大貝獣物語



凍える風にごわりと皮膚を撫でられて、ハナミは思わず「寒い」と呟いてしまった。陽射しのつよい昼時にもかかわらず、身体はぶるりと震え、肌は瞬時に粟立ってゆく。

「大丈夫か」

普段はほとんど抑揚のない声が、微かにではあるが、気遣うような色を滲ませていた。
冷たさに痛む鼻、その上までを外套で覆うと、ハナミは「はい」と照れたように笑う。

「大丈夫です。ちょっと風が冷たかっただけで」
「……やはり、カズマ達と待っていた方が良かったんじゃないのか」

心配させまいと微笑むハナミを見遣って、キラーの双眸がわずかに細められる。
どうやら彼はこの寒さが然程気にならないらしい。いつもの、肩が剥き出しになっている青の衣裳。その上から外套を羽織っているだけの、極めて簡素な格好だというのに。
無駄のない筋肉が凍えるような冷気も撥ね退けてくれるのだろうか。頭の片隅でぼんやり考えつつ、ハナミは首をゆるゆると横に振った。

「いいえ。ちょうど外に出たかったので、嬉しいです」
「……そうか。ならいいが」

何かを思索するように、涼しげな目がつと細まった。しかしそれは瞬く間に普段の鋭い輪郭へと戻り、ハナミの視線から逸れる。
キラーが正面に向き直ったのをみると、ハナミもそれに倣って視軸を戻した。外套に埋もれた頬は、気に掛けて貰ったことへの嬉しさで綻んでいる。

彼は寡黙だ。
そのうえ、深く被った帽子と目元までを覆う口布のせいで、ポット曰く「近寄りづらい」印象を与えている。

しかし、異世界からやってきたハナミにとっては命の恩人だった。魔物に襲われそうになったところを救われたのだ。この世界に来て日はまだ浅いが、ハナミは目の前の青年が血の凍った人間ではないことを知っている。元は暗殺者であるということも知っているが、それを踏まえても、だ。
今回の買い出しも、一緒に行くことを駄目元で願い出てみたら、意外にもすんなりと同行を許してくれた。

彼のことはあまり深く知らないけれど、でも、少なくとも冷たいひとなんかじゃない。


活気のある白昼の街では、とにかく人の波が凄まじい。
まだこの世界の地理を把握していないハナミにとって、迷子になるという事はすなわち路頭に迷うということにも繋がり兼ねない。街のざわめきを潜り抜けながら、ハナミは青年の姿を決して見失わぬようにと、次の店へ向かう大きな背中にぴったりとついて行った。
メンバーに頼まれたものを順々に探してゆく彼の手際の良さには、傍から眺めているハナミとしては感嘆してしまうものがあった。
元は暗殺を生業にしていた人である、という事を考えると、店の人とのやり取りがなんだか微笑ましい光景にも映る。

「ぼんやりするな。はぐれるぞ」

ひっそりと笑んでいる時に声を掛けられたものだから、

「は、はい!」

語尾の調子がいささか引っ繰り返ってしまった。
それに不思議そうな表情を浮かべてから、キラーはふっと静かな笑みを洩らす。
不意に向けられたそれが予想外に柔らかなものだったから、ハナミはついつい目を瞠ってしまった。
瞬きを繰り返すハナミに、キラーは我に返ったようになって、どこか気まずそうな様子で顔を逸らした。それから、「行くぞ」と簡潔な言葉だけを口にして、ふたたび歩き始める。その歩調が心なしか速い。みるみるうちに引き離されていく。
人だかりの中に吸い込まれるようにして進んでいくキラーに、「ま、待ってください!」、慌てたハナミは小走りになる。
すると彼の歩みはぴたりと止まり、口布越しに溜め息を吐いたのが分かった。

……あ、面倒な奴だって思われたかな。

微細な吐息でもしっかりと耳に届いて、ハナミは申し訳無さのあまり視線を下げる。
今回の買い出しも半ば無理を云って連れてきてもらったようなものなのに、何の役にも立ってないうえ足も引っ張ってるようじゃ、そう思われても仕方がない。
ひょっとしたら、街に着く前の「待っていた方が良かったんじゃないか」は、心配ではなくて辟易したが故の発言だったのではないか。

……う。その可能性は十分に有り得る。

ほの暗くなる胸を押さえていると、途端にぐいっと腕を引かれて、ハナミは顔をあげた。

「あんたとはぐれたら、あいつらから小言を食らう」

視線はハナミから逸れたままで、キラーはぼそりと呟く。
ハナミは目をぱちくりとさせ、のちに、左右に緩んでしまいそうになる唇をぎゅっと結んだ。
暫らくそのまま歩いていたが、掴む箇所が腕では歩きづらかったのか、彼の掌がおもむろに手首まで下がってくる。袖と手袋の間だ。そのぶぶんだけは外気に触れていたため、彼の体温が思いのほか熱いことに、ハナミは少しびっくりした。
しかし相手はハナミ以上にびっくりしたようだった。

「……おい」
「はい」
「大丈夫じゃないだろう」
「はい?」
「手首が冷たい。どこが大丈夫なんだ」

人通りがまばらになったところで振り返った彼の顔は、心なしか険しい。口調もどこか咎めるようであったものの、ハナミはすぐに彼が心配してくれているのだと察した。
場違いかもしれないが、嬉しくなった。

「大丈夫です。心はぽかぽかなので」

冗談半分、本気半分で云ったら、小さな溜め息が聞こえてきた。
あ、たぶん今度は呆れられた。
ハナミが思っていると、風に浚われそうなほどの微微たる声が降ってきた。

「あんたと居ると調子が狂う」

感情の読めない声だったので、ハナミは咄嗟に言葉を返せず、彼の顔を窺おうとした。
多分、無表情か呆れかのどちらかだろう、と思ったから。視界に飛び込んできた、まばたきをする目の輪郭が存外に柔らかだったのを見て、ハナミは声を掛けるのも忘れてしまった。──何だか今日は、予想外のことばかりだ。
ハナミをいちど見下ろすと、キラーはまたすぐに視線を戻した。

「すぐに終わらせてすぐに帰るぞ」
「は、はい!」
「それから次は、もう少し厚着しろ」
「は、はい」

これ以上ないというくらいに着込んできたつもりだったのだが、ハナミは素直に返事をした。
そんな会話を交わす間にも、キラーはふたたび雑踏の中に足を踏み入れてゆく。
移動している間、ずっと、彼の手はハナミの手首から離れなかった。やわらに握られている箇所は、自分とは異なる熱のおかげで温まっている。


でも、みんなの元に帰るまでには離れてしまうんだろうな。


彼の手の甲を眺めながらぼんやりとそう考えたら、ほんのすこしだけ、まだ帰りたくないなと思ってしまった。


芽生えにはまだ遠くてあどけない

20101223
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