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I love it very much
from the heart.


 カーテンを隔てて、ほろほろと淡い光が差し込んできた。
 鳥のさえずりが朝のしじまに響き渡る。控えめなエンジン音が、途切れ途切れに遠ざかっていく。
 それらを意識の淵で捉えながら、クラウザーはゆっくりと瞼を持ち上げた。どこか心地よい痺れと重みが、じんわりと右腕に広がっていく。寝惚けまなこに映ったのは、光に透けた髪とあどけない寝顔。

(……いつ見ても、子供くさいな)

 すやすやと眠るハルの顔を目にする度に、つい口もとが綻びそうになる。クラウザーの腕に頭を預けて、無防備な素顔をさらす様は、まさしく子供そのものだった。
 肌触りのいいコンフォーターから、細い肩が寒寒しくはみ出ている。それを認めて布団を引き上げてやろうとすると、その下にある肌にふいと指が触れた。
 一瞬の、掠めるほどの接触に過ぎなかったが、昨夜の柔らかな感触が鮮やかに蘇ってくるようだった。触れたい欲求がじわりと込み上げる。

 それに逆らう気は、起きなかった。

 小さな身体をおもむろに引き寄せて、光が戯れるきれいな髪に指を絡めた。そこから漂うほのかな薔薇の匂いが、クラウザーの鼻腔をくすぐる。すこやかな寝息に耳を澄ませば、慈しむような気持ちが心の奥底から滲み出てくる。
 いつもより、少し無理をさせた。今日のブランチは彼女の好きなものばかりを作ってやることにしよう。
 ひそやかに決めながら、今度はそっと頬を撫でる。
 すると長い睫毛がふるふると震え、春色のくちびるが緩やかにほどけた。声の切れ端のような音が、そこからかすかに零れ落ちる。

(──起きたか?)
 
 咄嗟に手を宙にやり、慎重にハルの様子を窺がう。
 まだこの時間に浸っていたいと、それこそ子供っぽい望みを抱いている自分に気づき、苦笑いを浮かべそうになる。

「……ハル? 起きたのか?」

 いつまでも瞳を開かない瞼に、確かめるようにして唇を寄せた。しかし返ってくるのは、「んー…う」と甘えるような相槌だけ。いや、これは返事ではなく寝言だ。

「ねむい」

 ……寝言だ。
 今寝てるだろうが、と突っ込みたくなるのを堪え、クラウザーは未だに夢を結ぶ彼女を静かに見守った。悪戯心が囁くが、寝言に返事をする事はしない。只でさえ疲れているだろうに、脳に刺激を与えるのは気が引ける。

「それ……本棚、のうえの、うえ」

 むにゃむにゃと意味不明なことを云っているだけなのに、何故か変に微笑ましい。
 覚醒する気配がまだないのを良いことに、ふたたび頬に手をやった。掌で包み込むようにして撫でる。するとハルは、すり、と自ら頬べたを寄せてきた。
 不覚にも、心臓が軽く跳ねる。
 そうして次に、吐息だけで「ふふ、」とほほ笑まれて、そのおももちの無邪気さに軽い眩暈を覚えそうになった。

(……本当は起きてるんじゃないのか?)

 そんな真似をされたら、キスしたくなるだろう。
 だが、寝込みを襲うような真似などはしない。自分はもういい大人で、青臭いガキではないのだ。
 そう云い聞かせながら、クラウザーは自身の掌にひっついている頬を愛撫した。化粧を刷かぬその素顔は、屈託ない笑みと相俟って、やはり子供っぽくあどけない。面と向かって告げると拗ねるので、二度目以降は口にしたことはないが。

 その時のハルの膨れっ面を思い出し、クラウザーは吐息で笑った。
 そんなお前が好きなんだからいいだろう。素直に云えない言葉を、胸中で穏やかに漏らして、やわらかな頬を軽く摘まむ。好奇心に背を押されてすこし引っ張ってみると、思いのほかよく伸びたので、笑い声を噛み殺す破目になった。

 ああ、甘噛みしてやりたい。そんな小さな欲望を湧き立たせていると、

「ん……クラ……ザ」

 頬を摘まんでいる指を、しなやかなてのひらに握られた。
 その挙動と、その唇から零れ落ちた言葉に、ふたたび心臓が波打つ。
 擦れた声ではあるものの、ハルは確かに呼んだ。クラウザーの名を。
 そして色づいた唇はまだ何かを唱えようとゆっくり動いて、

「すき」

 みじかく愛おしそうにそう紡いだ。

 ──おい、こいつ本当に寝てるのか?
 喩え難いむず痒さに、首から顔がかっと熱くなる。たまらず自分の顔面を覆いたくなったが、繊細な手のひらはまだ重ねられたままで、振り払うことが躊躇われた。

(……くそ、この小悪魔が)

 そんなに喰われたいのか。
 労わる気持ちもどこか彼方に追いやって、クラウザーは恨みがましく目を眇めた。しかし肝心の本人は、未だにむにゃむにゃと幸せそうに眠っている。ああくそ人の気も知らずに、全くもって憎たらしくかわいい。
 翻弄されている心地になりながら、クラウザーはしろく透けた頬をもういちど摘まんだ。今度はさっきよりも心持ち、力を込めて。
 すると「ぅう」、と細い呻き声をあげて、ハルの瞼がぴくりと動いた。
 立派な安眠妨害をしている自覚はあったが、煽ったのはハルだ。そんな大人気ない理屈を捏ねつつ、クラウザーは彼女の耳朶に唇を寄せた。

