今日もいつものようにバーで働くキルティの姿があった。気さくな常連たちと笑いあったり、時には下らないことで勃発する喧嘩の仲裁をしたり。あの騎士団、いや、彼女にとっては最早クズの集まりとしか思えないのであろう──そんな騎士団共が現れて以来、いつもと何も変わらない日常が戻ってきた。 そう、日常が戻ってきたのだ。彼女はそう思いたかった。否、思い込みたかった。 「…何」 「何って、酒飲みに来た」 「そう」 「なあ、毎日この会話から始まるオレらってどうよ」 「どうも思わないけど」 「たまには、来てくれたのー?とか可愛らしく…」 「わーっ来てくれたのー」 「…棒読みですよキルティさん」 しかし現実はいつだって手厳しい。いつもと変わらないと思っていた日常に、一つだけ変わってしまったことがあった。 キルティは今日何度目か分からない深い溜め息をつく。 変わってしまったこと、それはできれば今すぐにでも追い返したい常連客が一人、増えたこと。 「なぁ」 ユーリが一杯目のグラスを空にした時だった。頬杖をつきながら、カウンターの向こうにいるキルティに言葉を投げ掛けるユーリ。紫の瞳はジッとキルティを見るが、一向に視線が交わる気配はない。 「…何」 しかし。大分素っ気ないが、しっかりと言葉は返ってくるわけで。洗われたグラスを拭くキルティとは未だ視線は交わらないが、ユーリは思わず微笑を浮かべた。 「なんでここで働いてんの?」 ちらり、とそこでやっとキルティの空色の瞳がユーリの紫の瞳と視線を合わせた。どこで働こうが私の勝手でしょう、と言いた気な瞳はすぐに拭き掛けのグラスへと視線を移される。キルティはそれを実際口にすればまた面倒なことになるだろうと、開きかけた口を閉じたのだった。 そして拭き終えたグラスを並べながら、キルティは渋々その問いに答えるべく口を開く。 「恩、」 「?」 「恩返しよ」 へぇ、誰に?とユーリはキルティの話に興味を示す。 「オーナー…両親を殺されて身寄りのなくなった私によくしてくれたの」 「!」 途端に顔を歪ませて、悪いと一言呟いたユーリ。そんならしくないユーリに、並べたグラスをぼんやりと眺めながらどうしてあんたが謝るのよとキルティは苦笑した。 「だからここで働いて、オーナーに少しでも恩を返したいの」 「キルティ、」 「そうだ、」 ハッとキルティは何かを思い出したかのようにユーリに微笑んだ。 いつもはキレられたり睨まれたり、もちろん自分が悪くないとは一概には言えないが──キルティにそんな表情以外向けられたことがないと言っても過言ではないユーリは、彼女の不意な笑顔に僅かばかり心臓が跳ねる。 「あんたも一応、常連だからね。今日はいいもの見せてあげる」 「なんだ?キルティのヌー…」 「それ以上言ったらどうなるか分かるわよね」 「冗談だって」 さっきの笑みがまるで嘘だったかのように、キルティはユーリを睨む。 そして小さく溜め息をつくと、ユーリの前に綺麗な空色のカクテルを差し出した。 「この前のお礼。まだしてなかったから」 「へぇ、以外と可愛いところもあるんだな」 「…いらないのね?」 「いえ、いりますいります」 本当食えない奴、と肩を竦めながらキルティはカウンターを出る。それを視線で追いながらユーリは小さく首を傾げた。 「どこ行くんだ?」 「黙ってそこでカクテルでも飲んでなさい」 颯爽と店の奥へと消えて行ったキルティになんだよ、とユーリは不貞腐れながらも先程差し出されたカクテルを眺める。 まるでキルティの瞳と同じような綺麗な空色。飲むのが勿体ないな、と小さく零した。 「ユーリさん、でしたかな」 「そうだけど」 「先日はありがとうございました。ここのオーナーです」 ああ、とユーリはカウンターへと入ってきた中年の男性を見る。見るからに温厚そうな人だ。キルティが消えて行った扉の方を見ながらユーリは頬杖をつく。 「あんな騎士団に真っ正面から突っ掛かかる大胆娘の世話、大変じゃないか?」 「ふふふ。そうですね…でも」 「でも?」 オーナーは微笑んだ。ユーリの言葉に納得はしてみせたものの、その柔らかい表情からは苦難という文字すら見当たらない。むしろ幸せの方が近いような──。 「自分の本当の子供のように思っていますから」 だから余計心配にもなるんですけど、と今度は苦笑するオーナー。その気持ちは分かるぜとユーリも同じように苦笑した。 「そういえばユーリさんは今日が何の日かご存知で?」 「いや?いつもより客が多いなとは思ってたけど」 「ではお楽しみいただけると思いますよ」 意味深な笑みを浮かべたオーナーに、ユーリはどういう意味だと問い掛けようとした時だった。 「待ってたぞ!」 「キルティ!」 途端に熱気に包まれたバー。自分の声も聞き取れないくらいに盛り上がり始めるそれに、思わず呆気に取られたユーリは一つだけ気になった単語を耳にした。 「キルティ…?」 キルティがどうしたんだよ、とみんなの視線の向かう先を辿ってみる。 しかしもみくちゃになる視界、まるで焦らされているような感覚に煩わしさを覚えたユーリは、咄嗟に席を立つ。刹那、紫の瞳が目一杯に開かれた。 「キルティー!」 そう、それは小さな舞台の真ん中。 白い肌を強調させる漆黒のマーメイドドレスに身を包み、麗しい淡いピンクの髪をふわりと揺らす。それは紛れもないキルティだった。 空色の瞳は汚れを知らないかのように透き通っていて。形の整ったピンクの唇はゆっくりと笑みを浮かべる。 そして、その唇は言葉を音楽に乗せて紡ぎ始めた。 「……」 さっきまで熱烈な声援が飛び交い、鼓膜が破れるんじゃないかと心配するくらい煩かった店内がまるで嘘のようだった。ごくりと、生唾を呑む。瞬きさえも惜しいくらいに皆が皆、キルティに魅入る。 言わずもがな、ユーリもその中の一人で、いつもとは違うキルティに驚きを隠せずにいた。 今のキルティを表現できる言葉があるとすれば── 「綺麗…」 誰かが無意識に呟いた。しかしその言葉でさえも到底足りないくらいに甘く、透明な声で歌う彼女は美しかった。 いつもとは全く正反対な彼女。今はあんな綺麗な唇から毒が吐かれることを、あんな透き通った空色の瞳が鋭くなることを、思い出すことすら出来ない。 「あーこんなん柄じゃねぇよ…」 思わず席に座り、頭を抱えてキルティから視線を外すユーリ。俯いたその顔は真っ赤で熱を帯びていて、その熱を冷やすかのようにユーリは空色のカクテルを一気に飲み干す。 その時やっと、オーナーの意味深な笑みの意味が分かった気がした。 それは美しきディーヴァのようだった (20120216) |