それは10年前のこと。それはガイアスがまだ完全実力主義の部隊、トロスを結成する前…自らの字をガイアスと名乗り始める前。そして彼がレティに手を差し伸べたあの日からひと月ほど経った時のことだった。



「…っ!?」



カシャン、と地とぶつかり特有の金属音をさせた銀の刃はレティの手からこぼれ落ちたものだった。その銀にはレティの周りで既に息絶えている魔物の血がべっとりと付着している。レティは信じられない、否信じたくないとぎゅっと目を瞑った。

震えが止まらない、変な汗が次々と噴き出す。この感覚、またファイザバード会戦の時と同じだ。

嫌だ、私、そんな──



「レティ!」



レティは遠くの方で自分の名が呼ばれているような気がした。しかしこの時のレティには、それを確かめる余裕さえもあるはずがない。生温かい血がレティの服に滲む、誰もが口を押さえるような血生臭いこの場で平然など保っていられるはずがなく。彼女は自分の震える手と悲惨な姿をした魔物を交互に見ながら何度も首を横に振り続けた。

違う、私は、もっと殺したいなんて、殺すのが、楽しい な んて そんな、



「やああっ…!!!」



こんな下卑た気持ちを認めたくないと、レティがひたすら意味もなく叫び続けたその時。彼女をふわりと後ろから抱き締め、震える両手を優しく包み込む一人の男。恐る恐る振り向く彼女の蒼の瞳からは溢れる涙。その揺らぐ視界には見知った黒髪の姿があった。



「落ち着け、レティ」



低いその声はレティに言い聞かせるかのように、静かに呟かれた。赤い瞳が狂気に塗れたレティの蒼の瞳を見つめる。安心しろと訴えかけるその瞳に、アーストの両手に包み込まれたレティの手の震えは気付けば治まっていた。そしてとくんとくんと、背中で感じるアーストの心地いい鼓動にレティはやっとのことで冷静さを取り戻し、やがてぽつりぽつりと呟き始める。



「アースト、私…」

「…悪かった。お前を一人にしてしまって」

「違う、違うの、私…」



ぎゅっと、アーストの手を握りレティは俯いた。

剣を持った途端、何とも言えない殺人衝動に駆られた。斬る度に血しぶきをあげ、強烈な痛みにもがき苦しむ魔物を見て快感を覚えた。信じたくはないけれど、この思いはファイザバード会戦の時より増している。嫌、私、このままだと、きっと──



「アーストを、殺したい、と思うかも、しれない」



ゆらゆらと揺らぐ蒼の瞳からまた一つ、一つと流れ落ちる涙。アーストは心底後悔した。戦闘部族の出といえどまだ自分と歳もあまり変わらぬ子供、本当は剣など物騒な物を持たず、両親の愛を受けて遊び駆け回りたい年頃だろうに。
それなのに彼女にはもう両親どころか同じ部族のものすらいない、現況は戦ばかりでいつも張り詰めた空気が漂っている。これでは彼女も──

アーストはレティの涙を自分の指の腹で掬い、そして更に強く抱き締めた。



「レティ、今後はもう戦わなくていい」

「え…」

「お前をこれ以上傷つかせたくない」



レティは一度大きく目を見開く。しかしそのアーストの言葉を否定するように強く首を横に振った。それに今度はアーストが驚いたようにレティを見る。

何故お前は戦うことを否定する?こんな辛い思いをしてまで一体お前は──…



「私は…戦うよ、アーストが戦う限り」



その声は恐ろしく凛としていて、本当に10歳のか弱い女の子とは思えないほどの声色だった。



「例え剣が握れなくても、まだ他に戦う方法はある。だからお願い、アースト」


「私を、貴方の傍に置かせて」



悲願するように泣きつくレティの泣き顔はやはり歳相応のもので。アーストは頷くことも首を横に振ることもできぬまま、ただレティを抱き締めた。あの時、生き残った彼女を救う術は自分が手を差し出すことだけだった。あのままにしていればきっと彼女は、絶望の果てに自害した。かといってこの選択が本当によかったのか?出せるかも分からないその答えにアーストは眉を寄せて俯く。



「レティ…」

「…ごめんね、もう泣かないから。これで最後にするから…」



ぐい、と自分の腕で荒々しく涙を拭きとりレティは大丈夫と呟く。

彼女には、一つの決意があった。

それはこの先、どんな事が待ち受けていようとも自分を救ってくれた彼、アーストの力になること。彼の正義を信じ、彼の望んだ世界の在り方にしたい。それで自分が傷つこうとも構わない。

何故ならアーストは自分の光であり、そして自分が迷わないようにといつも導いてくれる大切な人だから。


そう、だから──






「レティ」



レティは静かに、目を開いた。いつも見慣れた天井に、自分の名を呼ぶ低い声。10年前よりも幾分大人の風格が増したその声に、彼女は静かに身体を起こす。

ああ、随分と昔の夢を見たみたい…



「ガイアス…」



ベッドの端に座り、何も言わずただレティの飴色の髪を撫でるガイアス。レティが捕まったあの日から、一週間が経った今。ガイアスはレティの傍をできるだけ離れないようにしている。

好きな人と少しだけでも一緒にいられて嬉しいはずなのに。罪悪感にズキン、と痛む胸。レティはそれを押し殺してギュッと彼に抱きついた。


今まで彼の為に生きてきた。そしてこれからも彼の為に生きていく。それはきっと永遠と変わることはない。そう彼の為なら、私は何でも成し遂げてみせる。私が考えなければいけないのは自分がどうしたいかじゃなく、彼の為にどうするか、だ。

だから私が彼の重荷になると痛感させられた今、やらなければいけないことはもう決まっている。私はガイアスのために──



震える唇を噛み締め、蒼い瞳を伏せるレティ。どうかこの想い、気付かないでいてとガイアスの肩口に顔を埋める彼女の細い手は、微かに震えていた。




私は、覚悟を決めなければならない


(20111022)





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