「朝だぞ、ハル」
「……んぅ」
「喰っちまうぞ」

 啄ばむように、耳の淵にやわく歯を立てた。
 これにはハルの意識にも刺激がいったようで、ぴくっと跳ねると、彼女は気怠げに瞳を開いた。重たそうな瞼の下から、とろんとした視線を向けてくる。

「あ……うん。なに、食べる? ごはん?」

 さっきの言葉に対しての台詞らしい。
 寝惚けてはいるが、寝言ではない。微苦笑とやや意地の悪い微笑とを織り交ぜた器用な表情を浮かべ、クラウザーは彼女の髪をそっと掻きあげた。

「起きたか?」
「んー…、……あれ? やだっ、わたし裸っ…」

 服を纏っていない違和感にはっきりと目が覚めたようで、ハルはあたふたと顔を赤らめた。今更恥ずかしがっても、クラウザーはこれまでに何度も眺めているのだが、彼女としてはどうしても羞恥が沸き起こるらしい。
 普段のクラウザーであれば、呆れか揶揄かを含んだ笑みを向けていたことだろう。
 しかし今に限ってそんな態度を取られると、我慢が利かなくなる。

「……ハル」
「っな、なに?」
「涎が垂れてるぞ」
「えっ! やだっ、」

 頬をいっそう紅潮させて、ハルが手の甲で口もとを拭おうとする。その動作を先読みしていたクラウザーは、自由の利く手ひとつで華奢な手首をふたつ掴み、すばやくシーツに縫い止めた。
 この突然の展開に、寝起きの頭ではついていける筈もない。ハルは赤く染まった頬のまま、困惑に揺れた瞳をクラウザーに向けた。

 ──ああ、だからそんな顔をするなと云うのに。

 頭の片隅でそう思いながら、クラウザーは噛み付くように唇を合わせた。
 瞠目にまんまるとなった瞳が網膜にちらりと触れる。それを横目に、湿った舌で唇をなぞり、抉じ開け、待ちうけていた歯列を丁寧になぞった。お互いの唇の縫い目から、くぐもったハルの声が漏れる。その熱っぽい声色に、背筋がぞくぞくするのを感じた。
 口腔の奥深くまで舌を入れ、途惑いに引っ込んだハルの舌を絡め取る。すると、しなやかな身体から力が抜けていくのが分かった。

 角度を変えながら何度も味わった後で、クラウザーはようやく唇を離した。
 生々しく光った透明な糸がふたりの間を繋いで、ぷつりと途切れる。
 顔を離したクラウザーは、ハルの唇の端から唾液がつたっているのを見て、今度はそこに舌を這わせた。弱弱しい拒否を無視し、溢れたそれを舐めとってやる。
 その行為も終えてふたたびハルの顔を見遣ると、肌は赤く熟れ、艶めかしい表情をしていた。熱を帯びた吐息が、清潔な朝の空気のなかに不健全な雰囲気をもたらしている。
 潤んだ瞳は、なにか物云いたげにクラウザーを見詰めていた。視線で抗議しているのか、怒っているのか、睨んでいるのか。判別はつかないが、いずれにしろ逆効果でしかないことは確かだ。
 
「そんな顔するな。ちゃんと拭ってやったぞ」
「っ……い、今のは、ジャックのせいっ……」

 さっきの、嘘だったのね。掻き消えそうな声で云う彼女に、普通は騙されんだろうと返すと、「だってそんなウソ、ついたことないもの!」と恥らいに染まった目じりで訴えてきた。
 純粋な切り返しに、穏やかな苦笑いが零れ落ちる。

「そうだな。だが、悪いのはお前だ」
「な、なんっ」
「抱かせろ。我慢できん」

 遮るように吐いた台詞のなんと余裕のない事か。
 自分はもういい大人で、青臭いガキではない。この言葉は撤回しなければならないだろうか。だが辛うじて寝込みは襲っていないし、そもそも惚れ込んだ女にあんな真似をされて、平常心を保てる男がいるのかと訊きたい。

 ──けれども、

 クラウザーは狼狽えているハルの頬に手をやって、できうるかぎり、やさしく撫でた。

「嫌なら無理強いはしない」

 己の欲望だけを貫き通すことはしたくない。
 ハルが本気で拒否すれば、おとなしく手を引こう。我慢できないとは云ったが、無理矢理事に及ぶほど、自制心の欠片もないわけじゃない。それこそ、自分はもういい大人だからだ。

「…………掃除と、洗濯が……」

 ややあって囁かれた声に、強い抵抗の意はみられなかった。
 彼女の頬を撫で、髪を梳かしてやりながら、クラウザーは双眸を細めた。

「全部俺がやる。当たり前だ」
「……料理、」
「お前の食べたいものを、何だって作ってやる」
「……」
「何が食いたい?」
「………………クラムチャウダー」

 蚊の鳴くような声で口にする様が、なんともいじらしい。
 これで行為に及ぶことへの返答はもらったも同然だが、クラウザーは彼女の緊張を少しでも解してやりたくて、話を続けた。

「ああ、分かった。他には?」
「……あと……あとは、その……」

 ハルはいちど視線を逸らし、次には恥らった頬のまま、クラウザーを見つめて云った。

「もういっかい、キスしてほしい」

 つぶらに濡れた瞳で、甘えるような口調で。
 維持していた理性も、繋ぎ止めていた余裕も、あっけなく崩れ溶けてしまった。

 ──こいつには、かなわんな。

 身を焦がすような情愛に衝き動かされて、クラウザーは熱烈にその唇を食んだ。
 背を撫でるしなやかな腕、光に透けた髪と薔薇の香り、甘く漏れるこえ、やわらかなからだ、命の熱。
 すべてがこの腕の中にあることが、どうしようもなく。


いまなおいとしい

20121126
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