉くんが口を開く。
「その亡霊に何故付いてきた、今の俺はお前が昔一緒に遊んでた餓鬼なんかじゃねェ。よくわかっているはずだろ」
「私も亡霊だからかなぁ」
「お前が?」
そこでようやく、彼はまた私に視線を向けた。興味が湧いたのか、彼の琴線に触れてしまったのかはわからなかったけれど、私は構わず言葉を続けた。
「松陽先生と一緒に高杉くんが死んじゃって、その死んだ高杉くんと一緒に私は死んじゃったんだよ」
だから、花とあやとりが好きな私ももういないんだよ。私は一度死んでいる。高杉晋助という男を失ってしまった時点で、護るべきものを失った時点で、私と言う生は幕を下ろしたのだ。今の人生は延長線。すべてを壊さんとする彼に引っ張られて現界したにすぎない亡霊だ。
「…お前も亡霊だって言うなら、お前の未練は何だ、名前」
高杉くんが私の名前を呼ぶ。ずっと聞いてきた声だ。低くて、強くて、恐ろしい声だ。未練はなんだと。どうして高杉晋助という人物に追い縋るのか、どうして亡霊となっても生きるのか。答えなど、決まっている。私の中だけにあるのではない、高杉くんだって、桂くんだって、それにあの銀髪の彼だって、私が心に持つ感情を知っているはずなのだ。此方を見つめる高杉くんの視線から逃げるように、私は目を背けた。天井に向かう煙だけがはっきりと見えた。
高杉くんに好きって言えなかったことかなぁ。
ぽつりと、本当に小さな声で私は言う。そんな小さな気持ちが高杉くんに届くわけもなく、彼は「何だ?」と聞き返してきた。
「なんでもないよ、秘密」
安い秘密だと、私が一番思っている。ただの女である私がどうして危険な道を往くのか、どうして高杉晋助に付いていくのか。そんなものは、恋という呪いに囚われてしまったからに他ならない。戦だ仇だなんだの、そんなものは私にとってはどうでもよくて、ただ私は、女として、好きな男と共に死にたいと願っているだけの浅はかな女なのだ。
きっと高杉くんはもうすぐに死ぬ。寿命を全う出来る生き方はしていないのだから。その時、私も一緒に死のう。今度こそは、亡霊などにならずに、一緒に死にきろう。そして、先生に会って、あの日のように「仲良しですね」と言ってもらおう。
煙を視界に入れながら、私はただ夢見た。
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