子供の頃に思い描いていた大人は、母のような人であり、先生のような人でもあった。人を育て学ばせ、時に叱り道を正すような人。
自分も年を取れば自然と貫禄が身につき、自他ともに大人になれると思っていた。やりがいを感じながら仕事をし、暁にはお酒を嗜み恋人と笑い合うような日常。しかし、そんなものが幻想と気づいたのは自分の年が20を超えた瞬間だった。
成人したところで、何も変わらない。時計の針が12を跨いだだけのこと。時計はただ自分の役目を全うしているにすぎず、私にとって誕生日は、世界から見れば何でもない只の平日でしかない。
自然と大人になれると思っていた過去の自分は、未だに私の身体に縋りついている。
そんな思いを何度か繰り返した頃には、上京先の江戸の町並みも大分見なれ、最初は畏怖していたかぶき町のネオンを、眩しく感じることもなくなった。
今日も別に、普通に嫌な一日でした、まる。
あれ作文?
かぶき町を通ると会社から家までの道のりは短縮できるため、仕事帰りにはいつもギラついた道を通る。私の疲労した心と身体などつゆ知らず、無情に街は輝く。
家に帰る足取りが重い。家に帰ると会社に行かなきゃならないから。8時間後の自分は反対方向にこの道を歩いているのだと思うとため息が止まらなかった。自分のつま先を見ると靴が少し削れて色が剥げており、一層気分が沈んだ。
とん、と肩が人とぶつかる。あ、と小さな声が漏れた。
「すいません…」
顔を上げてぶつかってしまった人を見れば、整った顔立ちをしている女性だった。美容室帰りのような綺麗な黒髪が風に揺れていて、紫色の上質な着物ですら、凛々しい顔立ちの引き立て役のように見えた。
ーこういう人は人生得してるんだろうなぁ。
生産性のないことを無駄に考えてしまう。
謝らなきゃ、と私は口を開く。しかし、黒髪の美人が喋る方がはやかった。
「いや、こちらこそ」
「え」
その声は女性のと言うにはあまりにも低いというか、ハスキーというか、男性の声にとても近い声であった。しかもいい声。花も遠慮するような美人からかけ離れた声で、足が止まる。
「かまっ娘倶楽部…?」
黒髪の美人は看板を掲げていた。木製の板にマジックペンででかでかと「かまっ娘倶楽部」「オカマ最強」と書かれているそれは、目の前の美人の性別が男であることを示唆していた。
「む、君。随分世を憂いている顔をしているな」
「あ、はい、すいません」
邪な考えが顔に出てしまったかと思い、咄嗟に謝る。
「そんなに世を憂える人は早々いないぞ。もうほんと、すごい憂いているな。憂いの才能がある」
「はあ」
いや憂えるってなに。憂いの才能ってなに。
見た目の凛々しさとは反対に奇妙なことを言い出す目の前に人間に、私は疑問符を浮かべることしかできない。
「どうだ、一発」
「結構です」
美人は看板を私に突きつける。いわゆる客引きと呼ばれる行為に顔を背ける。こちらはお酒など飲んでいる暇はない。その上、外見こそ美人だが同時に怪しさを持つこの人についていくのは、私の20年とちょっとの人生がやめておけと言っている。
「そう言うな、いろいろと悩まし気な顔をしているぞ。そういうときはオカマに相談しておけばなんとかなる」
「オカマは普通のこと言ってても、溢れ出る貫禄でいいこと言ってるぽい風になるんですよ。オカマが人生の核心つくみたいな、幻想でしょ」
「何ィィイ貴様武士を愚弄するか!!!」
「いや愚弄してんのは武士じゃなくてオカマ!!というよりあなたですけどね!!」
何この人こわい。サイコパス?
急に武士だのなんだのと声を荒げはじめるあたり、やはりかぶき町にはまともな人間はいないのだと痛感できる。端から見物する分には困らないのだが。いざ自分が対峙すると面倒なことこの上ない。
「それ相応のサービスはするさ。舞踊だけでも見ていけ」
「え、っちょっと…」
腕を掴まれ、店内に引っ張られる。中は全体的に桃色にライトアップされており、いかにもな雰囲気だった。奥にあるステージのような所はさらに光っている。煌びやかではあるものの、同時に妖しさも感じてしまう。平日であるからかそこまで客の入りは見受けられないものの、とんでもないところに入ってしまったのでは?という思いが湧き上がる。
「あの、客引きさん。私やっぱり…」
「客引きじゃない、ヅラ子だ」
美人は至極当然という表情で答える。
やはり、この人は少し変な人なのかもしれない。帰らせてはくれないようだ。
こうなれば、一杯だけ飲んで早々に退室する方が賢明かもしれない。
私は連れられるがままに座卓についた。
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